三州吉田宿の御札降りと、ええじゃないか(2)

「渡船場諸雑記」にみる船町御札降り

平成二十二年(2010年)三月二十五日
 

《もくじ》

1.三河国吉田宿船町の御札降り
2.「渡船場諸雑記」《旧愛知県史資料》
3.「渡船場諸雑記」を読む
4.船町御札降りの問題点


※資料から引用するにあたって、ワープロにない旧字体・略字・合字などは、新字体や仮名文字に改めましたので、本書からの資料の引用は避けてください。

※引用資料・参考文献などのデータは、必要に応じて文中に入れました。

※年号と西暦の併記について。例えば、王政復古の大号令は、西暦では1868年ですが、明治五年の改暦以前の場合、便宜上、慶応三年(1867年)と表しています。
 
《吉田宿及び周辺の、御札降り・御鍬祭関係地図》
PDF版の場合、拡大表示をすると、文字がわかりやすくなります。
※慶応三年当時の推定地図です。慶応三年当時、吉田大橋は大水による流失のため存在せず、船町・下地間の渡船がおこなわれていました。
※「守上」・「守下」は、当時の土地の名称であり、町名ではありません。

 
1.三河国吉田宿船町の御札降り

江戸時代、幕末にあたる慶応三年(1867年)の吉田宿船町(愛知県豊橋市)における御札降りは、船町の郷土史家、佐藤又八(閑翠)氏の『三州吉田船町史稿』(昭和四十六年・1971年)により、知られています。

『三州吉田船町史稿』に抄録された「渡船場諸雑記」には、慶応三年六月二十一日から伊勢内宮その他の御札が降ったことが記されていますが、佐藤又八氏の誤写ではないかと日付が疑問視されることがあります。「渡船場諸雑記」は船町文庫資料の一部であり、浄土宗橋本山龍運寺に保管されていましたが、太平洋戦争の空襲によって焼失したため、原本の確認ができないことが大きな理由です。

『三州吉田船町史稿』と船町文庫資料については、《三河武士がゆく》(http://www.d9.dion.ne.jp/~hongo/index.htm)サイト内に公開中の、第一号「再考、三州吉田宿船町の御札降りと船町文庫」を参考にしてください。

 
2.「渡船場諸雑記」《旧愛知県史資料》

「渡船場諸雑記」を含む船町文庫資料は空襲で灰になりました。しかし、昭和九年(1934年)に愛知県史編纂のため謄写され、《旧愛知県史資料》として愛知県史編さん室で保管されています。私が見たものはマイクロフィルムのデータです。

平成二十年(2008年)に発行された『愛知県史』資料編19に、「416 慶応二年七月 吉田大橋流失につき東海道吉田宿船町渡船記録(抄)」(535頁)として、一部分が収められていますが、収録範囲が渡船開始の慶応二年七月三日から七月十七日までのため、慶応三年の内容を見ることはできません。

船町御札降りの記事は、慶応三年八月三日の記事の後、八月四日の日付の前に位置しています。このため、記事が書かれたのは八月三日と思われます。なお、八月三日と八月四日の記事は御札降りとは関係がありません。また、その他の箇所には御札降りに関する記事は見られません。

「渡船場諸雑記」《旧愛知県史資料》は謄写本ですので、原本での確認ができないことには変わりありませんが、愛知県史資料の筆記者が写し間違えていなければ、佐藤又八氏が原本から写し間違えたのではないことがわかります。

問題点はあります。船町御札降りと、その後の吉田宿及び周辺での御札降りや賑わいとの関連がわかりにくい点です。

「渡船場諸雑記」によれば、六月二十一日から六月二十五日の間に御札降りがあったことがわかります。次に早い、現豊橋市域で日付が明確な御札降りは、牟呂八幡宮神主、森田光尋の「留記」にみられる、七月十四日の牟呂村(豊橋市牟呂町)御札降りとなります。


※旧愛知県史資料については、《三河武士がゆく》(http://www.d9.dion.ne.jp/~hongo/index.htm)サイト内に公開中の、第一号「再考、三州吉田宿船町の御札降りと船町文庫」を参考にしてください。

 
3.「渡船場諸雑記」を読む

「渡船場諸雑記」の船町御札降りの記事は、読み方によっていくつかの解釈ができますので、注意深く読んでいくことにします。
 
■「渡船場諸雑記」(『三州吉田船町史稿』、488頁〜489頁)
慶応三年丁卯六月廿一日ヨリ伊勢内宮様御祓 猶又春日様 秋葉様御札所々へ降リ町
庄右ヱ門 彦助 久米蔵 源吉 神明之社渡船場六ヶ所へ降リ 二夜三日御備燈明ヲ献シ一日遊日御日待致シ 若キ者共俄ヲ仕組投餅マキ銭酒甘酒等往来ノ者ニ施シ
夥敷群集致候 就テハ追々隣町近村ヘモ降リ 右同様ノ事ニ御座候 渡船場へハ廿五日ニ降リ廿六日ヨリ五夜五日御神燈ヲ献シ 一日糯米一斗弐升宛 餅ヲ搗牛馬ニ施シ申候 賽銭九百九十一文有
 
■「渡船場諸雑記」《旧愛知県史資料》
慶応三年丁卯六月廿一日ヨリ伊勢内宮様御祓 猶又春日様 秋葉様御札所々江降り町
庄左ヱ門 彦助 久米蔵 源吉 神明之社渡船場六ヶ所江降り 二夜三日御備燈明ヲ献し一日遊日御日待致し 若き者共俄を仕組投餅まき銭 酒 あま酒等往来之者ニ施し 夥敷くんしゆ致候 就而者追々隣町近村江も降り 右同様之事ニ御座候 渡船場江ハ廿五日ニふり 廿六日ヨリ五夜五日 御神燈ヲ献し 一日糯米壱斗弐升つゝ餅を搗き午馬ニ施し申候 賽銭九百九十壱文有
 
ご覧のように、若干の相違があります。どちらの資料がより正確かという判断は、原本が失われているためにできませんが、《旧愛知県史資料》のほうが原文に近いと思われます。ここでは、便宜上『三州吉田船町史稿』をベースにします。

《旧愛知県史資料》には、「庄左ヱ門」とありますが、「庄右ヱ門」の名が船町関係の資料には多く見られますので、ここでは、庄右ヱ門として取り扱います。

 
慶応三年丁卯六月廿一日ヨリ

【船町御札降りよりも早い時期のおかげ祭】

現豊橋市域で、慶応三年六月二十一日よりも早い、日付が明確な御札降りの資料は、見つかっていませんが、以下の地域でおかげ祭がおこなわれたと思われる資料が確認されています。舞坂宿以外は愛知県です。

 
六月十五日、遠江国舞坂宿(現静岡県)
典拠:「新町祭礼入用帳」、『舞阪町史』中巻、平成八年(1996年)

 
六月下旬頃より、吉良(現吉良町)・西郡(現蒲郡市)・御油宿(現豊川市)
典拠:夏目卯八郎、「おかげ入用覚」、『三ヶ日町史資料』、昭和二十九年(1954年)
ここで、慶応三年の三河のおかげ祭に関するわたしの疑問点をあげますが、追究はしません。

@「おかげ祭」はすべて御札降りを伴うものであるのか?
A御札降りを伴う「御鍬祭」を「おかげ祭」と呼ぶことがあるのか?
B御札降りを伴わなくても、「御鍬祭」を「おかげ祭」と呼ぶことがあるのか?

以上のわたしの疑問は解決しないままでお話しをすすめていきますが、上記1・2の資料によって、船町御札降りと近い時期に、三河平野部や遠州西部でおかげ祭がおこなわれていた可能性をうかがうことができます。

※夏目卯八郎(千尋)による「おかげ入用覚」については、田村貞雄氏の『ええじゃないか始まる』(青木書店、昭和六十二年・1987年)で取り上げられています。

【船町御札降りよりも早い時期の御札降り】

慶応三年五月頃に御札降りがあったことが、豊橋市に隣接する豊川市篠束町(当時は宝飯郡篠束村)、威宝院の「諸記録」(『小坂井町史』近世史料編・下巻、平成十六年・2004年)によってわかります。

「諸記録」には、「慶応三年夘五月時分ヨリ諸国諸山之札降申候也」とあり、地域が限定できないものの、諸国諸山の御札降りが始まった時期を知ることができます。「諸記録」に、神事や賑わいに関する記事はなく、十一月二十六日まで篠束村に、度々御札が降ったと記されています。書かれた時期は、十一月二十六日以降となります。篠束村の御札降りは七月から始まっていますので、五月時分の御札降りは篠束村ではありませんが、吉田宿から6qほどの篠束村に住む「諸記録」の筆者が、船町御札降りよりも早い時期に御札降りが始まっていたことを知っていたことになります。

【船町御札降りよりも早い時期の御鍬祭】

筆者は宝飯郡国府村(現豊川市国府町)の中林恒助と思われます。「中興年代記」には、「一当夏ヨリ在々村々ニ而御鍬祭り流行致或ハ酒何本又ハ投餅致し又ハ甘酒抔振舞中ニハ狂言致し候所も有之賑々敷事也」とあり、慶応三年夏(旧暦の四月・五月・六月)より村々で御鍬祭が流行していたことがうかがえます。国府村は吉田宿から10qほどの距離です。地域の記載はありませんが、文脈から国府村近辺が考えられます。

また、御鍬祭の「流行」に関して、「留記」の著者森田光尋が京都の山田宰記・山田左源太へ宛てた手紙の下書きと思われる文書(森田家文書)中に、「本国者七月上旬より御鍬祭大流行、村々夫々賑ひ候ニ乗し、伊勢両宮之御祓降臨始り」とあります。

※「中興年代記」(田ア哲郎、『三河地方知識人史料』、岩田書院、平成十五年・2003年、607頁、初出は昭和六十三年・1988年)

※森田家文書(渡辺和敏、「慶応三年「御札降り騒動」発祥地の動向」所収資料B、『法制と文化』、愛知大学文学会、平成十一年・1999年、306頁)

『ええじゃないか始まる』によれば、明和四年(1767年)に流行した御鍬祭から百年目を祝う、御鍬祭百年祭・御鍬社百年祭である「御鍬太神宮百年宝祭」が、慶応二年二月、額田郡岩津村(現岡崎市)周辺でおこなわれ、翌慶応三年六月には、碧海郡下中島村(現岡崎市)で御鍬祭がおこなわれたとされます。

慶応二年二月から慶応三年六月の間の御鍬祭に関する資料を欠きますが、この間、将軍徳川家茂と孝明天皇が亡くなっており、その服喪期間はほとんどの祭礼は行われていないと思われます。また、『ええじゃないか始まる』発行より20年以上が経過していますので、新たな資料が見つかっているかも知れません。

「萬歳書留控」(『幕末三河国神主記録』、清文堂出版、平成六年・1994年)には、「一卯七月廿四日 東宮伊雑宮一百年祭礼の事 右明和四丁亥四月九日斎奉しより此卯年迄百一年ニなれり然処右百年の祭礼西三川辺ニて処々ニ有之」とあり、御鍬祭は「西三川(西三河)」から流行してきたことがわかります。

なお、威宝院の「諸記録」の存在は、橘敏夫氏の「三河国碧海郡小垣江村のお札降り」(『愛知大学綜合郷土研究所紀要』第52輯、平成十九年・2007年)で知りました。時が進むにつれ、御札降りに関する新たな資料が発見されていく可能性はありますので、研究書や地方自治体発行の書籍を注意深くみておく必要がありそうです。今後、御札降りの時期が早まったり、範囲が拡大したり、場所が特定されて、次第に実態が明らかになっていくことでしょう。

 
伊勢内宮様御祓 猶又春日様 秋葉様御札所々へ降リ 町内庄右ヱ門 彦助 久米蔵 源吉 神明之社渡船場六ヶ所へ降リ

これだけの情報で、御札が降った正確な日時・枚数・順番を確定することは困難です。伊勢内宮の御祓の後に「猶又」とあることから、六月二十一日に最初に降った、あるいは見つかった御札は、伊勢内宮の御祓と思われます。二十五日渡船場に降った御札(御札の内容不明)以外の御札が、いつどのような降り方をしたのかは、不明です。

【庄右ヱ門、彦助、久米蔵、源吉】

御札が降った、庄右ヱ門、彦助、久米蔵、源吉については、「渡船場諸雑記」、「萬歳書留控」、「多聞山日別雑記」、「浄慈院日別雑記」などに名が見られます。資料に乏しく、同一人物であるかどうかの確定はできませんが、参考までに記載します。
 
場所 資料にみられる名 資料
庄右ヱ門


 
つぼや「庄右衛門」 「萬歳書留控」
船町の壺屋(つぼ屋)「庄右衛門」
 
「多聞山日別雑記」
「浄慈院日別雑記」
三番組組頭「加藤庄右ヱ門」 「慶応年間渡船番組」
彦助

 
五番組船人「彦助」 「慶応年間渡船番組」
小田屋彦助 「渡船場諸雑記」
小田屋彦助、船町 小田彦 「此夕集」
久米蔵
 
三番組組頭 大村久米蔵 「慶応年間渡船番組」
船町 粂蔵 「浄慈院日別雑記」
源吉



 
壱番組船人 源吉、五番組船人 源吉 「慶応年間渡船番組」
鍋屋源吉 「萬歳書留控」
舟町なべ源、舟町鍋屋源吉
 
「多聞山日別雑記」
「浄慈院日別雑記」
鈴木源吉、鈴木源吉茂世 「萬歳書留控」
 
【資料出典】
「慶応年間渡船番組」
 
佐藤又八編著、『三州吉田船町史稿』、昭和四十六年(1971年)
資料名が不明のため、仮に「慶応年間渡船番組」とした
「渡船場諸雑記」 旧愛知県史資料
「萬歳書留控」

 
『幕末三河国神主記録』、清文堂出版、平成六年(1994年)
著者は田町神明宮・羽田八幡宮(羽田村・現豊橋市)神主羽田野敬雄
「多聞山日別雑記」
「浄慈院日別雑記」
 
『豊橋市浄慈院日別雑記』1〜3、あるむ、平成十九年〜二十一年(2007年〜2009年)
著者は多聞山浄慈院(羽田村)住職
「此夕集」
 
村松裕一、『此夕集』二十、平成十三年(2001年)
著者は吉田宿本町の俳人佐野蓬宇
 
※「多聞山日別雑記」(豊橋市浄慈院所蔵)に関する記述は、田ア哲郎氏の「慶応三年羽田村お札降りについて」(『三河地域史研究』第5号、1987年11月所収)も参考にしています。『豊橋市浄慈院日別雑記』と比べると若干のニュアンスの違いが認められる箇所がありますので、原本を確認できない場合は、両方見比べてみる必要がありそうです。
 
【神明之社】

「神明之社」とは、船町と田町の堺にあった神明宮(現湊町神明社、神主羽田野敬雄、祢宜朝倉氏)のことであり、東海道に面していました。「船町神明宮」「船町神明社」と呼ばれることもありましたが、当寺の資料をみますと「田町神明宮」「田町神明社」と呼ばれることが多かったようです。便宜上、他の神明宮と区別する場合は、「田町神明宮」と呼ぶことにします。

神明宮に御札が降ったことは、神事が船町だけではなく、神明宮の氏子である田町や坂下町においてもおこなわれたと考えられますが、資料として確認ができないのが残念です。

【渡船場】

船町の渡船場のことです。対岸は下地村でした。

 
二夜三日御備燈明ヲ献シ一日遊日御日待致シ

御札降りをうけて、二夜三日の「御備燈明」がおこなわれました。「御備燈明」以外の内容や、二夜三日を何日から数えるのかは不明です。

降った御札が納められ、「御備燈明」が献じられた神社の記載はありませんが、船町が氏子であった神明宮と考えられます。

「一日遊日御日待致シ」とは、一日間休日として日待をするという意味だと思います。いつおこなわれたのかは以下のように考えられます。

@二夜三日のうちの一日を休日として日待をする
A二夜三日の神事が終わり、翌日を休日とする
Bそれ以外

日待がおこなわれた場所についての記載はありません。「萬歳書留控」には、他の年の祭礼前に、船町龍運寺で日待がおこなわれたことが記されています。また、『船町の由来』(昭和四十三年・1968年)でも、旧幕時代から大正の初期ごろまでのこととして「おひまちや、集会といえば必ずこの寺を利用し」、「町内所有の什器など殆どこの寺におさめられていた」とあります。当時の龍運寺は東海道に面していました。また、日待は、船町だけでなく、神明宮氏子町内である田町、坂下町でもそれぞれにおこなわれた可能性があります。

「渡船場諸雑記」の御札降り記事の後半部分から、賑わいの様子をうかがうことができますので、みていきます。
 
若キ者共俄ヲ仕組

「俄(にわか)」とは、俄狂言・俄芝居・俄踊などを指します。狂言には能狂言・操り狂言・歌舞伎狂言があります。当時吉田宿及び周辺地域では、氏神などの祭礼で素人による俄芝居・村芝居が奉納されることがあり、現在でも新城市や設楽町などでは、地狂言と呼ばれて受け継がれている地域があります。

『船町の由来』によれば、明治四年(1871年)に、船町の若者・中老を中心にした素人狂言がおこなわれています。名古屋より振り付けを連れてきて、会所の龍運寺で稽古をしています。演目は「源平布引滝」や「関取千両幟」でした。これは神明宮でおこなわれたものではありませんが、幕末期の芝居人気を伺い知ることができます。

俄狂言だけでなく、俄踊りがおこなわれたことも考えられます。「萬歳書留控」によれば、「神明宮祭礼ニ付夕方船町若者共俄踊いたし候ニ付」(天保九年・1838年)、また、神明正遷宮時に「田町若者共伊勢おんど俄いたし候所」(安政五年・1858年)とあり、船町や田町で俄踊りがおこなわれていたことがわかります。

また、同じく「萬歳書留控」には、俄踊りが雨乞や羽田八幡宮の祭礼でおこなわれたり、慶応三年七月、羽田の御札降りのとき、御札が降った地域の住人が住吉踊りによって御札を羽田八幡宮へ送ってきたとあります。

船町御札降りに伴う祭礼で、俄踊りがあったと断定はできませんが、踊りは奉納の意味の他に祭礼を盛りあげるイベントであり、なかには、掛け踊りといって次の町や村へ送り伝えていくこともありました。

三河の御鍬祭は神送り・村送りを伴うものであるのか、知りたいところですが、今は時間がありません。慶応二年に西三河から始まったとされる御鍬祭百年祭が拡大した要因のひとつに、俄踊りが含まれるのか、興味深いところです。

※俄踊り・御鍬祭に関しては、木村直樹氏の著作を参考にしました。
・「住吉踊と「ええじゃないか」(続)」(『行動と文化』第22号、平成十一年・1999年)
・『御鍬祭考』(樹林舎、平成十九年・2007年)

 
投餅マキ銭酒甘酒等往来ノ者ニ施シ夥敷群集致候 

往来の人に「餅・銭・酒・甘酒」などを施し、おびただしく群集したということです。

東海道は西より船町・田町・坂下町と続き、緩やかな坂を上伝馬に登っていきます。船町は港町でもあり、伊勢参宮の拠点になっていました。神明宮は東海道に面していましたので、多くの通行人が施しを受けたり、祭礼を見物して賑わったことでしょう。

群集した期間ですが、六月二十一日から七月一日までのどこをさすのかは不明です。

吉田宿横丁を板元とする刷り物、「東海道吉田宿惣町御かげの次第」(『豊橋市史』第二巻、昭和五十年・1975年)には、慶応三年の「おかげ祭」に吉田惣町から出された施行の品物が書かれています。慶応三年のどの範囲まで網羅されているのか不明ですが、吉田宿の賑わいの規模を示す貴重な資料といえます。

このなかには、以下のように船町・田町・坂下町も出てきます。
 
■「東海道吉田宿惣町御かげの次第」(『豊橋市史』第二巻、1024頁〜1025頁)

東海道吉田宿惣町御かげの次第

下地   御神酒 五拾樽
投餅 五拾俵
団扇 三千本
船町   御神酒
投銭 当百・文久銭 六百四拾貫文
田町   投餅 四拾俵  金銭三百貫文
御木引車
坂下町  御供餅
上伝馬町 御供餅 伊勢参
本町   御供餅 五拾俵
札木町  投餅 三拾俵  赤飯 弐拾俵
かげ芝居
宝車
呉服町  御田植
曲尺手町 顔見勢
鍛冶町  大幣帛
投もち 五拾俵
下モ町  御供餅
今新町  大鷺
投もち 三拾俵
元新町  投餅 弐拾俵
投手拭 千筋
手間町  御供餅
紺屋町  御供もち
元鍛冶町 御供餅
利町   御供餅
魚町   投餅 七拾俵
指笠町  投餅 弐拾五俵
萱町   御供餅
垉六町  投餅
下リ町  狂言
新銭町  御かげ駕籠  瀧水  投もち
土産箸
中柴   相山  茶番狂言
万金丹

板元横丁
 
 
冒頭の地図を見ていただくとわかりやすいと思いますが、吉田宿の東海道は、西の京都方向から歩いてきますと、下地村から豊川を渡り、船町、田町を過ぎて、坂下町から緩やかな坂を上がって上伝馬、本町、札木町、呉服町、曲尺手町、鍛冶町、下モ町、今新町、元新町と続き(これら12町を表町という)、江戸に向かって行くことになります。本町・札木町・呉服町の南側には裏町が発展していました。

「東海道吉田宿惣町御かげの次第」により、吉田宿において、船町・田町・坂下町の賑わいを、「おかげ」と認識していたことがわかります。しかし、「東海道吉田宿惣町御かげの次第」は、施行の期間については触れていませんので、船町・田町・坂下町の施行が、六月二十一日の御札降りから始まる神事・賑わいを含んでいるのかは不明です。また、全ての施行品とは限りません。

町の規模にもよりますが、与えられた情報だけをみますと、船町・田町の施行品は他の町と比べると多い方であったことがわかります。なお、船町の対岸の下地村でも施行があったことがわかります。下地村の御鍬祭については別の号で述べます。

 
就テハ追々隣町近村ヘモ降リ 右同様ノ事ニ御座候 

船町に御札が降り、祭礼がおこなわれ、見物人や通行人への施行などもあり、おびただしい群集であった。そして、近隣の町村にも同様のことがおこなわれていったということです。記事をストレートに解釈しますと、船町から吉田宿及び周辺地域へと御札降りと賑わいが広がっていたとになります。

この記事が書かれた時期は、前述のように八月三日である可能性が高く、地理的にみれば、「隣町近村」の範囲には、城内・吉田宿・牟呂村・羽田村・下地村も入ります。

八月一日には吉田宿の町々で御鍬祭がおこなわれており、八月二日には札木町で大群集がありました。八月三日には魚町・呉服町で賑わいがあったようです。(「留記」、「萬歳書留控」、「多聞山日別雑記」、「此夕集」)

「渡船場諸雑記」の筆者が、八月三日以前の御札降りや御鍬祭・おかげ祭の情報をどの程度知りながら、「就テハ追々隣町近村ヘモ降リ、右同様ノ事ニ御座候」と書いているのかは、筆者でなければわからないことです。つまり、知り得ていない情報があっても、それを考慮せずに書いていることを念頭に置いておきます。

そして、「2.「渡船場諸雑記」《旧愛知県史資料》」で述べたように、六月二十六日から七月十三日までの18日間の、御札降りや御鍬祭に関する信頼できる資料が発見されることによって船町と近隣町村との関連が見えてくるのだと思います。

主観的に表現された資料(「渡船場諸雑記」)を補完することができる客観的な資料(事実)を集める必要があります。

 
渡船場へハ廿五日ニ降リ廿六日ヨリ五夜五日御神燈ヲ献シ 一日糯米一斗弐升宛 餅ヲ搗牛馬ニ施シ申候 賽銭九百九十一文有

降札があった六ヶ所のうち、渡船場に御札が降ったのは二十五日であり、翌二十六日より七月一日まで「五夜五日」御神燈を献じたことになります。

餅を搗いた期間、賽銭を集計した期間については不明です。賽銭は神明宮への賽銭と思われます。九月におこなわれていた神明宮の例祭と比べてみたいところですが、神明宮の賽銭に関する情報がありません。

神明宮神主であった羽田野敬雄が同じく神主を務める羽田八幡宮の賽銭をあげてみます。

慶応2年8月14日・15日 例祭賽銭:9貫850文
慶応3年7月23日・24日 御鍬祭一百年祭賽銭:4貫620文(7月22日降札)
慶応3年8月14日・15日 例祭賽銭:10貫101文

神明宮との比較はできませんが、羽田八幡宮では、御鍬祭よりも例祭の賽銭のほうが多いことがわかりました。羽田野敬雄が御鍬祭の百年祭を考えていたところ、七月二十二日、西羽田に伊勢神宮の御札が降り、御鍬と一緒に祭礼をすることになったのです。

 
4.船町御札降りの問題点

問題点を整理してみます。

1.二夜三日と五夜五日

船町は船役である臨時渡船をおこなうため、町役人のもとで船番組が組織されていました。そのため、町内の組織力が高いと思われ、祭礼も同様に統制ある運営がなされていたと考えられます。
お供えと燈明を献じて祈りをする神事と、これに伴う様々な行事の取り決めは神明宮と氏子の間でおこなわれたと思われます。

六月二十一日から御札が降り、その後「二夜三日」のお供えと燈明が献じられましたが、六月二十五日に渡船場に降札があったことから、翌日から「五夜五日」の御神燈が献じられて、一区切りついたと考えられます。

「渡船場諸雑記」の内容から、「二夜三日」「五夜五日」の間に行事がおこなわれたことはわかりますが、行事の期間と内容は詳細に記されてはいません。祈祷などの神事は二夜三日おこなわれることが多いようですが、船町での「二夜三日」「五夜五日」とは、通常の神事のことか、それとも神事に伴う様々な行事を含む祭礼をさすのか、詳細にはわかりません。

牟呂村の御札降りと騒動の詳細を記した「留記」には、「二夜三日正月」という言葉が使われています。牟呂八幡宮では三日間(七月十八日から二十日まで)にわたって賑やかな祭礼がおこなわれました。

「萬歳書留控」によれば、同じく降札のあった羽田村でも、七月二十三日から二十五日まで羽田八幡宮で祭礼がおこなわれて賑わったことがわかります。

船町の場合、「二夜三日御備燈明ヲ献シ一日遊日御日待致シ」とあり、二夜三日の神事と一日の休日が取り決められ、「若キ者共俄ヲ仕組投餅マキ銭酒甘酒等往来ノ者ニ施シ夥敷群集致候」となったわけです。この情報だけでは、牟呂村や羽田村のような三日間にわたる祭礼をイメージできません。

しかし、取り決められた休日は一日であっても、御札を他所から神社へ納めるときに多くの人で送ってくる場合もあります。神社へ納めた後、町内の人たちが参詣することもあります。船町は東海道沿いですので、通行人も多く御札降りの話を聞いて参詣することもあるでしょう。したがって、賑わいが賑わいを呼ぶこともじゅうぶん考えられます。

五夜五日のうち、休日として取り決められた日にちは不明で、五日間になった理由もわかりませんが、二夜三日が取り決められたときとは異なる状況が生じたと考えた方がよいのかもしれません。この時期に御葭天王が豊川岸に流れ着くことが多く、その祈祷は七日間ですので、五日間の神事は特別長いものではないようです。

今のところ、わたしは、船町の「二夜三日」「五夜五日」には、牟呂村や羽田村の二夜三日とは異なった印象を持っています。

2.周囲への影響

次に早い、現豊橋市域で日付が明確な御札降りは、牟呂八幡宮神主、森田光尋の「留記」にみられる、七月十四日の牟呂村(豊橋市牟呂町)御札降りとなります。

この17日間の、御札降りやこの時期流行していた御鍬祭に関する情報は明確ではありません。船町御札降りと、以後の吉田宿及び周辺の御札降りやそれに伴う神事・賑わいなどとの関連を解明するには、17日間を埋める日付の明確な資料や信頼できる客観的な資料が発見される必要がありそうです。

『三州吉田宿の御札降りと、ええじゃないか』(1)−(5)概要

【三河武士がゆく】