三州吉田宿の御札降りと、ええじゃないか

(3)船町御札降り論争

平成二十二年(2010年)十二月一日
 

『三州吉田宿の御札降りと、ええじゃないか』(1)−(5)概要

【三河武士がゆく】
 

《もくじ》

(1)田村貞雄 「「ええじゃないか」の発端と御鍬百年祭・補遺」
(2)田村貞雄 『ええじゃないか始まる』
(3)野口五郎  『霊的秘儀としての「ええじゃないか」』
(4)大久保友治 「慶応三年最初の御札降りについて」
(5)渡辺和敏 「慶応三年「御札降り騒動」発祥地の動向」
(6)渡辺和敏 『ええじゃないか』
(7)田村貞雄 「『阿波ええぢゃないか』考・余録」
(8)田村貞雄 「「ええじゃないか」の東西南北」
(9)木村直樹 「「ええじゃないか」再考」
(10)豊橋市の刊行書
(11)資料再検討の必要性

※資料から引用するにあたって、ワープロにない旧字体・略字・合字などは、新字体や仮名文字に改めましたので、本書からの資料の引用は避けてください。

※引用資料・参考文献などのデータは、必要に応じて文中に入れました。
 
船町御札降り論争

ここでは、船町御札降りが、これまでの研究によってどのように取り扱われてきたのかをみていきます。大きな問題点は、佐藤又八氏が謄写した「渡船場諸雑記」中の御札降り記事の日付です。太平洋戦争の空襲により焼失したために、原本が確認できず、佐藤氏が日付を誤って謄写したのではないかと疑問視されることもありましたが、既に書いてきましたように、疑惑は晴れたと思います。しかし、現存する同時代資料の解釈をめぐって船町御札降りの位置づけは不安定なものになっています。
 
【参考資料】
断りのない場合、以下の資料を参考にしています。
 
「渡船場諸雑記」


 
『三州吉田船町史稿』、佐藤又八編、昭和四十六年(1971年)
原本焼失
謄写本:愛知県史編さん室保管
「萬歳書留控」



 
『幕末三河国神主記録』、羽田野敬雄研究会編、清文堂出版、平成六年(1994年)
筆者は田町神明宮・羽田八幡宮(現豊橋市)神主羽田野敬雄
原本と原本のコピー:豊橋市中央図書館所蔵
「留記」

 
筆者は牟呂八幡宮(現豊橋市)神主森田光尋
原本のコピー:豊橋市中央図書館所蔵
原本:豊橋市美術博物館所蔵
「多聞山日別雑記」
「浄慈院日別雑記」

 
『豊橋市浄慈院日別雑記』3、渡辺和敏監修、あるむ、平成二十一年(2009年)
筆者は多聞山浄慈院(羽田村)住職
原本:未確認
「此夕集」

 
『此夕集』三十六、村松裕一、平成十五年(2003年)
筆者は吉田宿本町の俳人佐野蓬宇
原本:豊橋市中央図書館所蔵
 
■「渡船場諸雑記」(『三州吉田船町史稿』、488頁〜489頁)
慶応三年丁卯六月廿一日ヨリ伊勢内宮様御祓 猶又春日様 秋葉様御札所々へ降リ町内庄右ヱ門 彦助 久米蔵 源吉 神明之社渡船場六ヶ所へ降リ 二夜三日御備燈明ヲ献シ一日遊日御日待致シ 若キ者共俄ヲ仕組投餅マキ銭酒甘酒等往来ノ者ニ施シ夥敷群集致候 就テハ追々隣町近村ヘモ降リ 右同様ノ事ニ御座候 渡船場へハ廿五日ニ降リ廿六日ヨリ五夜五日御神燈ヲ献シ 一日糯米一斗弐升宛 餅ヲ搗牛馬ニ施シ申候 賽銭九百九十一文有
 
 
(1)田村貞雄 「「ええじゃないか」の発端と御鍬百年祭・補遺」
(『東海近代史研究』第8号 昭和六十一年・1986年)

田村氏は、以下の理由から「渡船場諸雑記」の御札降りの日付に疑問を呈しました。

@「萬歳書留控」、八月一日・二日の羽田村御札降りと神事に関する記事の後、「今度は下地船町ヨリ初吉田町中へ追々降下り」とある。
A「留記」の「神異」の項に、「牟呂より後」として「船町つぼや裏」への御札降り記事がある。

 
(2)田村貞雄 『ええじゃないか始まる』
(青木書店 昭和六十二年・1987年)

田村氏は、「六月二十一日は七月二十一日の誤りではないかとも思われる。しかし、ひょっとするとこれが「ええじゃないか」の発端かも知れず、現在のところ判断を保留しておきたい」(34頁)としています。

しかし、別の箇所で、「「ええじゃないか」の発端と御鍬百年祭・補遺」と同様の理由を示し、「船町の御札降りは七月十四日の牟呂村ののちに発生したのである」(142頁)としています。

 
(3)野口五郎  『霊的秘儀としての「ええじゃないか」』
(平成二年・1990年)

野口氏は、『ええじゃないか始まる』を読んでおり、「渡船場諸雑記」・「萬歳書留控」・「留記」について触れています。「渡船場諸雑記」の日にちについては論究していませんが、御札降りと船町・牟呂村・羽田村との関係について次のように述べています。

「この湊町神明社裏手にあたる吉田湊は豊川の河口から四キロ上流にあたり、満潮時には三河湾から大きな帆船が入港した。東海道筋にもあたり、江戸時代を通じて伊勢参宮の旅人で賑わった。享保十五年(一七三〇年)の御蔭参りの際には、吉田湊と伊勢を往来した人数は三八,八〇〇人にのぼったという。
 歴史的にみれば、お札降りと多くの関係を持っていたのは、羽田村や牟呂村よりも舟町、湊町だったといえる。」(5頁)

 
(4)大久保友治 「慶応三年最初の御札降りについて」
(『三河地域史研究』第十六号 平成十年・1998年)

「六月船町降札説」への疑問に対して大久保氏は、誤写説の論拠とされる「留記」・「萬歳書留控」の記述を、別の解釈に基づいて検討しています。

@「留記」には、「牟呂より後」として「船町つぼや裏」への御札降りが記されていますが、船町の御札降りはつぼや裏だけではないので、牟呂村の御札降りが船町よりも早かったという証明にはならないとしています。

A「留記」に、牟呂村が「此近村ニ而御札之降始也」とあることについては、「近村の範囲に船町が入るかどうかについては明らかでない」(23頁)としています。

B「萬歳書留控」に、八月一日・二日の羽田村御札降りと神事に関する記事の後、「今度は下地船町ヨリ初吉田町中へ追々降下り」とあります。この「今度」について、「八月朔日に関わる「今度」ではなく、慶応三年を「今度」と表現していると考えられる」(25頁)としています。

C吉田宿内での御札降りのひろがりに関して、船町(六月二十一日)から萱町(萱町を七月十八日として考える)までの間隔が開きすぎている問題については、「追々降ったのであるから、少なくとも下地船町と萱町の御札降りの間には、それなりの間隔があったものと思われる」(25頁〜26頁)としています。

また、「当年慶応三年卯年六月末方より 国中四方伊勢大神宮御はらいふり 吉田新井浜松其外一同にふり」と記された「御値段・役人附・諸色□覚帳」(『鳳来町誌』歴史編)をとりあげています。これによれば、六月末方に三河国で伊勢大神宮のお祓いが降り始めたことがわかります。

最後に、「『船町史稿』の六月二十一日降札は信じてよい史料と考えたい」と結んでいます。

船町御札降りの時期について、「留記」と「萬歳書留控」の解釈が、渡辺和敏氏・田村貞雄氏とは異なり、《佐藤又八氏誤写説》に対して正面から反論する論考といえるものです。ただ、(7)にあるように、田村貞雄氏によって、「この論文は批判対象を明示せずに批判しているが、これは学問研究のルールに反する」(「『阿波ええぢゃないか』考・余録」『東海近代史研究』第25号)と非難されています。
 
(5)渡辺和敏 「慶応三年「御札降り騒動」発祥地の動向」
(『愛知大学文学会叢書4 法制と文化』 平成十一年・1999年)

渡辺氏は、昭和六十一年(1986年)四月二十日、NHK豊橋放送局主催の古文書講座で「留記」を紹介しています。「留記」には慶応三年七月十四日にはじまる牟呂村御札降りと騒動について詳しく記述されています。

渡辺氏は、「恐らく佐藤氏は原資料の七月を六月と間違って筆写したと推測されるのである」(274頁)としています。

その主な理由は次のようなものです。
@船町の騒動の内容から考えれば周囲に波及すると思われる。
A牟呂村御札降りがあった七月十四日まで間隔がありすぎる。
B「留記」の「牟呂之神異」の項に、牟呂村が「此近村ニ而御札之降始也」とある。

 
(6)渡辺和敏 『ええじゃないか』
(あるむ 平成十三年三月・2001年)

渡辺氏は、「慶応三年「御札降り騒動」発祥地の動向」同様に「渡船場諸雑記」御札降り記事の内容について、「考えられることは、六月二十一日にお札が降ったものの中絶した、佐藤氏の資料筆写ミス、この二点であるが、おそらく後者であろう」(65頁)としています。

 
(7)田村貞雄 「『阿波ええぢゃないか』考・余録」
(『東海近代史研究』第25号 平成十六年三月・2004年)

田村氏は、大久保友治氏の論考「慶応三年最初の御札降りについて」に対して、「三河吉田近郊では、六月二十一日に御札降り・御札祭の例がある。後者については、史料が空襲で失われ、判断のしようがなく、日付の誤りの可能性も指摘しておいたが、最近大久保友治氏が、日付が正しいとする論考を発表された。しかし、何か傍証を示されないと今ひとつ説得力を欠く」(70頁)としています。

さらに、「この論文は批判対象を明示せずに批判しているが、これは学問研究のルールに反する」(註(2)75頁)としています。

 
(8)田村貞雄 「「ええじゃないか」の東西南北」
(『国際関係研究』27巻3号 平成十八年四月・2006年)

★以下ホームページで確認(2010年11月20日現在)
■『田村貞雄のページ』
http://members2.jcom.home.ne.jp/mgrmhosw/frame.html
「「ええじゃないか」の東西南北」
http://members2.jcom.home.ne.jp/mgrmhosw/eetozai.htm

田村氏は、船町御札降りについて依然として「保留」としながらも、船町御札降りに先行する慶応三年六月十五日の遠州舞坂宿おかげ祭(『舞阪町史』中巻)や、「又三州吉田六月下旬より」「慶応三卯六月下旬より三州吉田初め」と記された、「伊那郡村々降札一件鹿塩村源蔵留記」(『長野県史』近代史料編1)をとりあげて、船町御札降りを「御札降りの前蹤として考えることは可能である」としており、やや変化がみられます。

地元吉田の資料である「萬歳書留控」や「留記」は船町御札降りの事実を示すものの、御札降りの日を記さず、「此夕集」の佐野蓬宇や「神牘降下説・全」(豊橋市中央図書館所蔵)の藩校時習館教授たちは、御札の降下は七月より流行したものと認識しています。

これに対して、「伊那郡村々降札一件鹿塩村源蔵留記」は、吉田から遠く離れた鹿塩村(現長野県下伊那郡大鹿村)の記録であることを考慮する必要があるものの、「六月下旬」「三州吉田」と、時期と場所を限定している点は注目できます。

 
(9)木村直樹 「「ええじゃないか」再考」
(田村貞雄編 『「ええじゃないか」の伝播』 岩田書院 平成二十二年・2010年)

『「ええじゃないか」の伝播』は、平成二十一年(2009年)九月におこなわれた、「ええじゃないか」関西シンポジウムの記録です。

木村氏は、船町御札降りの時期の問題には触れていませんが、船町御札降りをとりあげ、「吉田宿の「俄」(にわか)に「発端」の可能性もあるが、「御鍬祭」ほどの伝播性はない」としています。

 
(10)豊橋市の刊行書

『三州吉田宿の御札降りと、ええじゃないか(1)』でも述べましたように、『豊橋市史』第二巻(昭和五十年・1975年、1023頁〜1026頁)と、『豊橋市史』第三巻(昭和五十八年・1983年、1051頁〜1053頁)に船町の御札降りに関する記述はありますが、『三州吉田船町史稿』については触れていません。

第三巻では、「萬歳書留控」「多聞山日別雑記」をとりあげており、「萬歳書留控」を典拠として次のように書かれています。

「慶応二年(筆者註:慶応三年)七月二○日頃から、草間・牟呂・野田・萱町等に伊勢の御祓が降り、二二日は西羽田、八月一日には羽田村北側・西羽田などにいろいろのお祓が降り、下地・船町から吉田中へ波及して、神事とふるまい酒、にわか踊りで大群集が騒いだことなどを記している」(1051頁)

『とよはしの歴史』(平成八年・1996年)、『豊橋百科事典』(平成十八年・2006年)では、『三州吉田船町史稿』や「ええじゃないか」をとりあげているものの、船町御札降りについては触れていません。

以上の、豊橋市の刊行書では、「渡船場諸雑記」にみられる船町御札降りについては触れられていないことがわかります。

 
(11)資料再検討の必要性

以上みてきましたように、船町御札降りの時期に関しては、「渡船場諸雑記」の記述を正しいとする大久保友治氏が孤軍奮闘しており、船町御札降りは歴史学上みえないとろこへ追いやられてしまったようにみえます。

しかし、愛知県史編さん室が保管する「渡船場諸雑記」の謄写資料と『三州吉田船町史稿』の抄出部分をみたとき、誤写説を前提にすることは危険であり、現存する他の御札降り資料を再検討する必要性を感じるのです。


《もくじ》
 
※次号では「萬歳書留控」を読みます
 

『三州吉田宿の御札降りと、ええじゃないか』(1)−(5)概要

【三河武士がゆく】