三州吉田宿の御札降りと、ええじゃないか(4)
「萬歳書留控」と下地村御鍬祭

平成二十三年(2011年)四月十五日
平成二十四年(2012年)二月八日改訂
 

《もくじ》
1.「萬歳書留控」を読み直す
参考資料

(1)伊雑宮百年祭
(2)八月の羽田村御札降り
(3)今度は下地船町より初吉田町中へ追々降下り

2.下地村御鍬祭
(1)下地村と船町、どちらが早いか?
(2)下地村御鍬祭の規模

[表]
「東宮伊雑宮一百年祭礼の事」にみられる御札降りと祭礼
御札降り年表(慶応三年六月二十一日〜八月五日)
船町・下地村・札木町・牟呂村・羽田村の施行

※資料から引用するにあたって、ワープロにない旧字体・略字・合字などは、新字体や仮名文字に改めましたので、本書からの資料の引用は避けてください。

※引用資料・参考文献などのデータは、必要に応じて文中に入れました。


 
《吉田宿及び周辺の、御札降り・御鍬祭関係地図》
PDF版の場合、拡大表示をすると、文字がわかりやすくなります。

 
※慶応三年当時の推定地図です。慶応三年当時、吉田大橋は大水による流失のため存在せず、船町・下地間の渡船がおこなわれていました。
※吉田二十四町には、東海道沿いの表町十二町(船町・田町・坂下町・上伝馬町・本町・札木町・呉服町・曲尺手町・鍛冶町・下モ町・今新町・元新町)と東海道南側の裏町十二町(天王町・萱町・指笠町・御輿休町・魚町・垉六町・下リ町・紺屋町・利町・元鍛冶町・手間町・世古町)がありました。町裏十か所(談合宮・中世古・野口・中柴・新銭町・清水町・御堂裏・西宿・西町・畑ヶ中)は吉田宿二十四町の裏におこった住宅地のことで、周辺の村との間に位置していました。
※「守上」・「守下」は、当時の土地の名称であり、町名ではありません。
 
1.「萬歳書留控」を読み直す 《もくじ》

三州吉田宿船町の御札降りが、慶応三年(1867年)六月であったとする資料は「渡船場諸雑記」のみで、原本の確認はできないものの、該当箇所について、『三州吉田船町史稿』所収資料と愛知県史編さん室に保管されている謄写資料とで確認ができることは既に述べてきました。

御札降りに関するその他の資料には、船町御札降りの日付が記されず、『三州吉田宿の御札降りと、ええじゃないか』(3)で書きましたように、大久保友治氏が、「慶応三年最初の御札降りについて」(『三河地域史研究』第十六号、平成十年・1998年)で、「萬歳書留控」や「留記」の記述をとりあげて六月降札を肯定しました。しかし、船町御札降りは、ええじゃないか研究の世界では依然として顧みられることがありません。これは、当時の史料である「萬歳書留控」や「留記」のなかに、船町の六月降札を疑いたくなるような箇所があることも一因だと思います。わたしは、これらの資料を再検討することの必要性を強く感じており、迷路に入り込むことを承知の上で取り掛かることにしました。

ここで扱う「萬歳書留控」の筆者、羽田野敬雄は、平田篤胤門人の国学者として知られます。敬雄は、田町神明宮(以下神明宮と記す)と羽田八幡宮の神主であり、船町・羽田両所の御札降りをよく知っていたと思われます。その他の御札降り関係資料筆者とのつながりをみてみます。「此夕集」の筆者吉田宿本町の俳人佐野蓬宇と親しく、頻繁に行き来をしていました。「留記」の筆者森田光尋は牟呂八幡宮の神主で同職であり、同じ平田門としても親しかったと思われます。「多聞山日別雑記」の多聞山浄慈院は羽田村にあり、羽田八幡宮と隣接していました。これらの人脈は御札降りに関する羽田野敬雄の情報の質や量を考えるとき、重要な意味を持ってきます。羽田野敬雄が得ていた情報を推し量りながら、「萬歳書留控」を読んでいきます。

また、『幕末三河国神主記録』編者の代表である田ア哲郎氏は、「萬歳書留控」について、「その日その日に書いたというより、事柄に段落がつき、時間的に余裕をえた折に書いた場合が多かったのではなかろうか」(「『萬歳書留控』解説」『幕末三河国神主記録』)としており、このことも念頭に置いておきます。

参考資料については、断りのない限りは以下の通りです。
 
参考資料
《もくじ》
「渡船場諸雑記」 佐藤又八編 『三州吉田船町史稿』、昭和四十六年(1971年)
「萬歳書留控」

 
羽田野敬雄研究会編 『幕末三河国神主記録』 清文堂出版、平成六年(1994年)
掲載資料は原本のコピー(豊橋市中央図書館所蔵)から抄出
「留記」 原本のコピー(豊橋市中央図書館所蔵)
「多聞山日別雑記」

 
渡辺和敏監修 『豊橋市浄慈院日別雑記』3 あるむ、平成二十一年(2009年)
田ア哲郎 「慶応三年羽田村お札降りについて」『三河地域史研究』五号、昭和六十二年(1987年) 
「此夕集」 村松裕一 『此夕集』三十六、平成十五年(2003年)
 
(1)伊雑宮百年祭 《もくじ》

「萬歳書留控」の「一卯七月廿四日 東宮伊雑宮一百年祭礼の事」には、慶応三年七月の羽田村最初の御札降りと伊雑宮百年祭(御鍬祭)について書かれています。羽田村には、北側・中郷・百度(ずんど)・西羽田の四嶋と呼ばれる地域がありました。「西羽田次郎兵衛」とは、西羽田の次郎兵衛という意味です。

「一卯七月廿四日 東宮伊雑宮一百年祭礼の事
右明和四丁亥四月九日斎奉しより此卯年迄百一年ニなれり然処右百年の祭
礼西三川辺ニて処々ニ有之清須馬見塚ニも執行可有候へ共当社ニても可相勤与存居
候所此程近辺草間牟呂野田新田萱町等へ伊勢之御祓降下候とて祝祭れり
当所ニても廿二日西羽田次郎兵衛前屋敷へ伊勢の御祓降下れりと村役人へ持出当家
へも申来候間幸ひ御鍬与一同に可祀と相極候」

この「萬歳書留控」によれば、羽田村の最初の御札降りは七月二十二日です。田ア哲郎氏が、 「慶応三年羽田村お札降りについて」で指摘していますが、「多聞山日別雑記」の七月二十三日の記述には、「西羽田次郎兵衛ノ東ノ蜜柑屋敷へ御祓降リ 今日より明日御鍬様ノ祭り幟も立ツ 夜分西羽田神楽八幡二而舞大分群集と云事也」とあります。「多聞山日別雑記」は降札の日にちを明確にはしていませんが、多聞山浄慈院は羽田八幡宮に隣接し、「多聞山日別雑記」はその日ごとに書かれた日記です。一方、「萬歳書留控」はタイトルをつけて項目別に整理しており、後日書かれたものです。「萬歳書留控」の原本には西羽田御札降りの日付は、「二十二日」と小さく書き込まれています。ほかにも、同一とみられる御札降りが「萬歳書留控」では八月一日の日付で書かれ、「多聞山日別雑記」では八月二日の項に書かれています。これは、浄慈院の「多聞山日別雑記」の筆者が、前日の御札降りの件を翌日書いているとも考えられます。ここでは、筆者が祭礼の執行者である「萬歳書留控」に従います。

御鍬祭が準備されていた地域と、御札降りや祭礼がおこなわれた地域をまとめると次の表になります。羽田村・馬見塚村・野田村・吉川村・三ツ相村の五ヶ村は、旧吉田方村で、雨乞神事を合同でおこなうことがありました。牟呂村の規模は大きく、大西・中村・市場といった小村があり、上組(上牟呂)・中組(中牟呂)・下組(下牟呂)に分けられていました。小村には小村を氏子とする社があり、牟呂八幡宮は牟呂村全体の鎮守的存在でした。萱町は吉田宿二十四町のひとつですが、羽田村にも近接しており、草間村を除いては、羽田村周辺の町や村といえます。
 
「東宮伊雑宮一百年祭礼の事」にみられる御札降りと祭礼  [もどる]
場 所 御札降り 祭礼・行事
清須
 
清須新田
 
豊川をはさんで馬見塚村の対岸 降札不明
 
御鍬祭準備
 
馬見塚
 
馬見塚村
 
羽田村の北に隣接、豊川沿岸 降札不明
 
御鍬祭準備
 
草間

 
草間村

 
牟呂村より南に位置する台地上にある。現磯辺校区内 伊勢の御祓と思われる、時期不明
 
「草間一色@ニは両三日も狂言有ル云」(七月二十日の「多聞山日別雑記」)
牟呂









 
牟呂村









 
羽田村の西に隣接









 
七月十四日、外宮
七月十五日、内宮
七月十五日、伊雑宮
七月十九日、9枚
七月二十日、内宮
七月二十二日、内宮
七月二十二日、光明山
(以上「留記」)


 
七月十八・十九・二十日、牟呂八幡宮で「二夜三日」(「留記」)

「お鍬様ノ札降り、今日より牟呂中勇ミ祭ル云」(七月十八日の「多聞山日別雑記」)

「牟呂もお鍬様ニ而今日も勇ミ祭ル云事也」(七月二十日の「多聞山日別雑記」)
野田新田
 
野田村に属す 現在の新栄町辺
 
伊勢の御祓と思われる、時期不明 詳細不明
 
萱町

 
吉田宿

 
吉田宿二十四町のうちのひとつで、裏町にあたる 伊勢の御祓と思われる、時期不明A 
 
詳細不明

 
西羽田
 
羽田村
 
牟呂村・馬見塚村・野田村に接する 七月二十二日、伊勢の御祓 七月二十三・二十四日、羽田八幡宮で御鍬祭
【註】
@草間村のなかに一色という地名がある(『校区のあゆみ 磯辺』 豊橋校区史36、磯辺校区総代会編、平成十八年・2006年)。一色は現在の豊橋市一色町のことと思われる。

A田村貞雄氏は、『ええじゃないか始まる』で七月十八日に御札が降った場所を吉田宿萱町と推定しているが、萱町降札の日付を明記した資料は見つかっていない。田村氏は、「萬歳書留控」にみられる七月二十二日以前の萱町御札降りの記事と、松菊屋散人抄書「見聞筆記」(加藤善夫、「県東部のええじゃないか・補遺(2)」、昭和六十年・1985年)にみられる七月十八日の吉田宿御札降りの記事(「三州吉田宿へ御降座同人当七月十九日登りの節吉田宿泊にて昨夜御札御降り相成候よし」)と、夏目卯八郎の「慶応三年 おかげ入用覚」(菅沼善輔、「「おかげ参り」に就て」、三ヶ日町郷土文化研究会編、『三ヶ日町史資料』第四輯、昭和二十九年三月一日・1954年)にみられる鳥による降札の記事(「七月下旬頃より吉田にて大神宮御祓天より降りはじめ 但鳩の様なる鼠色にて今少し大きなる鳥くはへて来るを正に見たる人もあまたありといへり」や「吉田萱町にて鳥くわえて下りしよし」)とを付き合わせて論拠としている。しかし、七月十八日の降札は夜とある。天気は「此夕集」によれば「曇」、「多聞山日別雑記」によれば「快晴」となり、異なる。「此夕集」の筆者佐野蓬宇が住む本町と萱町は隣接していた(吉田宿町同士の隣接なので極めて近い距離にある)が十八日夜の萱町の御札降りを「此夕集」に記してはいない。七月十八日萱町降札の可能性はじゅうぶん考えられるものの、断定をするには決め手となる資料が欲しい。
 
羽田村の御鍬祭が周辺の村よりも遅れていた理由はわかりませんが、伊雑宮百年祭(御鍬祭とも呼ばれる)が西三河から流行し、近隣の馬見塚村や清須新田でも準備を始めており、羽田八幡宮でも御鍬祭をしようとしていたところ、草間村他にお札が降り、祭礼がおこなわれました。羽田村には七月二十二日に御札が降り、御札祭も含めた御鍬祭が七月二十三・二十四日におこなわれましたこの「萬歳書留控」の記述を、「渡船場諸雑記」の側からみますと、「就テハ追々隣町近村ヘモ降リ 右同様ノ事ニ御座候」となります。「渡船場諸雑記」は本来、渡船に関する記録であり、御札降りのような特別な事があったとき、渡船関係以外の記事を書き入れたものです。

「萬歳書留控」の謎のひとつは、「東宮伊雑宮一百年祭礼の事」で、六月二十一日に始まる船町御札降りと祭礼について全く触れていないことです。六月の船町御札降りでは神明宮か氏子である船町に伊勢内宮の御祓が降っており、降札にともなう祭礼は、天照大神を祭神とする神明宮でおこなわれたと思われます。神明宮での祭礼が「伊雑宮百年祭」としての御鍬祭であったか、御札祭であったのかは「渡船場諸雑記」で確認することはできません。神明宮の御鍬社・伊雑社に関しては、安永四年(1775年)の棟札に「奉葺替御鍬神社」とあるものの(『豊橋市神社棟札集成』)、天保十四年・1843年の寺社調(「萬歳書留控」)にはみられません。しかし、明治二年(1869年)、神社巨細取調帳の控えには末社として「伊雑社」の名がみられます(「萬歳書留控」)ので、慶応三年の降札時、神明宮に伊雑社が末社として存在していた可能性はあります。

羽田野敬雄は、神明宮の神主(神明宮の祢宜は朝倉氏)であり、「萬歳書留控」には神明宮でおこなわれた九月の例祭の次第や祭礼の延引・変更、式年遷宮や御葭天王の祭礼など、詳細な記録を書き残しています。しかし、他の項で船町の御札降りと賑わいについて触れてはいるものの、船町御札降りと祭礼の日付さえ記していないのです。羽田野敬雄が、船町を「此程近辺草間牟呂野田新田萱町等へ伊勢之御祓降下候とて祝祭れり」のグループに入れていないのは、船町の御札降りとは時間的な開きがあったためと考えることもできますが、不思議なことです。この謎は新たな資料が見つからない限り解くことができませんので、次に進みます。

「一卯七月廿四日 東宮伊雑宮一百年祭礼の事」の項は、伊雑宮百年祭の内容を述べ、二十三日宵祭と二十四日本祭の賽銭の額を記して終わります。


「廿三日夜 北側中郷両所幟二本ツヽ相立 またぎ挑灯并吉原挑灯 灯ろう等を献ス
百度西羽田よりもまたぎ挑灯 西町よりまたき挑灯氏子中若者中挑灯 西宿よりも氏子中若者
中よりてうちんを献ス 七ッ時西羽田より御祓を送り来れり七左衛門并西羽田百度若者小供等
紙のぼりを立住吉踊ニて送来れり 夜西羽田神楽を執行ス

廿四日 御祓ハ八幡宮廊下へかざり奉り 神酒二御飯海山野の物を献ス 
御鍬宮も献物同断
村中一同より院内神楽相迎へ終日修行 尤弁当ニて金弐両弐分也村中より出 当家かまひなし
四ッ時神勤 村役人長七清七并四嶋惣代十六人羽織はかま 神務相済神酒頂戴拝殿ニて
神酒一樽 廣庭ニてひらき皆々頂戴
甘酒 かうじ二斗白米五升しこみ 廣庭ニていたゝかしむ
打続キ 酒四樽也相ひらく合五樽也 皆々村方入用也
翌晩も四嶋若者打合ニて又壱樽ひらけり 灯明は七夜上ヶ賑々敷事也

村中より御初穂金弐朱 灯明料五百文 村方より受納
西宿氏子中より灯明料廿疋 若衆よりも同 西町よりも同断
さん銭 廿三日夜九百七文 廿四日三〆七百十三文 合四〆六百廿文」

 
(2)八月の羽田村御札降り 《もくじ》

伊雑宮百年祭の次の項に、八月一日の御札降りと、八月二日の神事が書かれています。

「一同八月朔日北側勘右衛門門へ秋葉山御札 西羽田次郎兵衛前屋敷へも同札 
西羽田六三郎作小清水田へ当八幡宮御祓降れりと申出 勘右衛門之札六三郎の
札ハ八幡社中ニて祭祀次郎兵衛秋葉御札ハ頼ニより西羽田天王社中ニて祭祀
八幡社中は二日九時 天王社中は同八時 いつれも常陸神務執行村役人
惣代等参詣 神務相済 神酒壱斗ツヽ相ひらく 氏子共ハ廣庭ニていたゝく
(筆者註:二行ほど空けて)
今度は下地船町より初吉田町中へ追々降下りいつれも神酒甘酒投餅にハか等
有之大賑敷有之候伊勢御祓其外秋葉の御札其外之も交りて降れり

同月 中郷久左衛門屋敷へ秋葉御札 吉右衛門屋敷へ伊勢御祓降れり依之
八幡宮社中ニて勧請 翌早朝中郷北側若者打□□ニて送来れり 
 但 院内神楽社中ニて終日執行久左衛門吉右衛門両人ニて入用差出食事も同断 
   投餅      中郷中ニて 
   神酒壱斗   村中ニてひらく」


久左衛門、吉右衛門への御札降りは日付が記されていませんが、八月五日の「多聞山日別雑記」に、「西羽田作次郎秋葉ノ札降り、天王社ニも酒有ル、餅も投ル由也、大賑也、久左衛門・吉右衛門へも秋葉ノ札、勘右衛門へも降ル云事、明日神楽等有ル由也」とあり、同じく六日の記事で、六日に羽田八幡宮で神楽がおこなわれたことがわかりますので、御札降りは八月五日と考えられます。ただし、「萬歳書留控」では久左衛門と吉右衛門は中郷のようですが、「多聞山日別雑記」では場所の記載がありません。さらに、吉右衛門へ降った御札には、伊勢御祓(「萬歳書留控」)と秋葉ノ札(「多聞山日別雑記」)といった違いがみられます。神事の当事者である羽田野敬雄の記述が信頼できるのではないかと思いますので、ここでは伊勢御祓としておきます。

また「多聞山日別雑記」にみる勘右衛門への御札降りは、八月五日のことのようにみえますが、八月一日と同じ内容である可能性もあります。「多聞山日別雑記」では勘右衛門が北側の勘右衛門と同一人物なのかはっきりしないのですが、同一人物と仮定します。北側勘右衛門と西羽田六三郎の御札降りにともなう祭祀が二日に八幡宮でおこなわれていますが、二日の「多聞山日別雑記」では六三郎についての記述(「六三郎御森下ノ田へ当所八幡ノ札振り当八幡社へ納ル賑敷也」)はあるものの、勘右衛門のことは触れていません。いっぽう、五日の「多聞山日別雑記」にある勘右衛門への御札降りについて、「萬歳書留控」では全く触れていないのです。これは、どういうことでしょうか。二日の段階で「多聞山日別雑記」の筆者に勘右衛門への御札降りの件が伝わっていなかったとも考えられます。あくまでもこれは仮定の内容ですが、事実関係がはっきりしませんので、八月五日の「多聞山日別雑記」にみえる勘右衛門への御札降りの有無については確定せずに保留にし、数えないでおきます。

「多聞山日別雑記」によれば、八月五日以降も次のように羽田村に御札が降り続きます。

八月六日 西羽田二枚 → 七日、「天王社ニ而酒有ル」
八月六日 役ノ行者ノ御影 西羽田 作次郎 → 七日、「祠へ納ム嶋中多分居ル」
八月九日 富士山ノ札 佐次右衛門
八月十日 秋葉ノ札 百度 → 「大騒キ也」、十一日、天王社で餅と酒
※百度への降札による十一日の御札祭の場所は、『豊橋市浄慈院日別雑記』では「天神社」とあるが、「慶応三年羽田村お札降りについて」の「天王社」の方が正しいと思われる。
八月十一日 金光明最勝王経ノ札 西羽田 新次郎 → 十三日、自宅で勧請、夜分神楽
※八月十二日の記事だが、内容は十一日の夜と思われる。
八月十三日 「西羽田是迄ニ十四枚降ル云」
八月二十一日 柴燈護摩札 西羽田 次郎作 → 神楽も酒も止メル様可然と申遣
八月二十一日 月神拝御麻 西羽田 久太郎 → 神楽も酒も止メル様可然と申遣

八月六日、西羽田に二枚の降札がありましたが御札の種類はわかりません。七日に「天王社ニ而酒有ル日々続ク也」とありますので、これは六日の御札降りへの対応と思われますが、神事執行の担当者についてはわかりません。しかし、浄慈院では六日に西羽田作次郎に降った役行者の御影を七日に作次郎宅の祠に納めていますので、御札の種類が不明な六日の二枚の内の一枚である可能性がありますので、指摘しておきます。ここでは、役行者の御札は数に入れておきます。

八月十三日の記事には、「西羽田是迄ニ十四枚降ル云、一日頃より日々休日ニ而酒も有り、向ニより餅抔も有り、凡村中ニ而此度騒キ百両位ハ入用ノ由」とあり、八月二十一日までに合計十六枚が確認できます。この八月二十一日が最後の御札降り記録となりました。ここでは、「神楽も酒も止メル様可然と申遣」とあり、浄慈院の住職が御札降り騒動の収束をはかったと思われます。八月六日から二十一日までの御札降りについては、「萬歳書留控」では触れられていないのは、羽田八幡宮・羽田野敬雄が御札納などに関わらなかったことと関係がありそうです。

七月二十二日から始まった羽田村御札降りでは、八月二十一日までの約一ヵ月間で二十一枚(八月五日の「多聞山日別雑記」にみえる勘右衛門への御札降りを除く)の降札が確認できます。御札の種類は、秋葉五枚、伊勢二枚、羽田八幡宮・役行者・富士山・金光明最勝王経・柴燈護摩・月神拝御麻各一枚、不明八枚となり、不明である八枚の内容では逆転しますが、現在判明分では秋葉山の御札が最も多くなります。なお、「月神拝御麻」については、『豊橋市浄慈院日別雑記』では「目神拝御麻」、「慶応三年羽田村お札降りについて」では「月神拝御麻」とあります。

 
(3)今度は下地船町より初吉田町中へ追々降下り 《もくじ》

現在、資料で確認ができる御札降りや御札降りによる祭礼を、吉田藩の騒事停止命令がでた八月五日まで並べてみますのでご覧ください。六月二十一日より船町で御札が降り始め、渡船場には六月二十五日に降り、七月十四日には牟呂村に御札が降り始め、吉田宿及び周辺の村で御札降りや祭礼が拡大し始め、七月の終わり頃から吉田宿で連続多発的な様相を呈してくるのがわかります。六月二十五日から七月十四日までの間に、資料で御札降りの確認ができません。資料のうえで空白になっているのです。
 
御札降り年表(慶応三年六月二十一日〜八月五日) [もどる]
【六月】
六月二十一日 船町御札降り始まる →二夜三日(日にち不明)(「渡船場諸雑記」)
六月二十五日 船町渡船場へ御札降り →二十六日より五夜五日(「渡船場諸雑記」)

【七月】
七月十四日 牟呂村御札降り →三日正月(日にち不明)(「留記」)
七月十五日 牟呂村御札降り →十八日より二夜三日・牟呂八幡宮(「留記」・「多聞山日別雑記」)
七月十八日 吉田宿御札降り (「見聞筆記」『ええじゃないか始まる』) 
※場所不明だが、萱町(裏町)の可能性もあり(『ええじゃないか始まる』)
七月十九日 牟呂村御札降り(「留記」)

七月二十日 このころ草間村一色で狂言(「多聞山日別雑記」)
七月二十日 西松島新田御札降り(「留記」)
七月二十日 牟呂村御札降り(「留記」

七月二十二日 東松島新田御札降り(「留記」)
七月二十二日 牟呂村御札降り(「留記」)
七月二十二日 羽田村御札降り →二十三日・二十四日御鍬祭(「萬歳書留控」)
※このころまでに清須新田・馬見塚村の御鍬祭(二箇所ともに降札無しと思われる)と草間村・野田新田・萱町等に御札降り(「萬歳書留控」)

七月二十四日 下地村(船町の対岸)御鍬祭(「此夕集」)

七月二十六日 西宿(町裏)御鍬祭(「此夕集」)

七月二十七日 牟呂村御札降り(「留記」)
七月二十七日 中世古(町裏)御札降り →二十七日より二夜三日、秋葉祭(「多聞山日別雑記」)
七月二十七日頃 曲尺手町(表町)、吉田城内、その他各所に御札降りの噂(「多聞山日別雑記」)

七月二十八日 牟呂村御札降り(「留記」)

【八月】
八月一日 羽田村御札降り →二日、祭礼(「萬歳書留控」)
※「多聞山日別雑記」では、御札降りは八月二日の項に書かれているが、「萬歳書留控」に従った。
八月一日 「町々御鍬祭流行 俄ねりもの等一見」(「此夕集」)

八月二日 「町々御鍬祭俄出る」「夜 町内の人々と町々御鍬祭拝礼」(「此夕集」)
八月二日 本町(表町)御札降り →日待
     「町内清吉棟御祓天降 八文字屋嘉兵衛方にて日待執行」(「此夕集」)
八月二日 札木町(表町)大群集(「多聞山日別雑記」)

八月三日 「御鍬祭にて終日大群衆 所々より俄出来る」(場所不明)(「此夕集」)
八月三日 「今日ハ魚町也、上より  致様との事、左ナレトモ大群集御蔭参道者抔致し」、魚町(裏町)・呉服町(表町)の賑わい(「多聞山日別雑記」)  
※この頃吉田藩より騒動に対して働きかけの可能性あり。

八月三日か四日? 牟呂村、御札降り(「留記」)
八月四日 本町福引雨のため延引(「多聞山日別雑記」)

八月五日 牟呂村御札降り(「留記」)
八月五日 羽田村御札降り →六日、羽田八幡宮で神楽(「多聞山日別雑記」)
八月五日 「御鍬祭福引執行」(「此夕集」)
八月五日 横丁天王社のくじ引きで大群集となり、死傷者がでた模様(「多聞山日別雑記」)
八月五日 紺屋町・手間丁・神明前・その他にも御札降り・祭礼(「多聞山日別雑記」)
八月五日 吉田藩より騒事停止命令、「尤上より留ラレ明日よりハ騒事停止ニ成申也」(「多聞山日別雑記」)
《しかし、この後も御札降りや賑わいが続くことになる》
 
 
 
「萬歳書留控」の原本では、「今度は下地船町より初吉田町中へ追々降下り」の前二行ほどが空けられています。羽田野敬雄はここで、下地・船町から始まった御札降りと祭礼について説明をして一区切りをつけたのようにも思われます。八月三日の「多聞山日別雑記」には、「今日ハ魚町也、上より  致様との事、左ナレトモ大群集御蔭参道者抔致し、男女ニ成、女男ニ成リ町中歩行ノ由也、投物も沢山と申事」とあり、吉田藩より騒動に対して何らかの働きかけがあった可能性あります。資料中空白箇所になっているので内容は不明です。これは二日までの情況に対して、吉田藩がコントロールを試みたものだと思います。三日の記事ですが藩の働きかけは二日のことかもしれません。しかし、藩の対応にもかかわらず、その後も御札は降り続きました。「萬歳書留控」や「渡船場諸雑記」についても筆者が、この藩の対応を意識して記事を書いた可能性はあります。

「今度は〜降れり」の部分は、八月一日・二日と八月五日・六日の記事で挟まれており、八月五日以前に書かれた可能性があります。年表を見ると、七月二十四日の下地村御鍬祭以降、吉田宿内に御札が降り続いているのがわかります。とくに八月二日には、札木町で大群集、八月三日にも、魚町や呉服町をはじめとして吉田宿の多くの町内で祭礼がおこなわれています。八月四日は雨天のためか、どの資料にも祭礼の記録が見られません。羽田野敬雄は、八月三日までの御札降りや祭礼の情報に基づき「今度は〜降れり」の部分を書いた可能性があります。

いっぽう、「渡船場諸雑記」の御札降り記事が書かれたのは八月三日と思われ、それまでの情報を得て、「就テハ追々隣町近村ヘモ降リ 右同様ノ事ニ御座候」(「渡船場諸雑記」)と書いたのです。「渡船場諸雑記」の筆者の場合も、吉田藩の動きを受けて、八月三日が賑わいのピークとみていた可能性があります。

「萬歳書留控」には、久左衛門、吉右衛門への御札降り記事の後、半丁以上空けて、八月十五日の例祭について書かれています。長い空白部分に続きを書く予定であったのか、別のことを書こうとしていたのか、意図して空白としたのか、やや不可解でありますが、答えを導き出す方法はありません。わからないまま次の課題へ移ります。
 
2.下地村御鍬祭
(1)下地村と船町、どちらが早いか? 《もくじ》

「今度は下地船町より初吉田町中へ追々降下りいつれも神酒甘酒投餅にハか等有之大賑敷有之候伊勢御祓其外秋葉の御札其外之も交りて降れり」

この記事は、羽田野敬雄が「萬歳書留控」で船町御札降りに触れている箇所であり、問題となる表現がみられる箇所でもあります。「今度」が意味する内容は、八月一日の羽田村御札降りと翌日の神事といった狭い範囲ではなく、船町から始まり吉田宿へひろがっていった降札・祭礼・賑わいをさしていると思われます。このままの解釈ですと、「今度の吉田宿への御札降りと祭礼のはじまりは、下地村や船町」であったことになります。

ええじゃないかの発端が牟呂村であったという説が定説となり、吉田宿や周辺地域における最初の御札降りも牟呂村であったとする見方が強いと思います。しかし、「萬歳書留控」にみられるように、下地村や船町の御札降りが吉田宿へひろがっていった最初のケースだという解釈が成り立つことを認識することも重要です。ただし、ええじゃないかの発端とは少し距離をおいて慎重に考えるべきだと思っています。ええじゃないかの発端については、多角的に考える必要があると感じていますので、ここでは論じません。

ここで問題にしたいのは、「下地と船町」の順番です。下地村の次が船町では、「渡船場諸雑記」の内容と一致しないのです。「渡船場諸雑記」の筆者は、「就テハ追々隣町近村ヘモ降リ 右同様ノ事ニ御座候」と書いているからです。羽田野敬雄が「下地船町」を時間的に順を追って並べたのであれば、「渡船場諸雑記」の内容と食い違うことになります。ただ、「萬歳書留控」には、「一卯七月廿四日 東宮伊雑宮一百年祭礼の事」の、「此程近辺草間牟呂野田新田萱町等へ伊勢之御祓降下候とて祝祭れり」という記事のように、時間的な順序に従っていないと思われるケースもありますので、説明します。

草間村御札降りの日は不明ですが、七月二十日頃、草間村一色で狂言がおこなわれたとされる記録があります(「多聞山日別雑記」)。牟呂村の最初の降札は七月十四日で、七月十八日から御鍬祭(七月十五日の降札によるもの)がおこなわれており、「留記」の記述では牟呂村が周辺の村の中では一番早いことになっています。草間村は牟呂八幡宮の氏子と思われるので、「留記」の筆者が認識を誤るとは考えにくく、草間村の降札日がわからない以上、「留記」にあるように牟呂村が時間的に一番早かったことになります。しかし、「萬歳書留控」には「草間牟呂」の順で書かれています。したがって、ここでは「下地船町」の記述が時間的な順番で書かれていない可能性もあり得るとしておきます。

下地村と船町について、時間的な関係をあらわす記述が「此夕集」と「多聞山日別雑記」にあります。

「此夕集」三十六の七月二十四日の項に下地村の御鍬祭が書かれています。ただし、原本で確認しましたが、この二十四日の記事の後に、二十三日の記事が書かれており逆転しています。『此夕集』三十六で編集者の村松裕一氏は、「「此夕集 三十六」の疑問点と日記整理について」に、「蓬宇氏は日々書き溜めた日記を、後年に整理して、その年の自作も少し入れて一年一冊にしたものを「此夕集」と仕上げたものであろう。少しは間違も有るのだろうとぐらいには考えておく必要がありそうだ」としています。したがって、「此夕集」にある下地村御鍬祭の日付を考察する必要が生じてきました。豊川の水燈会についてはわかりませんが、吉田宿及び周辺地域では七月二十四日を盂蘭盆(うらぼん)と呼び、この日までお盆の供養をする家もありました。このような家では、精霊流し(精霊送り)を二十四日におこなうこともあったと考えられます。この時の精霊船のことを施餓鬼船と呼ぶこともあったようです。日付がなく、この水燈会に関する句とは断定できませんが、「此夕集」三十六で佐野蓬宇は「西へゆく風かふくなりせかき舟」と詠んでいます。以上のことなどから、筆者の誤写により順番は逆になっていますが、記述された日付には間違いがなく、下地村の御鍬祭は七月二十四日と判断しました。
 
竜拈寺雨乞  
 廿四日 晴








 
朝とく七つ起して香石ぬし同道 俊蔵をゐて
一の宮詣に出たつ 豊川のわたり 有明月殊に絶妙
行明川岸にて旭をかみて茶店に憩ひ
辰のかしら 草鹿砥家にいたる 御社拝礼
御手洗の中へ簟を置て 物くひ宇治の木のめを
すゝりて樹下に避暑して日すから遊ふ
申のかしら草鹿砥ぬしの家居にかへりて やかて暇を告
豊川社参詣下道通 薄暮元 下地の里にいたる
下地御鍬祭群集一見 水燈会参詣して やかて
渡舟を過て 家にかへりぬ
「此夕集」三十六

佐野蓬宇は、七月二十四日、一宮砥鹿神社と豊川社(豊川稲荷)に参詣して薄暮、下地村に至ります。そして、「下地御鍬祭群集一見 水燈会参詣して やかて渡船を過て家に」帰りました。当時豊川には洪水のため橋が架かっておらず、渡船がおこなわれていました。「水燈会」は「水灯会」とも書きます。この七月二十四日は、資料でわかっているだけでも、牟呂八幡宮で東松島新田(現豊橋市牟呂町)降札による祭礼(「留記」)、羽田八幡宮で御鍬祭(「萬歳書留控」)、龍拈寺(現豊橋市新吉町)で雨乞(「此夕集」・「多聞山日別雑記」)がおこなわれていました。また、七月二十四日は地蔵菩薩の縁日と盂蘭盆が重なるため地蔵盆と呼ばれることもあり、この日の「多聞山日別雑記」に、「地蔵尊勤行、夕方又勤ム、宗賢助法ス、参詣只少々也」とあるように参詣があった寺院もあることでしょう。慶応三年の記録は確認できませんが、下地村の対岸にある龍運寺(現豊橋市船町)では毎年七月二十四日は地蔵祭で賑わったようです(『三河国吉田名蹤綜録』)。この日は吉田宿町や周辺の村々で様々な行事がおこなわれていました。

下地村の御鍬祭が羽田村と同じ日であったため、羽田野敬雄が、「東宮伊雑宮一百年祭礼の事」で下地村に触れなかったとも考えられます。六月の船町御札降りの後で、七月二十四日の下地村御鍬祭がおこなわれたとなれば、順番の問題は解決となります。しかし、七月十八日の吉田宿の御札降り(「見聞筆記」『ええじゃないか始まる』)と七月二十二日の羽田村御札降り以前の吉田宿萱町御札降りと祭礼(「萬歳書留控」)をどのようにとらえたらよいのかという問題が残ります。下地村から始まり吉田宿へひろまったという解釈では説明ができません。

もっとも、「萬歳書留控」では下地村の御札降りや賑わいについて書かれてはいるものの、御鍬祭という表現はありません。いっぽう、下地村御鍬祭(七月二十四日)が御札降りを伴っていたのかは「此夕集」では確認できません。つまり、「萬歳書留控」と「此夕集」の下地村に関する内容が同一のものと判断してよいのかという問題もあります。

牟呂村や羽田村の場合、伊雑宮百年祭としての御鍬祭が準備されてきた過程で御札降りがあったことがわかっています。「東宮伊雑宮一百年祭礼の事」では船町はこのグループに入っていません。これは、時間的な開きが原因なのか、準備されていた御鍬祭ではなかったことが理由なのかわかりません。下地村の場合、羽田村と同じ日の祭礼であったために「萬歳書留控」のなかで羽田村御鍬祭といっしょに書かれなかった可能性があります。「今度は下地船町より」にみられる下地村の祭礼が七月二十四日であった場合、「此夕集」のいう下地御鍬祭には御札降りがともなっていたことになります。ただし、牟呂村や羽田村のように御鍬祭が準備されていたのかは不明です。現段階で発見されている資料では慶応三年の下地村に神明社・御鍬社・伊雑社を確認することはできません。

解決できない課題を残しながら次に進みます。

下地村と船町について、時間的な関係をあらわすもう一つの記述は、「多聞山日別雑記」にみられます。「多聞山日別雑記」の慶応三年八月二日の記事を見ていきますが、参考とする解読資料によって若干の違いがみられ、意味が異なる部分がありますので、両方ともあげておきます。残念ながら私は、原本を見ていないので、原本ではどのようになっているのか、わかりかねます。
 
「○今日ハ札木ニ而餅・銭金・手拭ノ類種々投ル申、大群集と云事、○過日下地ニ舟町、同様ノ賑合大群集と申事、珍敷事哉」
(『豊橋市浄慈院日別雑記』3)
 
「今日ハ札木ニ而餅銭金手拭ノ類種々投ル申大群集と云事○過日下地ニ舟町同様ノ振合大群集と申事珍敷事哉」
(「慶応三年羽田村お札降りについて」)
 
「過日下地ニ舟町、同様ノ賑合大群集」(『豊橋市浄慈院日別雑記』3)は、「過日、下地村と船町に、札木町と同様の賑わい大群集」したものであり、「過日下地ニ舟町同様ノ振合大群集」(「慶応三年羽田村お札降りについて」)は、「過日、下地村に船町と同様の大群集」という意味になると思います。「賑合」と「振合」は意味が異なります。該当の箇所は次のように様々な解釈が可能です。

『豊橋市浄慈院日別雑記』3の「過日、下地村と船町に、札木町と同様の賑わい大群集」とした場合、和田実氏が、「吉田城下における「ええじゃないか」」(『豊橋市浄慈院日別雑記』3の解説U)のなかで、「続いて、八月二日には札木町にて祭礼に伴って餅・銭・金・手拭が投げられ、大群衆となった。またこの日以前には豊川対岸の下地村や、吉田二十四町のうちの船町においても同様の賑わいがあったという」と解釈しているように、時間的な順序はどのようにもとらえられる表現といえます。そのまま普通に読めば、下地が先で船町が後と解釈した方が自然に感じます。

「慶応三年羽田村お札降りについて」の「過日、下地村に船町と同様の大群集」とした場合、「先日、下地村に、船町と同様の大群衆があった」と解釈できます。「先日」とは、七月二十四日として、不自然ではありません。同様に現在わかっている資料では船町の大群衆は六月です。この文が船町をテーマとしたものであれば、船町が後になる可能性もありますが、ここは札木町の大群衆を受けているので、船町の次に下地村とした方が自然な解釈だと思います。

このように、解読結果は一通りではありません。原本にはおそらく句読点はないので、読む人によって解釈が異なっても不思議ではありません。

ここでまた、問題を示しておきます。船町の後に下地村という順番であった場合、別の疑問が生ずるのです。下地村と船町は豊川を挟んで対岸に位置しており、橋や渡船で結ばれています。距離的に近いことがすなわち御札降り発生の原因につながるとは限りませんが、船町の六月二十一日から始まる御札降りと二夜三日(日にち不明)、さらに六月二十六日からの五夜五日という状況が、下地村に何らかの影響を与えたと考えることは可能です。しかし、御鍬祭のあった七月二十四日では、時間的に離れていると感じます。「萬歳書留控」の「今度は下地船町より初吉田町中へ追々降下り」という表現を考えたとき、この一ヶ月ほどの空白は、連鎖的とみるには長いように感じます。

あれこれと可能性を考えてはみるものの、現段階で発見されている資料で、これ以上問題を詰めることはできません。

 
(2)下地村御鍬祭の規模 《もくじ》

「萬歳書留控」と「多聞山日別雑記」の筆者がそろって、船町といっしょに下地村の名をあげていることに注目してみます。両者は羽田村に住み、羽田村の内容にはよく通じており、吉田宿町や近隣の村落の情報を多く持っていました。下地村と同じく七月二十四日には羽田村でも御鍬祭がおこなわれ、牟呂村ではそれ以前に御鍬祭がおこなわています。御札降りが、六月二十一日に始まる船町と七月十四日に始まる牟呂村から、吉田宿や周辺の村々にひろがっていったとなれば、つじつまが合うのですが、「萬歳書留控」では今度の吉田宿への御札降りと賑わいのはじまりは、下地村や船町であったとし、「多聞山日別雑記」では、八月二日の札木町の賑わいの比較対象に、牟呂村・羽田村ではなく、下地村・船町をあげているのです。

下地村は、「東海道吉田宿惣町御かげの次第」(『三州吉田宿の御札降りと、ええじゃないか(4)』を参照、出典は『豊橋市史』第二巻、以後「御かげの次第」と表記)に含まれてはいますが、豊川右岸の宝飯郡になります(左岸は渥美郡)。江戸の方向(東)から東海道を進んで吉田の城下を過ぎて船町から豊川に架かる吉田大橋を渡ると下地村です。橋を渡り左折して京の方向(西)に歩いて行くことになります。また、橋を渡ったあたりから豊川稲荷へ続く道が分かれています。『下地町史資料』第二集(鈴木栄二編、下地校区社会教育委員会、昭和三十四年・1959年)所収の「村内家別坪数書上下帳」(文久二年、元治元年改)によれば、村内には百六十三軒あり、商売をおこなっていた家が東海道沿いに並んでいたことがわかります。

「御かげの次第」は、慶応三年の御札降り騒動における、施行や催しの内容をまとめたものです。次の表をご覧ください。八月二日の「多聞山日別雑記」で名前が挙がった札木町・下地村・船町での降札・祭礼にともなう施行と催しのうち、比較しやすい施行のデータに絞ってまとめ、これに八月二日までの羽田村と牟呂村のデータを加えてみました。吉田宿の東海道メインストリートは上伝馬・本町・札木町・呉服町であり、なかでも札木町は本陣・脇本陣・旅籠屋・問屋場が建ち並ぶ吉田宿の中心です。「御かげの次第」のデータは期間が不明であり、正確な比較はできないことを前提に、下地村の施行規模を他の地域と比べてみてください。

船町では御神酒・投銭・投餅などがあり、投銭としての六百四十貫文は目を引くものがあります。御神酒に関して、江戸時代の四斗樽は酒三斗五升入であったといわれていますので酒五十樽となれば、千七百五十升になります。四斗入であったとしても二千升になります。下地村の御かげの期間がわからないので全くの仮定の話になりますが、これを御鍬祭のあった七月二十四日前後の二〜三日で飲むと考えた場合、かなりの人が集まらないと飲み干せない量であることがわかります。場所の特定はできませんが、下地村御鍬祭がおこなわれていた場所には、祭礼を目的に集まってくる人ばかりではなく、東海道を通行する旅人も集まってきたことでしょう。下地村の「大群衆」の様子が目に浮かぶようです。
 
船町・下地村・札木町・牟呂村・羽田村の施行 [もどる]


 
「御かげの次第」施行の内容 
※期間不明
他の資料で確認できる祭礼と施行
※8月2日まで
 
出典資料

 
船町


 
御神酒 
投銭当百文久銭640貫文
 
6月21日から降札
25日までに、二夜三日、投餅・銭・酒・甘酒等
6月25日降札
26日より五夜五日(施行は不明)
「渡船場諸雑記」

 
下地村

 
御神酒50樽 
投餅50俵 
団扇3,000本
7月24日御鍬祭(期間・内容不明)

 
「此夕集」

 
札木町
 
投餅30俵 
赤飯20俵
8月2日投餅・銭金・手拭等・投物
 
「多聞山日別雑記」
牟呂村

















 
該当せず

















 
7月14日降札から28日まで降札(20枚以上)
7月17日酒2樽(大西村、天王社、三日正月)
7月17日酒2樽(中村、社宮神)
7月18日・19日・20日(二夜三日)酒8樽(牟呂村、牟呂八幡宮)
7月19日降札、祭礼の日は不明、酒4樽(中牟呂、中牟呂内の小社)
7月20日・21日酒4樽(市場村、弁天社)
7月23日酒2樽(行合村、権現社)
7月23日酒1樽(中村、社宮神)
7月24日投餅(東松島新田、牟呂八幡宮)
7月28日酒2樽(市場村、弁天社)
28日までに酒25樽。
牟呂村の御札降りはこの後、十一月三日まで続き、九月十七日の降札記事に続いて、「牟呂惣村中ニ而 是迄之内外酒凡八拾樽計も買入候よし 前代未聞之事也」とあります。下地村の施行期間がわかりませんので単純な比較ができませんが、酒樽の総計では下地村よりもかなり多くなります。
「留記」

















 
羽田村









 
該当せず









 
7月22日降札(西羽田)
7月23日・24日御鍬祭(羽田八幡宮)
7月24日酒5樽・甘酒こうじ2斗白米5升(羽田八幡宮)
7月25日酒1樽(羽田八幡宮)
8月1日降札(北側・西羽田)
8月2日酒1斗(羽田八幡宮)
8月2日酒1斗(西羽田天王社)
「萬歳書留控」





 
7月24日酒6樽・甘酒1斗5升
7月25日雨乞、酒1樽
8月2日に降札・神事・賑わいの記事(施行は記せず)
「多聞山日別雑記」
 
 
「此夕集」と「萬歳書留控」・「多聞山日別雑記」の下地村の祭礼が別の日を指している可能性をまったく否定できませんが、これらを同じ祭礼として時間的な順番で並べるのであれば、船町・下地村のようになると思っていました。船町と下地村では期間が開き過ぎています。もっとも、「萬歳書留控」と「多聞山日別雑記」における船町の祭礼には日付がなく、これも同じものとは断定は仕切れません。日にちを確認できない場合は傍証による推論の他に方法はありませんが、「萬歳書留控」と「多聞山日別雑記」の船町と下地村の記事は特に時期がわかりづらいのです。

同様に「御かげの次第」の期間がはっきりしないので、曖昧な推論になりますが、「萬歳書留控」と「多聞山日別雑記」における船町と下地村の取り扱い方は、時期だけではなく祭礼の賑わいの規模も基準になっていると考えることができそうです。したがって、七月十八日に吉田宿のどこか(萱町の可能性もあり)で御札降りがあっても「萬歳書留控」や「多聞山日別雑記」では船町とともに取り揚げていないのでしょう。

御札が降っただけでは大きな賑わいにはなりません。多くの人が集まるだけの立地条件と施行や催しを行うだけの財力と組織が必要になります。下地村にはそれらの条件がそろっていたといえるのでしょう。先述しましたが、下地村の東海道沿いには商いをする家が建ち並んでいました。『三河国吉田名蹤綜録』によれば、下地村は小坂井兎足神社(現豊川市小坂井町)の氏子で、毎年四月十一日の祭礼にあたり、十日の夜には兎足神社で、九日には「番ならし」として豊川で花火を揚げており、村としての祭礼組織も整備されていたと思われます。

最後に少し気になることを述べておきます。慶応三年三月に発生した吉田宿助郷騒動と下地村御札降りと祭礼(七月二十四日の御鍬祭とは限らず)との関連についてです。取締庄屋であった(騒動後退役)下地村三蔵の一件が助郷騒動の原因の一端でした。まったくの想像になりますが、助郷騒動収束後もくすぶっていた問題と下地村御札降りとの因果関係の有無について興味があります。吉田宿助郷騒動に関しては、橘敏夫氏の「大山敷太郎氏引用慶応三年助郷騒動関係史料」(『愛大史学』第18号、平成二十一年・2009年)と、「慶応三年東海道吉田宿助郷騒動の再検討」(『愛知県史研究』第8号、平成十六年・2004年)が参考になります。

ある程度予測できたのですが、多くの問題を提起するばかりで結論を出すに至りませんでした。ますます迷路に入っていく感じがします。羽田野敬雄が、「萬歳書留控」にもう少し御札降りに関する記事を書き残していたらと思うのですが、仕方ありません。

不完全燃焼のまま、次号では「留記」を取り扱います。慶応三年の御札降りをみていくうえで、詳細な情報を持った重要な資料が「留記」です。しかし、この「留記」にも「萬歳書留控」同様に謎があります。

《もくじ》

『三州吉田宿の御札降りと、ええじゃないか』(1)−(5)概要
【三河武士がゆく】