三州吉田宿の御札降りと、ええじゃないか(5)

牟呂村御札降りは、ええじゃないかの発端といえるのか?

平成二十五年(2013年)一月四日
 

《もくじ》

1.「留記」
2.牟呂村御札降り
(1)御札降りの概要
(2)御札の降り方
(3)御札降りの背景
3.小村の対応と故障
(1)小村の対応
(2)松嶋新田の故障
(3)中牟呂の故障
4.「ええじゃないか」 の発端といえるのか
(1)「ええじゃないか」 発端資料
(2)最初の御札降りか
(3)周辺への波及
(4)村の秩序を乗り越えたのか

[表]
表1 牟呂村御札降り年表
表2 地域別牟呂村御札降り表
表3 牟呂村御札降り月別降札数
表4 牟呂村御札降り種類別降札数


※資料から引用するにあたって、ワープロにない旧字体・略字・合字などは、新字体や仮名文字に改めましたので、本書からの資料の引用は避けてください。

※明治五年の改暦前の表記は旧暦ですが、年号と西暦を併記する場合は、便宜上次のように表記します。例えば、慶応三年十二月九日の「王政復古の大号令」は、西暦では1868年1月3日ですが、慶応三年・1867年、又は慶応三年(1867年)とします。
 
《吉田宿及び周辺の、御札降り・御鍬祭関係地図》
拡大表示をすると、文字がわかりやすくなります。

 
※慶応三年当時の推定地図です。慶応三年当時、吉田大橋は大水による流失のため存在せず、船町・下地間の渡船がおこなわれていました。
※吉田二十四町には、東海道沿いの表町十二町(船町・田町・坂下町・上伝馬町・本町・札木町・呉服町・曲尺手町・鍛冶町・下モ町・今新町・元新町)と東海道南側の裏町十二町(天王町・萱町・指笠町・御輿休町・魚町・垉六町・下リ町・紺屋町・利町・元鍛冶町・手間町・世古町)がありました。町裏十か所(談合宮・中世古・野口・中柴・新銭町・清水町・御堂裏・西宿・西町・畑ヶ中)は吉田宿二十四町の裏におこった住宅地のことで、周辺の村との間に位置していました。
※「守上」・「守下」は、当時の土地の名称であり、町名ではありません。
 
《牟呂村・羽田村周辺の、御札降り・御鍬祭関係地図》
拡大表示をしますと、文字がわかりやすくなります。

 
※慶応三年当時の推定地図です。
※牟呂村・羽田村は台地上にあります。
※羽田村の北側・中郷・百度(ずんど)・西羽田を四島と呼んでいました。
※花ヶ崎村とは、現在の羽根井町・花中町・松山町あたりです。
※西宿とは、現在の豊橋駅とその周辺の広小路・駅前大通あたりです。豊橋駅の住所は豊橋市花田町字西宿です。
 
 
1.「留記」

三河国渥美郡牟呂八幡宮神主、森田光尋によって慶応三年牟呂村で発生した御札降りと祭礼が克明に記録されました。これが「留記」です。光尋は、羽田八幡宮の神主で国学者(平田門)でもあった羽田野敬雄に師事し、平田篤胤没後の門人(父、光義も平田門)となっています。「留記」原本は豊橋市美術博物館が保管しており、コピーを豊橋市中央図書館で借りることができます。私はこのコピーの方を見ています。

裏表紙に「両社大宮司 森田肥後守 四拾三才」とあります。光尋は明治三十一年(1898年)に七十四歳で没していることから、慶応四年(明治元年)頃書かれたと思われます。内容は、次のように別けられています。番号は便宜的に振っています。

@明和四年(1767年)・・・ 伊雑宮(御鍬社)勧請
A文政十三年(1830年) ・・・ 御札降りとおかげ参り
B慶応三年(1867年) ・・・ 御札降りと祭礼

慶応三年の騒動は直接光尋が関わっていますので、事の次第が詳細に記録され、次のような構成になっています。

・本編 : 七月十四日から十一月三日までの牟呂村に関する御札降りと祭礼。
・神異 : 牟呂村以外でおきた神秘的なできごと。
・牟呂村の神異 : 七月十四日、牟呂大西村への降札に始まる牟呂村での神異。

牟呂村のお札降りを考えるにあたって「留記」をベースにしながら以下の書籍を参考にしました。豊橋市中央図書館で借りることができます。

@田村貞雄 『ええじゃないか始まる』 青木書店、昭和六十二年・1987年
A牟呂史編纂委員会編 『牟呂史』、平成八年・1996年
B渡辺和敏 「慶応三年「御札降り騒動」発祥地の動向」 『愛知大学文学会叢書4 法制と文化』、平成十一年・1999年
C渡辺和敏 『ええじゃないか』 あるむ、平成十三年三月・2001年

資料はできる限り原本に近い表記をしますが、原本には句読点がありませんので便宜上付け加えている箇所があります。また、原本と活字になっている資料を見比べると僅かに異なっている箇所がありますので転載をせず、必ず原本をご確認ください。


 
2.牟呂村御札降り   
 
(1)御札降りの概要

「留記」によりながら七月十四日から十一月三日までの牟呂村御札降りの概要を述べていきます。「留記」からの引用には資料名を記していません。降札回数と枚数が多いので詳細な内容は省きますが、以下の表をつけておきましたので参考にしてください。

表1 牟呂村御札降り年表
表2 地域別牟呂村御札降り表
表3 牟呂村御札降り月別降札数
表4 牟呂村御札降り種類別降札数

牟呂村の規模は大きく、『牟呂史』によれば、次の表のように上組・中組・下組に別けられ、上牟呂・中牟呂・下牟呂と呼ばれていました。各組には小村と呼ばれる同族集団を中心とする生活の村がありました。小村には小村を氏子とする小社がありました。牟呂八幡宮は牟呂村全体の鎮守的存在でした。
 
『牟呂村棟別覚』による牟呂村の戸数(明治維新前後と思われる)
上組(上牟呂)151戸 市場86戸・大西53戸・大海津12戸
中組(中牟呂)138戸 坂津44戸・外神30戸・大公文31戸・小公文33戸
下組(下牟呂)161戸 行合34戸・中村85戸・東脇42戸
合計450戸
※『牟呂史』によれば、これは森田家が神務を執り行うためのもので実際の数とは異なるようで、「吉田領戸数調」による安政五年(1858年)の家数508軒、2,420人と、「牟呂村一覧表下書」による明治五年(1872年)の戸数527軒、2,560人も参考にする必要がある。
※松嶋新田は含まれていない。松嶋新田に関しては、「吉田領戸数調」では安政五年の家数11軒、58人であり、元治二年(1865年)の記録に16人の名が(『牟呂史』)、慶応三年、松嶋新田から八幡宮へ差し出された「奉差上一札之事」(七月二十四日付)には15人の名が見られる。
 
牟呂村の御札降りは、慶応三年(1867年)七月十四日七ッ時分(午前四時頃)、大西(牟呂の小村のひとつ)「多治郎屋敷東竹垣際笹之うら」で外宮の御祓が発見されたことから始まります。七月十四日はお盆の最中です。この外宮の御祓は十七日晩、大西の天王社に納められました。大西では三日正月(お祭のための休日)となり、神酒二樽を求めています。神事は牟呂八幡宮神主であった森田光尋により執行されますが牟呂村全体の祭礼にはなっていません。

なお、降札場所については、不明な点があります。森田光尋から山田宰記と山田左源太へ宛てた手紙(慶応三年十一月十九日付)の写しと思われる資料(森田家文書)に、「七月十四日外宮之御祓天王社中江降臨」(「慶応三年「御札降り騒動」発祥地の動向」)とあるのです。「多治郎屋敷東竹垣際笹之うら」は天王社中ということも考えられますが、十五日にもあった降札の場所が天王社であったという理由で御札が八幡宮での取り扱いになっていることを考えますと、十四日の外宮御祓の降札場所は天王社中ではなかったと考えた方が自然です。

十四日の朝見つかった御祓が天王社に納められたのが十七日晩です。少し時間がかかりすぎています。これは、御祓の発見者も含めて御札降りが人為的なものだと疑われていたことによります。ところが、十四日夜、発見者の息子(八歳)が病気でもないのに急死したのです。この時点では神罰とは思われなかったのですが、十五日夜半に別の、疑った者の妻(十三日より「おこり」を煩っていた)が亡くなります。十五日の晩(夕暮方とも)には、天王社にも降札がありました。そして、十六日の朝より村人たちが神罰であるとにわかに騒ぎ出し、十六日の夜、大西の惣代二人が八幡宮を訪れて事の次第を報告しました。これにより、大西は三日正月となるのです。

七月十五日晩、中村普仙寺の「秋葉之石灯籠之垣ノスミ竹ニ」内宮の御祓が見つかり、中村から八幡宮へ届けがありました。中村は大西の南側に隣接する小村です。十七日、文政十三年の御札降りの時と同様に中村の社宮神社の御祓箱に納められ、神酒二樽が開かれました。この神事も十四日に発見された御祓の時と同様に森田光尋によって執行されました。

七月十五日晩(夕暮方)、天王社の「行者之東雑木枝之上」「伊雑皇太神宮之御小祓」が降っているのが見つかりました。「牟呂之神異」には「天王社中庚申の東の雑木の枝」「磯部の御祓」とあります。おそらく、十四日の御札降りの件と同時だと思いますが、天王社への御札降りは、大西より八幡宮へ届けられました。この天王社への降札は天王社が牟呂八幡宮の支配地という理由で、御祓は八幡宮へ納める事になりました。

寺社の支配地の場合、その影響を受けることがありました。後で述べますが、慶応三年のお札降りでは松嶋新田への降札をめぐる問題がおこっています。また、御蔭参りが流行した文政十三年(1830年)には、牟呂村の真福寺地内に伊勢神宮の御祓が降り、坂津・外神の者が渡してくれるようにと頼みましたが、真福寺側はこれを拒絶して寺に納めるということもありました。

天王社への御札降りにより、森田光尋と惣代たちは七月十八日から二十日までの二夜三日正月を取り決め、文政十三年(1830年)のおかげ同様に取り計らうことになりました。八幡宮は牟呂村全体の鎮守的存在であるので、村を挙げての祭礼となっていくのです。このようにして、牟呂村御鍬祭が始まったのです。

七月十八日七ッ時、伊雑宮の御祓を天王社より八幡宮へ移しました。このとき、大西、中村、公文、市場は手踊りをおこない、中村は餅投、市場は饅頭投をしました。十九日晩には大西の小供が手踊りをおこないました。二十日には酒樽二樽を開き当初の予定(六樽)と合せて酒樽は八樽となりました。

牟呂村での「二夜三日正月」の二日目にあたる七月十九日夜、中牟呂の坂津と公文に合わせて九枚の御札が降りました。中牟呂はそろって小宮四社へ幟を立て、公文は大頭梁、坂津・外神は若宮へ籠もりました。この九枚の御札は八幡宮へは届けられず、それぞれの小宮に納められています。この時中牟呂では酒樽を四樽開いたそうです。

牟呂村での「二夜三日正月」の三日目にあたる七月二十日、市場の弁天社へ内宮の御祓が降り、二十一日弁天社拝殿へ納めました。市場は中村の南方向に隣接する小村です。

同じく七月二十日卯の刻、西松嶋新田のおげん山にある水神社(現松島社)前に外宮の御祓が降りました。松嶋新田は市場の南側、柳生川を渡った地域に開発された新田です。この御札降りは松島社の棟札(『豊橋市神社棟札集成』)でも確認ができます。棟札には次のようにあります。

(表)
慶應三年丁卯七月二十日卯刻 
松島新田神社之前ニ天降座 
同日外宮鎮座   松島新田庄屋
          岡田権四郎豊乃
          村中一統安全
         匠工
          味岡善平竣工八十一兩
              社徒老人

(裏)
  太神宮外宮御本宮

この外宮の御祓は西松嶋新田の地主で、西宿(現豊橋駅から広小路一帯の地名)の秋葉権現社神主であった、廣岩主水(敬敏)により、同日外宮に納められました。水神社は水神の他、稲荷・秋葉を祀っていました。「留記」には「主水之内宮」とあり「ウチ」と仮名が振ってあります。「うちみや」とは廣岩主水が持っているという意味なのでしょう。棟札にある外宮とは「そとみや」であり、水神社の境内社を意味しているようです。

広岩主水の秋葉権現社がある西宿は吉田宿の町裏で、吉田宿に隣接しており、本町や萱町からは徒歩数分の距離です。廣岩主水と親交があった佐野蓬宇(吉田宿本町在住)が著した「此夕集」(『此夕集』三十六)の慶応三年七月二十日の項には、「晴 松嶋新田の宮前に御祓降ていはひとて廣岩家によはるゝ」とあり、御札が降った日に西宿の廣岩家でお祝いがあったことがわかります。松嶋新田御札降りのニュースは、その日のうちに吉田宿へ伝わったことでしょう。他の資料から、この二日前の十八日には吉田宿のどこか(萱町の可能性あり)で御札が降ったことがわかっています。

七月二十二日、東松嶋新田権作の藪に内宮の御祓が降り、七月二十四日に八幡宮に納められています。

七月二十二日、行合権現社と中村に御札が降り、七月二十七日と二十八日、市場弁天社に内宮の御祓が降っています。七月二十七日に降った内宮御祓は市場弁天社中の大杉へ空中より降ったものです。これまでに牟呂村では酒樽を二十五樽開いています。

七月の牟呂村での御札降りは以上で、続いて段落を下げて次のように牟呂村以外の地域の御札降りをまとめています。資料中の「光文」とは森田光尋の息子のことです。

吉田町々江御祓降臨 秋葉之小札御像札抔数多降臨 鶴よりも小き鳥クワへ空中より落し候よし申触ラス 尤光文眼前ニ見し事有 

「吉田町々江御祓降臨」の時期は明記してありませんが、七月二十七日、町裏の中世古に御札が降り(「多聞山日別雑記」)、同日の「多聞山日別雑記」には「其外曲尺手・城内并所々へ種々ノ札降ル噂也」とありますので、七月二十七日頃と思われます。

引き続いて七月二十七日、前芝の加藤六蔵屋敷に讃岐金毘羅の御幣が降り、その後牛久保や下町(吉田宿下モ町のことか?)にも御札が降ったことをあげています。続いて近在の西羽田・富田・羽田・羽根井・橋良・草間・大崎・大津・小池・小浜・高足などの名をあげて、残らず大方降ったとしています。

段落が上がって、八月五日の大西への降札記事が見られます。ここから八月の内容になります。八月五日の一両日以前にも大西に降札がありました。八月五日の御札は天王社へ納められた後、九月九日に自宅へ納められています。その後八月十六日、大西の二箇所へ降札があり、いずれも御札は天王社へ納められた後、九月九日に自宅へ納められています。この八月十六日が「留記」で確認できる大西での最後の降札の記録です。

八月十一日、中村に降札があり、社宮神に納められました。

八月十二日、牟呂八幡宮に秋葉の小札と御像札が降りましたが、八月十四・十五日は八幡宮の大祭であるためこれを避けて、八月十六・十七日を祝いの日と決めました。祭礼では小村による狂言・手おどり・投餅などの催しがありました。御札は八月十七日晩七ッ時、秋葉社(八幡宮の境内社と思われる)へ納められました。

この後、森田光尋は息子の光文を伴って遠州秋葉山参詣のため八月二十日から二十四日まで出かけています。表4にみられるように秋葉に関する御札が多いのです。

八月十八日、中村に御札が降り、八月十九日に社宮神へ納められました。

市場には八月二十一日、弁天社へ御札が降り、二十五日に弁天社へ納められ、二十四日にも御札が降り、この御札は自宅へ納められました。

八月二十四日までに松嶋新田に十三枚、その後四枚、九月九日に一枚降り、合計十八枚となりました。

八月二十五日、中村に御札が降り、自宅へ納められました。

八月二十四日の市場へ降った御札が自宅へ納められていますが、二十四日以後の降札で不明な場合を除いて確認できる納場所は自宅となります。八月五日と十六日の大西に降った御札の場合はいったん天王社へ納めてから九月九日に自宅へ納めています。秋葉山参詣から森田光尋が帰ってきたのが二十四日です。光尋は秋葉山参詣を一つの区切りとして騒ぎの鎮静化を試みたのかもしれません。

しかし、九月に入ってからも御札は降り続きます。九月七日、東脇と中村、九月九日、坂津と松嶋新田、九月十七日、坂津と市場、九月十八日、中村にそれぞれ降りました。九月十七日と思われる箇所に、「牟呂惣村中ニ而是迄之内外酒凡八拾樽計も買入候よし 前代未聞之事也」とあります。九月二十八日、中村に御札が降り、九月の記事は終わります。

九月に降ったと思われる三十枚の内、中牟呂が二十枚(坂津十八枚、外神二枚)です。この内、三枚は日付がわかっていますが、九月九日の御札降りより前の、坂津・外神の降札の日付は書かれていません。しかし、九月六日の「多聞山日別雑記」の記録には「○坂津・外神此節大分札降り、今日神楽有ル云、二度目也」とあり、九月六日までに多数の降札があったことがわかります。七月十九日にも九枚(公文七枚、坂津二枚)降っていますので、これに次いで二度目という意味なのでしょうが、七月十九日の時も神楽がおこなわれたのかもしれません。今回も中牟呂に降った御札は八幡宮には届けられず、小村で対応したようです。

その後、十月(日付無し)に市場へ、十一月三日、外神に秋葉山の御札が降りました。

「留記」の記録はここまでとなっています。

資料で確認できる降札枚数は八十枚です。内訳は七月十九枚、八月二十九枚、九月三十枚、十月一枚、十一月一枚です。七月十四日に始まった牟呂村御札降りは九月いっぱいで大方終息したといえます。

 
(2)御札の降り方

次の表を参考にしてください。

表1 牟呂村御札降り年表
表2 地域別牟呂村御札降り表
表3 牟呂村御札降り月別降札数
表4 牟呂村御札降り種類別降札数

牟呂村の総降札数を組別又は小村別に比較してみますと、三つの組のなかで戸数が最も少ない中牟呂が最も多く、月別にみても中牟呂が最も多いことがわかります。中牟呂の特徴は一度に多く降っていることです。小村別では坂津が二十枚と突出しています。坂津と他の小村の違いが何であるのかわかりません。また、気になるのは松嶋新田です。戸数は十五軒ほどと思われますが、十八枚という数は人口比では最大です。牟呂村全体の降札数が八十枚ですので、坂津と松嶋新田で牟呂村全体の約半数の降札数となります。最初に降札がありました大西は七枚であり、九月からは降札を確認できません(最後は八月十六日)。このように見てきますと、牟呂村御札降りで特に気になる地域は、大西、中牟呂、松嶋新田です。

最初の降札地が大西であった理由はわかりませんが、文政十三年(1830年)の御札降りで、真福寺の次に御札が降った場所が天王社でしたので、天王社あるいは天王社のある大西への御札降りであれば、御札降りと祭礼が強く結びつくと御札を降らした者が考えたのかもしれません。

降札枚数が多い中牟呂と松嶋新田ですが、この二つの地域はそれぞれ異なる内容の故障を抱えていました。証明する資料はありませんが故障と枚数との因果関係を疑いたくなります。これらの故障については後で触れます。

御札の種類は、伊勢神宮系(内宮・外宮・太神宮・伊勢・伊雑宮)の御祓が最も多く秋葉山(秋葉大権現)の御札が続きますが、七月中は秋葉山の御札は降っていません。秋葉山の御札が降り始めるのは8月12日八幡宮からです。

慶応三年の牟呂村御札降りは、近隣の村の中では最も早く始まり、吉田宿を含めた周辺地域の中でも早い時期に発生したものであり、長期間断続的に御札が降ったため、降札数が多くなり、御札祭が繰り返しおこなわれました。そのため、牟呂村全体では切れ目なく御札降りと祭礼がおこなわれているような印象を受けます。しかし、牟呂村御札降りの実態を知るためには、小村ごとの御札降りを整理しておく必要があります。

 
(3)御札降りの背景

最初の牟呂村御札降りの背景には、この時期西三河より流行してきた御鍬祭の存在が考えられます。「留記」には、「此近村ニ而御札之降始也」とあり、前掲の森田光尋から山田宰記等へ宛てた手紙の写しに「吉田近在ニ而者私村方始ニ而」とあるように、森田光尋にとっては、牟呂村御札降りが吉田近在で最も早い御札降りという認識がありました。しかし、御鍬祭については周囲に比べると遅れていたのです。「留記」には次のようにあります。

「此ころ近村にて御鍬祭といふこと流行に、この牟呂計しかせさる事を、神のしるし見せてなさせ給ふなるへしなと、口々にいひさわぐ」

「今度御鍬祭といひて近郷御祭を致ス、此村も十六日過なハ御祭もせはやとおもひ居りしに、ふしきにも御祓のふりしによりて、かくいつくしく御祭仕へ奉りける也」

牟呂村は吉田藩領で最大規模の大所帯だけに準備にかける時間が必要だったとも考えられますが、遅れていた理由は書いてありません。

御鍬祭の執行を七月十六日を過ぎた頃に予定していたところ、七月十四日に外宮の御祓が降ったのです。十六日過ぎとは、盆を避けたのではないでしょうか。七月に入る頃から盆の準備が始まります。盆の期間は十三日から十六日までで、牟呂村には放下と言って十四日朝から初盆の家々をまわる行事がありました(「参河吉田領風俗」『三河文献集成 近世編・下』)。盆の念仏は若者仲間にとって大切な村の行事でした(『牟呂史』)。

七月十四日より前の段階で牟呂村の近村では御鍬祭りがおこなわれており、遅れていた御鍬祭を催促するかたちで御札が降ったのだと村人たちが騒ぎ出したのです。もっとも、最初の御札降りは人為的なものとして疑われていました。ところが、二人の死によってにわかに神異的なものへと変化していくのです。

「萬歳書留控」から、隣接する羽田村の状況がわかります。羽田村でも御鍬祭を予定していたところ、「此程近辺草間牟呂野田新田萱町等へ伊勢之御祓降下候とて祝祭れり」という周囲の状況となり、「廿二日西羽田次郎兵衛前屋敷へ伊勢の御祓降下」し、七月二十三日・二十四日、羽田八幡宮で伊雑宮百年祭(御鍬祭)がおこなわれたのです

 
3.小村の対応と故障   

次の表を参考にしながら説明します。

表1 牟呂村御札降り年表
表2 地域別牟呂村御札降り表
表3 牟呂村御札降り月別降札数
表4 牟呂村御札降り種類別降札数

 
(1)小村の対応

牟呂村の御札降りの性格を知るためには、小村による御札降りへの対応を個別に見ていく必要があります。牟呂村が氏子である牟呂八幡宮の祭礼も含めて、祭礼の担い手となる実動的な組織は小村です。牟呂村の規模は大きく、上牟呂・中牟呂・下牟呂に別けられていました。ほとんどの小村が独立の村として取り扱ってよいほどの人口でした。牟呂村御札降りを考える場合、この事を意識する必要があります。明治維新前後と思われる牟呂村の小村の規模は、次のように『牟呂村棟別覚』(『牟呂史』)によって知ることができます。
 
 
小    村
上組(上牟呂)151戸 市場86戸(7枚)・大西53戸(7枚)・大海津12戸
中組(中牟呂)138戸 坂津44戸(20枚)・外神30戸(3枚)・大公文31戸・小公文33戸
下組(下牟呂)161戸 行合34戸(1枚)・中村85戸(11枚)・東脇42戸(3枚)
合計450戸
※( )内に降札数を入れた。松嶋新田(18枚)、公文(7枚)、八幡宮(3枚)。
※『牟呂史』によれば、これは森田家が神務を執り行うためのもので実際の数とは異なるようで、「吉田領戸数調」による安政五年(1858年)の家数508軒、2,420人と、「牟呂村一覧表下書」による明治五年(1872年)の戸数527軒、2,560人も参考にする必要がある。
※松嶋新田は含まれていない。松嶋新田に関しては、「吉田領戸数調」では安政五年の家数11軒、58人であり、元治二年(1865年)の記録に16人の名が(『牟呂史』)、慶応三年、松嶋新田から八幡宮へ差し出された「奉差上一札之事」(七月二十四日付)には15人の名が見られる。
 
 
小村は同族を中心とする共同体であり、小社を管理していました。御札が納められた小社は次のようになります。

大西・・・天王社
市場・・・弁天社
坂津・・・若宮
外神・・・不明
公文・・・大頭梁
行合・・・権現社
中村・・・社宮神
東脇・・・不明
東松嶋新田・・・牟呂八幡宮
西松嶋新田・・・水神社
(※松嶋新田に関しては取り扱いが不明な点が多い)

「留記」には、森田家が執行した降札の神事や初穂料などが書き留められており、取り扱いが不明な御札の多くは、森田家に届けられず、ほとんどが小村でのなかで取り扱われたと考えられます。牟呂八幡宮に納められた御札以外の取り扱いが明らかな降札の多くが小社に納められ小村により祭礼がおこなわれています。取り扱いが明らかな御札の内、八月二十四日以降の降札は自宅へ納められています。

多くの祭礼が小村主体でおこなわれていることから考えても、御札降りの目的は小村の住民が意図するものであったと考えた方が自然です。そして、牟呂村御札降りのほとんどが、祭礼を期待してのものと考えられますので、鳥がくわえて御札を降らすなどの一部の例外を除いて、降札場所は意図的に選択されたと思います。つまり、祭りの費用を負担できる富裕な家や寺社が目標となったのです。「留記」には、「町方ニ而も在方ニ而も勝手向宜敷者方計ニふり候ハ如何之事ニ哉」とあります。

小村ごとの降札数と戸数をみますと、松嶋新田の戸数に対する降札数の割合が突出しているのがわかります。坂津が続いていますが遙かに及びません。松嶋新田と坂津(中牟呂)に特有の状況はそれぞれに問題を抱えていたことにあります。

 
(2)松嶋新田の故障

松嶋新田の所有に関する歴史は、所有者が転々としており、よくわかっておりません。

「留記」によれば開発以来、西松嶋新田には牟呂八幡宮から勧請した水神社があり、文化年中、西宿の廣岩又右衛門が新田を買い取って元締となり、おげん山に水神社を移したことになっています。これに対して、東松嶋新田は西松嶋新田よりも開発が古く、村持ちで免状があることになっています。免状とは年貢割付状のことです。

しかし、『豊橋市史』によれば、松嶋新田は寛文七年(1667年)吉田藩主小笠原忠知の家臣、野部与次右衛門と堀惣助、馬見塚村孫平次により開発され、与次右衛門と惣助分が元禄五年(1692年)に善次郎に譲渡され、その後所有者は転々として西宿の廣岩左膳となったとあります。これが東松嶋新田にあたり、馬見塚村孫平次分が西松嶋新田と思われます。

松嶋新田の所有に関する記述は「萬歳書留控」にもあります。文政二年(1819年)九月の「持地高改有之則書付差出覚」には、羽田八幡宮神主の羽田野敬道(羽田野敬雄の養父)が所有する西松嶋新田と東松嶋新田の石高が記載されています。この石高は、享保元年(1716年)の「吉田領分村々高附」(『豊橋市史』第六巻)にみえる東西松嶋新田の石高と同じです。この羽田野敬道とは、西宿秋葉権現社神主であった廣岩敬道のことであり、文化八年(1811年)、羽田野家を継いでいます。敬道は文化年中に西松嶋新田を買い取ったとされる廣岩又右衛門と同一人物と思われます。

羽田野敬道は、文政七年(1824年)に羽田八幡宮から西宿に戻り、養子敬雄に家督を譲り廣岩右近を名乗るのが天保四年(1833年)です。文政十一年(1828年)六月十七日の松島社の伊雑皇大神宮棟札表に、「元〆羽田野上総敬道、廣岩左京平敬末」の名が見られ、裏には「此新田廣岩氏本家也 悉々相譲候者也」(『豊橋市神社棟札集成』)とあります。松嶋新田の所有権は敬道から廣岩家の家督相続者に渡り、慶應三年の時点では、廣岩家の養子である廣岩主水(敬敏)が相続していたと思われますが、西松嶋新田の所有権が廣岩家にあることは問題が無いとして、東松嶋新田については、住人と廣岩家との間に主張の違いがあり、所有権をめぐる問題がありそうです。このことを踏まえながら松嶋新田の御札降りをみていく必要があります。

七月二十日、西松嶋新田にある水神社に降った外宮の御祓は、同社の神主で、西松嶋新田の地主でもあった、廣岩主水によって水神社の外宮に納められました。ところが、七月二十二日、東松嶋新田権作の藪に内宮御祓が降ると、住人たちがこれを機に降札場所を宮地と定めて社を作ろうとして、牟呂八幡宮へ勧請を依頼したのです。東松嶋新田には開発以来神社が無く、以前は高札場にあった御札を納める札箱も御札降りの時には無かったのです。住人としては、降札場所である東松嶋新田が村持ちであるという理由で、廣岩家に届ける必要性を感じなかったのでしょう。しかし、廣岩主水との間に故障が生じたのです。故障の詳細については資料がありませんが、住人の動きに対して主水が何らかの権利を主張したと考えられます。森田光尋が故障の巨細を住人に尋ねた結果、七月二十四日、御札は牟呂八幡宮に奉納されました。この時、森田光尋は住人から次のような一札を受け取っています。

 
奉差上一札之事
一 伊勢内宮御祓当村江天降り候処此度
  正一位牟呂八幡宮御社江奉納候
  依之奉納金百疋差添奉差上候就而者
  当村ニ水神社有之候共村中故障
  一切無御座候ニ付仍而連印一札如件
    慶応三年 
    丁卯七月廿四日                  松嶋新田
                                    (中略)
 大宮司様
『おかげまいりとええじゃないか』(豊橋美術博物館)

「留記」には「尤主水心得違なり」とあり、この一札には「当村ニ水神社有之候共村中故障一切無御座候」とあります。社を作ることに支障は無いように思いますが、住人の思うようには行かなかったようです。七月二十四日の牟呂八幡宮での神事について「留記」では、「廿四日御本社へ預り勧請ス 九ッ半時也 神酒壱升御備壱せん なげもち等也 村中一同相揃参詣御祓持参也 金五拾疋初穂 金百疋預り神供料也」とあるのですが、これで一件落着となったのでしょうか。以後東松嶋新田に社ができたことを確認することはできません。主水の心得違いであることがわかったにもかかわらず、御札が牟呂八幡宮に奉納されていることは、問題の複雑さを示しているように思います。

「留記」と松島社の棟札(『豊橋市神社棟札集成』)によって、七月二十日から九月九日までに松嶋新田に降った御札は十六枚から十八枚であったことがわかります。このうち、水神社へ三枚、牟呂八幡宮へ一枚が納められたことがわかっています。対応がわかっている四枚を除く御札のうち七枚の降札場所は「留記」に書かれていますが、対応が不明です。九月九日に再び権作へ秋葉の御札が降っていることもわかります。対応が不明なこれらの御札に関わる神事をおこなったのは誰なのでしょうか。「留記」で対応が確認できないということは森田光尋が関与しなかったとみることもできます。九月九日の権作への降札も含めて、神事を執行したのは廣岩主水と考えることもできますし、神主に依頼できなかったとも考えられます。

降札への対応の背景には、森田光尋と廣岩主水(敬敏)との関係も考慮した方がよいのかもしれません。二人は同じ神主であり、さらに二人共に平田門で、羽田野敬雄との関係が深いのです。光尋の父森田光義は敬雄の紹介で平田篤胤の門人となっており、光尋自身も敬雄に師事しています。いっぽう主水は敬雄の娘(敬道の孫)の婿であり、西宿の廣岩家を継いでいます。明治四年(1871年)に羽田野敬雄が牟呂下村行合組に塩浜新田を売却した時の證人は廣岩左膳(主水のこと)、世話人は森田五位(光尋のこと)となっています(「萬歳書留控」)。

森田光尋が廣岩主水とのトラブルを避けようとする限り、松嶋新田住民が社を作ろうとする動きはうまく運ばないように感じます。住民の不満は、はけ口を求めるかひたすら我慢することになることでしょう。

『羽田野敬雄と羽田八幡宮文庫』(村松裕一、平成十六年・2004年)に、明治十一年(1878年)、廣岩左膳と小作との間の訴訟について触れられています。これは、『牟呂吉田村誌』(白井梅里、大豊橋社、昭和八年・1933年)によるものですが、廣岩主水と松嶋新田住人との東松嶋新田をめぐる問題の延長線上にあったのかもしれません。

「元締は轉々し最後の持主花田村廣岩左膳は舊反別二十一町二反二畝九歩、改正反別三十町九反四畝二十歩の掟米歩合につき明治十一年小作側と訴訟沙汰迄も行った後小作銘々へ分割賣渡となった。」(『牟呂吉田村誌』)

 
(3)中牟呂の故障

大西天王社への御札降りにより、牟呂村では七月十八日から二夜三日が始まりました。その最中の七月十九日夜、中牟呂の坂津と公文に合わせて九枚の御札が降りましたが、なぜか牟呂八幡宮には届けられず、小村で祀る小社に納められました。「留記」には、「此四ヶ村少々故障有之故ニ当家江は届不参」とあるだけで故障の理由を記していません。四ヶ村とは坂津、外神、大公文、小公文をさしていると思います。『牟呂史』によりますと、坂津と外神は今では牟呂用水によって分断されているようになっていますが(一部入り組んでいる)、かつては家続きで関係が深かったようです。

「留記」には故障の詳細が明確でなく、経緯がわかりませんが、七月十八日、天王社から八幡宮へ伊雑皇太神宮の御祓を移した際、小村によって手おどりや餅投・饅頭投がおこなわれた時に御祓に供奉した小村は大西、中村、市場、公文であったことがわかります。坂津と外神の名はみられません。断定はできないものの、供奉していれば「留記」に小村の名が出てくるように思います。四十年ほど前になりますが、「留記」によれば、文政十三年(1830年)の御札降りの時、中牟呂は他の小村と歩調を合わせて行動していることがわかっています。七月十八日からの二夜三日のことは三組の庄屋には連絡されており、文政の御かげと同じようにおこなうものとされているのです。こうしてみますと、七月十八日の段階で既にトラブルが生じていたという見方もできます。

「留記」には次のような記述があり、牟呂八幡宮での二夜三日における御鍬社の御供をめぐって中牟呂の若者にトラブルがあったことがわかります。

「御鍬社之御備三組江相談中牟呂少々若者故障有之村中ニ而取揚御備当家江戻ル廿四日同日為持遣ス惣代江」

ただし、この文だけでは状況を把握することが困難です。御鍬社の御供えをめぐる中牟呂若者の故障と十九日の中牟呂御札降りの一件との前後関係や因果関係が不明です。

八月十二日、牟呂八幡宮に秋葉の小札と御像札が降り、八月十六・十七日を祝いの日と決めました。このときの祭礼では小村による狂言・手おどり・投餅などの催しがありました。参加した小村は東脇・大西・市場・中村ですが、中牟呂の小村を確認することはできません。問題事が解決されずに続いていたと考えることもできます。この御札祭の直前、八月十四日・十五日の八幡宮大祭(例祭)への中牟呂の参加も気になるところですが確認できる資料はありません。結局、牟呂村御札降りの期間中、中牟呂に降った三十枚の御札は八幡宮に届けられることはなかったようで、問題がくすぶり続けていたと考えた方が適当なのかもしれません。

中牟呂の故障の当事者は誰なのでしょうか。牟呂八幡宮とのトラブルとも考えられますし、他の小村とのトラブルの可能性もあります。両方共ということも考えられます。祭礼における氏子同士のトラブルは「萬歳書留控」にもみえますように羽田村や吉田宿内でも生じています。羽田村では、元治元年西羽田天王社祭礼における投餅をめぐる中郷若者と他の三嶋の故障がありました。ほかに、羽田野敬雄が神主であった神明宮の氏子である船町と田町のように事ある毎に対立し、積もりに積もった不満が祭礼で爆発したり、さらに祭りの喧嘩が尾を引いてもめ事を繰り返した例もあり、神主や宮司はその対応に苦慮したようです。

断定的な資料ではありませんが、中牟呂と他の小村との関係が疎遠であったと思わせるような資料があります。『牟呂史』によれば、文化十四年(1817年)から文政十二年(1829年)までの十三年間に中牟呂から転出した四十四人(嫁入り35、養子の男子8、出家男子1)のうち、牟呂村内での移動は、わずかに上牟呂との縁組み三人(嫁入り2、養子1)だったことがわかります。但しこれは慶応三年よりも四十年近く前のことであり、以後の動向はわかっておりません。牟呂村では婚姻や養子などの人的交流が少なかったのか、それとも、中牟呂特有の現象なのかは、調べてみなければわからない事です。

以上、松嶋新田と坂津の降札数の人口比が高い理由を、双方の故障に求めてみましたが、因果関係を証明するには至りませんでした。

 
4.「ええじゃないか」 の発端といえるのか

表1 牟呂村御札降り年表
表2 地域別牟呂村御札降り表
表3 牟呂村御札降り月別降札数
表4 牟呂村御札降り種類別降札数
表5 牟呂村・羽田村・中世古御札降り種類別降札数
 
(1)「ええじゃないか」 発端資料

『豊橋百科事典』(豊橋市、平成十八年・2006年)の「ええじゃないか」には、次のよう書かれています。

「ええじゃないかは、慶応3(1987)年7月14日吉田(豊橋)宿近郊牟呂村大西(豊橋市牟呂大西町)での伊勢外宮や伊雑社の御札降りを契機として、牟呂村では手踊りや餅投げ神酒の振る舞いなど臨時の祭礼が行われた。この後周辺の羽田村・草間村・橋良村・吉田宿などでも次々と御札が降り、人々は揃いの衣装をまとい、乱舞して宿村内の寺社へ参詣し祭礼を行い、狂言・手踊り・投餅・投銭・着飾った練り歩きなどが行われた。吉田宿での騒動は東海道を通じて東西へと伝わり(後略)」(93頁〜94頁)

また、同書の「『ええじゃないか』発端資料」には次のようにあります。

「(前略)「留記」、森田光尋が京都吉田家山田宰記らに宛てた「書簡」の写しや森田光尋が松島新田より受け取った「一札」の3点が、慶応3(1867)年の「ええじゃないか」騒動の発端となる最初の御札降りの時期と場所などを示す資料として文化財に指定されている。
「留記」には、慶応3(1867)年7月14日、渥美郡牟呂村(豊橋市牟呂大西町)に最初に御札降りがあったこと、その後手踊りを伴う集団参詣、吉田宿など近隣周辺への伝播等が克明に記されている。ほかの2点の資料については、この「留記」の記述を裏付ける内容となっている。」
(94頁)

牟呂村御札降りが、ええじゃないかの発端とされる要件は、ええじゃないかの発端となる最初の御札降りであることと、騒動が周辺へ波及したことであるようです。これらの要件をひとつずつ検証してみます。

 
(2)最初の御札降りか

私は最初に牟呂村の御札降りが本当に最初なのだろうか、船町の御札降りの方が早いのではないかという疑問から慶応三年吉田宿及び周辺の御札降りについて調べはじめました。牟呂村よりも早い時期の御札降りを示す資料を次にあげます。@は降札地域が不明です。BCは吉田の地名が確認されます。Aの降札地は吉田宿船町です。「渡船場諸雑記」につきましては、『三州吉田宿の御札降りと、ええじゃないか(2)』で詳しく述べてきました。

@威宝院(豊川市篠束町)の「諸記録」
「慶応三年夘五月時分ヨリ諸国諸山之札降申候也」

 ※「諸記録」は嘉永三年(1850年)から明治三年(1870年)までの記録。
 ※『小坂井町史』近世史料編・下巻(平成十六年・2004年)575頁
 ※参考文献:橘敏夫 「三河国碧海郡小垣江村のお札降り」 『愛知大学綜合郷土研究所紀   要』第52輯(平成十九年・2007年)

A「渡船場諸雑記」
「慶応三年丁卯六月廿一日ヨリ伊勢内宮様御祓 猶又春日様 秋葉様御札所々へ降リ」

 ※『三州吉田船町史稿』(昭和四十六年・1971年)所収

B「伊那郡村々降札一件鹿塩村源蔵留記」
「諸国神仏共ニ御札ふる事」として「慶應三卯六月下旬より三州吉田初め」とある。

 ※慶応三年十月に中之条役所に差し出されたものの写し
 ※『長野県史』近代史料編第一巻(昭和五十五年・1980年)144頁
 ※参考文献:田村貞雄 「「ええじゃないか」の東西南北」 『国際関係研究』27巻3号、日本大  学国際関係学部国際関係研究所(平成十八年・2006年)
  参照サイトアドレス(2013年1月4 日確認)
  http://members2.jcom.home.ne.jp/mgrmhosw/eetozai.htm

C「御値段・役人附・諸色□覚帳」
「当年慶応三年卯年六月末方より 国中四方伊勢大神宮御はらいふり 吉田新井浜松其外一同にふり」

 ※『鳳来町誌』所収の部分は、九月十二日の記事まで載っている。「当年」を今年と解釈するの  であれば、慶応三年に書かれたものといえる。
 ※『鳳来町誌』歴史編(平成六年・1994年)484頁
 ※参考文献:大久保友治「慶応三年最初の御札降りについて」『三河地域史研究』第十六号   (平成十年・1998年)

その他、拡大をしなかった単発の御札降りとして、慶応三年三月と五月の名古屋での御札降りも、『ええじゃないか始まる』で紹介されています。「最初の御札降り」と「ええじゃないかの発端である御札降り」とは、はっきりと区別して論じなければならないのです。

ところが、慶応三年最初の御札降りが牟呂村御札降りだという情報がひとり歩きしているところに出くわすことがあります。例えば、最近のケースでは、『新編豊川市史』第二巻(通史編 近世)(平成二十三年・2011年)では、「ところで、慶応三年のお札降りで全国でもっとも期日が早いのは、七月十四日の渥美郡牟呂村(豊橋市)の例である」(967頁)としています。典拠は、『ええじゃないか』(渡辺和敏、あるむ)としていますが、渡辺氏は、ええじゃないか騒動へ結びつく御札降りとそうでないものを区別しています。

「最初の御札降り」と「ええじゃないかの発端である御札降り」は混同されやすい理由は、慶応三年の豊橋市域での最初の御札降りが、「ええじゃないかの発端である御札降り」であるという説が支持されてきたからだと考えます。豊橋市域で牟呂村の御札降りが最も早かったという前提は、船町御札降りの否定によって成立するのですが、船町御札降りの時期を完全に否定する要件は整っていないことが段々とわかってきました。さらにそれを補強するために、船町御札降りの時期を否定する根拠とされる三つの点に関して疑問を投げかけます。

[A]此近村ニ而御札之降始(「留記」)

「留記」の「牟呂の神異」と書かれた下に「此近村ニ而御札之降始也」あります。近村の範囲に吉田宿が含まれているのかが問題になります。著者の森田光尋は「留記」の中で、「今度御鍬祭といひて近郷御祭を致ス」とあるように近村と同じ意味の「近郷」も使っています。その他の箇所では、「吉田町々」と「近在」、又は「町方」と「在方」といった区別をしています。牟呂村と吉田宿は現在同じ豊橋市域であり、当時、吉田宿とその周辺の村々とは区別をされていました。吉田宿周辺には牟呂村や羽田村があり渥美郡に属し、豊川の対岸にある下地村や大村は宝飯郡でした。「近村」の範囲は森田光尋にしかわかりませんが、吉田宿が含まれていたかどうかの断定はできません。

なお、『ええじゃないか』巻末所収の「留記」には「近辺」とありますが、原本は「近村」となっていますので、注意が必要です。

[B]吉田近在ニ而者私村方始ニ而(森田家文書)

前掲の森田光尋から山田宰記と山田左源太へ宛てた手紙(慶応三年十一月十九日付)の写しと思われる資料には次のようにあります。

「本国者七月上旬より御鍬祭大流行、村々夫々賑ひ候ニ乗し、伊勢両宮之御祓降臨始り、吉田近在ニ而者私村方始ニ而、七月十四日外宮之御祓天王社中江降臨、夫より引続所々江日々内宮・外宮、又諸社之御札等降臨ニ而」(「慶応三年「御札降り騒動」発祥地の動向」)

やはり、ここも[A]と同様に、「吉田近在」に吉田宿が含まれるのか否かが問題になります。[A]の「此近村ニ而御札之降始也」と、[B]の「吉田近在ニ而者私村方始ニ而」の意味は同じだと思います。森田光尋がどのような認識であったのか、断定はできません。

なお、「七月十四日外宮之御祓天王社中江降臨」とありますが、「留記」には、大西の多治郎屋敷東竹垣際笹の裏に降ったとあります。

[C]牟呂より後(「留記」)

「留記」の「神異」の項に次のようにあります。

神異
牟呂より後
○船町つぼや裏ニ大神宮之御祓ふりしを いせ詣の旅人わすれしにやと
おもひて 垣ニ挟み置けり 家内三人おこり 又種々之病ニ而煩ひ苦
しみけり ある卜者に占はしむるに いせの御祓をおろそかにせし
罪によりて しかなやむといひけり 直ニ御わひ申 家を清め 
神祭りをせしかは たちまち治しけりなんと

この「神異」の記事では、牟呂村と船町の降札時期の前後関係が明確です。この場合の牟呂村の神異とは七月十四日から十五日にかけて牟呂村でおこった御札降りと二人の死(突然死・病死)を指していると思われます。この牟呂村の神異の後で船町つぼや裏に大神宮の御祓が降ったのです。

問題になるのは、牟呂村よりも後である壺屋裏への御札降りと、六月二十一日から始まった船町御札降りが同一であるかないのかです。同一であれば、「渡船場諸雑記」の内容と明らかに矛盾します。「渡船場諸雑記」の船町御札降りの記述は日付の間違えだったことになります。

「渡船場諸雑記」の船町御札降りの記事によれば、六月二十一日から伊勢内宮様・春日様・秋葉様の御札が降った六箇所のなかに「庄右ヱ門」の名が見られ、これが「船町つぼや」、つまり壺屋庄右衛門のことと思われます。壺屋は船町で料理屋を営んでいたようで、森田光尋が「留記」のなかでいう、「勝手向宜敷者」のひとりだったのかもしれません。本題とは関係ありませんが、「つぼや」は現在の壺屋弁当部の前身と思われます。

「船町つぼや裏」への御札降りはいつだったのでしょうか。船町では、「二夜三日御備燈明ヲ献シ一日遊日御日待」(「渡船場諸雑記」)をして、祭礼が執り行われています。これに対して、「神異」にある壺屋裏への御札降りの場合、大神宮の御祓を伊勢詣での旅人が忘れたものだと思って祀らずにおろそかにしています。そのために家の者が病にかかったのだと信じ、「直ニ御わひ申 家を清め 神祭りを」したものです。この二つのケースを比べてみますと、御札降りへの対応に違いが感じられます。船町への御札降りは早くて六月二十一日、その後二夜三日となり、二十五日に渡船場に降札があり、二十六日から五夜五日となります。つまり降札から祭礼までの時間は短いと思われます。壺屋裏に降札があり、御札が放置され、家の者三人がおこりや種々の病いにかかったことにより、卜者に占ってもらい、お詫びをして、家を清めて、神祭りをするとなりますと、それなりの時間を要すると思います。壺屋への降札は一度だけではなかった可能性があることを指摘しておきます。

ここで御札降りの時期について、「留記」原本中の気になる箇所を指摘しておきます。[A]でとりあげた資料になりますが、「牟呂之神異」の下に続いて「此近村ニ而御札之降始也」と書かれています。

                    ○○○チ
         此近村ニ而御札之降始也○○○○○○○○○○也
   牟呂之神異 

 七月十四日七ッ時分外宮御祓大西多治郎屋敷江御下りを大海津
            
「牟呂之神異」と「此近村ニ」以下の部分は少しずれています。「七月十四日」から始まる本文一行目が下に行に連れてやや右寄りになっているため、「此近村ニ」以下の部分は本文一行目よりも後から書かれたと思われます。「始」の下の文字は、「者(は)」と読めなくもないのですが、断定はできません。その文字の左側に「也」の文字が書かれています。その下に十五文字ほどの二行の文章が続いているのですが、墨塗りされており、内容を確認することはできません。何らかの理由で「此近村ニ而御札之降始也」と訂正されたと思われます。どのような意図で訂正をしたのかは訂正者にしかわかりません。「牟呂之神異」の下に近村で御札が降り始めた場所が書かれていた可能性はあります。これ以上追うことができないのが残念です。

以上の資料をみてきましたように、読み方によって内容が異なり、ひとつの解釈ではないことがわかります。船町御札降りの資料である「渡船場諸雑記」も日付を間違えたという解釈が評価されたことによって六月降札という時期が否定的な見方をされてきました。しかし、今までみてきましたように、日付を間違えたという断定はできないのです。明らかな間違いでなければ、資料に書かれていることが定説となるのだと思います。そこを突き崩す事ができないときは、別の説を立てて展開したのだとしても、あくまでも可能性の範囲であることを読者に誤解されないようにしておいた方がよいのだと思います。時が経ち新たな資料が発見されたとき、事実がわかるのです。

 
(3)周辺への波及

御札降りの情報は、直線的に順次伝わるのではなく、また、同心円状に歩調を合わせて伝わるのでもありません。情報を持った人が移動する距離や場所、情報の受けとらえ方によって伝わり方は異なります。つまり、隣接する地域であっても情報が伝わるのが遅くなることもあるのです。御札降りや祭礼の日にちの順番を追うだけでは正確な伝わり方を求めることにはなりませんので注意したいところです。

七月十四日の牟呂村大西の御札降りの後、中村(十五日)、坂津(十九日)、公文(十九日)、草間村(七月二十日頃狂言)、市場(二十日)、松嶋新田(二十日)、行合(二十二日)、羽田村(二十二日)と牟呂村及びその周辺で御札降りが続いています。

牟呂村最初の御札降りが当初、重要視されておらず、降札から祭礼に至るまで日数がかかっており、二人の死と十五日晩(夕暮方)の天王社(大西)への降札によって、十四日の大西の御札降りが俄に表面化するのが十六日朝からです。これは大西を中心とした範囲であったと思われ、八幡宮の森田光尋が大西の惣代から状況説明を受けたのが十六日の夜なのです。したがって、十四日の降札(大西・外宮の御祓)と十五日の降札(天王社・伊雑宮の御祓)の情報は同時に森田光尋に伝えられたと思います。これにより十七日から大西での三日正月、十八日から八幡宮で二夜三日正月が決められ、いったん天王社へ納められていた伊雑宮の御祓が八幡宮に移されることになるのです。

十五日の天王社や中村への降札も含めた情報が降札地域周辺部に伝わり、その情報量が第に多くなってくるのが、大西で騒ぎ出した十六日からと思われ、大西での三日正月が始まった十七日、八幡宮での御鍬祭が始まった十八日以降、情報が伝播していったと思われます。

「萬歳書留控」によれば、羽田村御札降りの背景には、御鍬祭の流行と周辺部の御札降りがあります。七月十八日に牟呂村御札降りの情報が羽田村にある浄慈院に伝わったことが「多聞山日別雑記」でわかります。

「坂つ六右衛門来ル、真桑瓜五本入ル、お鍬様ノ札降り、今日より牟呂中勇ミ祭ル云」(『豊橋市浄慈院日別雑記』)

この時点で羽田村にどの程度の情報が伝わっていたのかは不明ですが、檀家を持たず祈祷をおこなっていた浄慈院には羽田村以外からの出入りが多く、情報が伝わるスピードは羽田村でも早いほうであったと思われます。そして、さらに浄慈院から各地へと情報がひろがっていったことでしょう。

七月十四日の牟呂村御札降りの後、日付が確認できる御札降りは、十八日夜の吉田宿での御札降りです。「萬歳書留控」によれば、二十二日までに「草間 牟呂 野田新田 萱町等へ伊勢之御祓降下候とて祝祭れり」といった状況が発生しており、十八日夜の吉田宿御札降りが萱町であった可能性もあるのです。

草間村は松嶋新田の南方に位置しており、元和五年(1619年)の記録では、牟呂八幡宮の宮座に入っていたことがわかります(『牟呂史』)。「留記」と「萬歳書留控」から、二十日頃狂言があり、それ以前に御札が降ったと考えられます。

現在の資料では、日をおかずに十八日に続く吉田宿での御札降りを確認できませんが、近隣の羽田村や町続きの下地村、町裏の西宿・中世古に御札降りや御鍬祭がおこなわれています。

二十日 松嶋新田御札降りの祝い(西宿廣岩家で) (「此夕集」)
二十二日 羽田村御札降り (「萬歳書留控」)
二十三日〜二十五日 羽田村御鍬祭 (「萬歳書留控」)
二十四日 下地村御鍬祭 (「此夕集」)
二十六日 西宿御鍬祭(町裏) (「此夕集」)
二十七日 中世古御札降り(町裏) (「多聞山日別雑記」)

そして、吉田宿(表町・裏町)への降札に関しては、二十七日の「多聞山日別雑記」に、「其外曲尺手城内并所々へ種々ノ札降噂也」と記されています。噂ですが、二十七日頃、城内や町内各所に御札が降りはじめたことがわかります。そして、八月一日から「町々御鍬祭流行」(「此夕集」)となっていくのです。慶応三年の七月は、二十九日まででした。

このようにしてみますと、牟呂村に始まった御札降りとそれにともなう祭礼が周辺部に波及していったように感じられます。
 
(4)村の秩序を乗り越えたのか

『ええじゃないか』で渡辺和敏氏は次のように書いています。
 
中牟呂の「故障」とは、若者が、村内の指導者が決めた二夜三日正月に従わず、独自の祭礼を行ったことである。お札の降下にともなう祭礼が、ついに村の指導者の統制から離れてしまったのである。
(『ええじゃないか』18頁)
 
村内の中牟呂では若者が神主・村役人らの主導に反発し、独自の行動をみせはじめた。お札降りにともなっての秩序ある祭礼から、村の指導者の統制がきかない騒動に転化したのである。
(『ええじゃないか』57頁)

祭礼は村の重要な行事として、村の指導者の統制によって運営されてきました。この社会秩序を乗り越えることによって統制がきかない騒動へ転化したのが牟呂村御札降りであったというものです。確かに中牟呂の行動は、牟呂八幡宮を中心とした祭礼の秩序から外れているようにみえます。しかし、中牟呂が独自におこなった祭礼が村の指導者の統制がきかない騒動に転化したようには思えないのです。

小村の祭礼組織は、御札降りによる臨時の祭礼にもスムーズに対応できる体制であったと思われます。中牟呂の場合、坂津には若宮、外神には八王子、公文には大頭梁と熊太郎といった小社があり、小村によって祭礼が行われていました。七月十九日に坂津と公文に一晩で九枚の御札が降ったとき、小宮四社には幟が立てられ、公文(大公文と小公文)は大頭梁へ、坂津・外神は若宮へ籠もりました。時期は九月と思われますが二度目に多数の御札が降ったときには、九月六日に神楽がおこなわれています。中牟呂の若者が暴走したというよりも、指導者の下で組織的な行動をしていたように思われます。

牟呂村の祭礼の内容についても、他の地域と特に変わったものはありません。神社に幟を立て、酒を振る舞い、餅や饅頭を投げ、狂言や神楽がおこなわれ、手踊りもありました。六月にあった船町御札降りによる田町神明宮の二夜三日では、俄(踊か狂言)を仕組み、餅や銭をまき、酒や甘酒などを往来の者に施し夥しく群集しています。それ以前にも田町神明宮では祭礼の時に俄踊りや伊勢おんどなどがおこなわれたことがありました。羽田八幡宮でも神楽・狂言・角力・手踊りがおこなわれていました。

ええじゃないかの定義に社会秩序を乗り越える動きが求められるのであれば、八月三日の吉田宿の、「上より  致様との事、左ナレトモ大群集御蔭参道者抔致し、男女ニ成女男ニ成り町中歩行ノ由也、投物も沢山と申事」(「多聞山日別雑記」)といった有様、これは資料中空欄になっており内容がはっきりしませんが、吉田藩がコントロールを試みたようです。しかし、これは効果が無かったようで、八月五日には祇園祭よりも多いくらいの大群集となり、本町の福引で事故による死傷者が出るという興奮した状況こそが、ええじゃないかの様相に近いのだと思います。死者が出たことで吉田藩は、翌六日より騒事停止とします(「多聞山日別雑記」)。町側も自粛をする姿勢になったと考えたいのですが、八月七日には御調練庭(守上か)で御鍬祭がおこなわれています(「此夕集」)。その後も吉田宿周辺の羽田村、牟呂村、飽海村などでは御札が降り続きそれにともなう祭礼が執り行われています。吉田宿内での大群集の記録はしばらくはみられないのですが、八月下旬に大聖寺(守上)、観音院(中世古)などに仏像が降るという奇異な事態が発生すると大群集となりました。また、「元かち町・魚町其外へ札降り、所々より?ニ相成、一町内子供迄連立テ札ノ降り所ヲ巡拝ニ而賑敷也」(8月30日、「多聞山日別雑記」)という事態もおこりましたが、仏像降臨騒動を境に吉田宿では沈静化に向かったようです。

『牟呂史』には次のようにあります。
 
牟呂のお札ふりは、目下のところ国内では最も早いとされ学者の注目を浴びている。しかし先に述べたように、その対応は村役人主導のもとに行われたのであり、お鍬祭の延長上にあった。この点いわゆる「ええじゃないか」の騒ぎとはやや趣を異にしている。
(『牟呂史』257頁)

このようにして牟呂村御札降りをみてきました。牟呂村御札降りは極めて早い段階のものであり、周辺に与えた影響も少なくなかったと思われますが、吉田宿の「御札降り」・「御鍬祭」・「おかげ祭」に影響を及ぼしたのは、牟呂村の御札降りと祭礼(御鍬祭を含む)だけではありません。それまでに流行していた御鍬祭や牟呂村より前にあった御札降りや祭礼も影響をしています。したがって、どこが発端であるのかを決定することは困難な作業なのです。第一、ええじゃないかの定義が定まっておらず、発端の定義も決め難いのに、ここからが発端であると線を引くのは無理があるのです。「留記」は牟呂村の御札降りと祭礼が克明に書かれた貴重な資料です。その内容からは、信仰、祭礼、神社と村の関係、村の組織力などを知ることができます。御札降りの時期やええじゃないかの発端にこだわらずに読んでいくことで、等身大の「牟呂村御札降り」がみえてくるのだと思います。

 
 
 
表1 牟呂村御札降り年表 
月日
 
御札の
種類

小村
 
降札場所
 
納め先
 
対応・その他
 
7月14日 外宮 大西 多治郎屋敷 17日天王社 17日より三日正月
7月15日
 
伊雑宮(磯部)
 
大西
 
天王社
 
天王社→18日八幡宮 天王社は八幡宮の支配地 文政のおかげと同様に 18日より二夜三日正月
7月15日 内宮 中村 普仙寺 17日社宮神 文政の御札降りと同様に
7月19日 太神宮 坂津 治左衛門 小社 若宮へ籠もる
7月19日 伊良湖 坂津 彦太郎屋敷 小社 若宮へ籠もる
7月19日 太神宮 公文 惣兵衛 小社 大頭梁へ籠もる
7月19日 太神宮 公文 惣作 小社 大頭梁へ籠もる
7月19日 太神宮 公文 惣助 小社 大頭梁へ籠もる
7月19日 太神宮 公文 秋葉石燈籠 小社 大頭梁へ籠もる
7月19日 太神宮 公文 大頭梁 小社 大頭梁へ籠もる
7月20日 内宮 市場 弁天社 21日弁天社  
7月20日

 
外宮

 


 
松嶋新田
 
おげん山 (元〆山)
 
20日廣岩主水の内宮
 
おげん山の所在は西松嶋新田と思われる。内宮(うちみや)とは、水神社のこと
7月22日
 
内宮
 

 
松嶋新田 権作の藪
 
24日八幡宮
 
東松嶋新田
 
7月22日 内宮 行合 権現社 23日権現社  
7月22日 光明山 中村 仲蔵 23日社宮神  
7月27日 内宮 市場 弁天社 28日弁天社  
7月28日 内宮 市場 弁天社 28日弁天社  
8月3日か4日? 外宮
 

 
大西
 
不明
 
天王社
 
8月5日の一両日以前の降札 八幡宮へ参詣
8月5日 内宮 大西 与平 天王社 八幡宮へ参詣 9月9日自宅
8月11日 内宮 中村 仲蔵前本畑 12日社宮神 八幡宮へ参詣
8月11日 津嶋 中村 兵蔵屋敷 12日社宮神 八幡宮へ参詣
8月12日
 
秋葉
 

 

 
八幡宮
 
17日秋葉社
 
12日仮屋で祭る。 14日・15日は大祭 16日・17日を祝いの日とする
8月12日
 
御像札
 

 

 
八幡宮
 
17日秋葉社
 
12日仮屋で祭る。 14日・15日は大祭 16日・17日を祝いの日とする
8月16日 秋葉 大西 文蔵 18日天王社 八幡宮へ参詣 9月9日自宅
8月16日 金毘羅 大西 孫作 18日天王社 八幡宮へ参詣 9月9日自宅
8月18日 内宮 中村 徳蔵 19日社宮神  
8月18日
 
秋葉
 

 
松嶋新田 小屋の廂
 
19日水神社
 
出典:『豊橋市神社棟札集成』
 
8月18日
 
伊雑宮
 

 
松嶋新田 神社の廂
 
19日水神社
 
出典:『豊橋市神社棟札集成』 
 
8月21日
 
秋葉
 

 
市場
 
弁天社
 
25日弁天社
 
24日八幡宮へ参詣 8月20日ー24日森田光尋秋葉山参詣
8月24日 秋葉 市場 留吉 留吉自宅  
8月24日までに 不明
 

 
松嶋新田 権四郎
 
不明
 
7月の可能性もあり
 
8月24日までに 不明
 

 
松嶋新田 善治
 
不明
 
7月の可能性もあり
 
8月24日までに 不明
 

 
松嶋新田 不明
 
不明
 
松嶋新田では8月24日までに13枚降札7月の可能性もあり
8月24日より後 尾州一宮
 
松嶋新田 権四郎
 
不明
 
9月の可能性もあり
 
8月24日より後 秋葉
 

 
松嶋新田 善治
 
不明
 
9月の可能性もあり
 
8月24日より後 秋葉
 

 
松嶋新田 安平
 
不明
 
9月の可能性もあり
 
8月24日より後 秋葉
 

 
松嶋新田 和助
 
不明
 
9月の可能性もあり
 
8月25日 秋葉 中村 甚左衛門 27日自宅 八幡宮へ持参、拝念後自宅へ 
9月6日までに 各種小札 15
 
坂津
 
喜三郎他ニ軒 不明
 
坂津喜三郎はじめ同村三軒、一軒へ五枚宛
9月6日までに 秋葉
 

 
外神
 
万吉
 
不明
 
 
 
9月6日までに 秋葉
 

 
外神
 
久作
 
不明
 
 
 
9月7日 役行者 東脇 勘十本畑 不明  
9月7日 護摩札 東脇 勘十本畑 不明  
9月7日
 
秋葉
 

 
中村
 
彦蔵
 
自宅か?
 
8日八幡宮へ持参、拝念後自宅へと思われる
9月9日 秋葉 坂津 源之助 不明  
9月9日
 
秋葉
 

 
松嶋新田 権作
 
不明
 
 
 
9月17日 御札 坂津 若宮 不明  
9月17日 外宮 市場 彦治 17日自宅  
9月17日 秋葉 坂津 治三郎 不明  
9月18日
 
秋葉
 

 
中村
 
久太郎
 
自宅か?
 
19日八幡宮へ持参、拝念後自宅へと思われる
9月18日
 
役行者
 

 
中村
 
久太郎
 
自宅か?
 
19日八幡宮へ持参、拝念後自宅へと思われる
9月28日 秋葉 中村 久蔵 不明  
9月28日
 
信州善光寺
 
中村
 
久蔵
 
不明
 
 
 
10月
 
御鍬
 

 
市場
 
平七
 
自宅か?
 
19日八幡宮へ持参、拝念後自宅へと思われる
11月3日 秋葉 外神 久蔵 不明  

※8月24日より後、松嶋新田の和助への降札が確認できるが、松嶋新田から八幡宮へ差し出された「奉差上一札之事」(7月24日付)の連名、15名中に「和助」の名は無く、「利助」の名がみられる。( 「慶応三年「御札降り騒動」発祥地の動向」所収資料A)
※「9月6日までに」欄の坂津・外神の降札時期は、「多聞山日別雑記」を参考にした。
※内容は伝聞を含んでいる。
※資料の解釈によって枚数が異なる。
 
表2 地域別牟呂村御札降り表
月日
 
御札の種類 枚数 小村
 
降札場所
 
納め先
 
対応・その他
 
7月14日 外宮 大西 多治郎屋敷 17日天王社 17日より三日正月
7月15日
 
伊雑宮(磯部)
 
大西
 
天王社
 
天王社→18日八幡宮 天王社は八幡宮の支配地 文政のおかげと同様に 18日より三日正月
8月3日・4日? 外宮
 

 
大西
 
不明
 
天王社
 
8月5日の一両日以前の降札 八幡宮へ参詣
8月5日 内宮 大西 与平 天王社 八幡宮へ参詣 9月9日自宅
8月16日 秋葉 大西 文蔵 18日天王社 八幡宮へ参詣 9月9日自宅
8月16日 金毘羅 大西 孫作 18日天王社 八幡宮へ参詣 9月9日自宅
7月20日 内宮 市場 弁天社 21日弁天社  
7月27日 内宮 市場 弁天社 28日弁天社  
7月28日 内宮 市場 弁天社 28日弁天社  
8月21日
 
秋葉
 

 
市場
 
弁天社
 
25日弁天社
 
24日八幡宮へ参詣 8月20日ー24日森田光尋秋葉山参詣
8月24日 秋葉 市場 留吉 留吉自宅  
9月17日 外宮 市場 彦治 17日自宅  
10月
 
御鍬
 

 
市場
 
平七
 
自宅か?
 
19日八幡宮へ持参、拝念後自宅へと思われる
7月19日 太神宮 坂津 治左衛門 小社 若宮へ籠もる
7月19日 伊良湖 坂津 彦太郎屋敷 小社 若宮へ籠もる
9月6日までに 各種小札 15
 
坂津
 
喜三郎他ニ軒 不明
 
坂津喜三郎はじめ同村三軒、一軒へ五枚宛
9月9日 秋葉 坂津 源之助 不明  
9月17日 御札 坂津 若宮 不明  
9月17日 秋葉 坂津 治三郎 不明  
9月6日までに 秋葉
 

 
外神
 
万吉
 
不明
 
 
 
9月6日までに 秋葉
 

 
外神
 
久作
 
不明
 
 
 
11月3日 秋葉 外神 久蔵 不明  
7月19日 太神宮 公文 惣兵衛 小社 大頭梁へ籠もる
7月19日 太神宮 公文 惣作 小社 大頭梁へ籠もる
7月19日 太神宮 公文 惣助 小社 大頭梁へ籠もる
7月19日 太神宮 公文 秋葉石燈籠 小社 大頭梁へ籠もる
7月19日 太神宮 公文 大頭梁 小社 大頭梁へ籠もる
7月22日 内宮 行合 権現社 23日権現社  
7月15日 内宮 中村 普仙寺 17日社宮神 文政の御札降りと同様に
7月22日 光明山 中村 仲蔵 23日社宮神  
8月11日 内宮 中村 仲蔵前本畑 12日社宮神 八幡宮へ参詣
8月11日 津嶋 中村 兵蔵屋敷 12日社宮神 八幡宮へ参詣
8月18日 内宮 中村 徳蔵 19日社宮神  
8月25日 秋葉 中村 甚左衛門 27日自宅 八幡宮へ持参、拝念後自宅へ 
9月7日
 
秋葉
 

 
中村
 
彦蔵
 
自宅か?
 
8日八幡宮へ持参、拝念後自宅へと思われる
9月18日
 
秋葉
 

 
中村
 
久太郎
 
自宅か?
 
19日八幡宮へ持参、拝念後自宅へと思われる
9月18日
 
役行者
 

 
中村
 
久太郎
 
自宅か?
 
19日八幡宮へ持参、拝念後自宅へと思われる
9月28日 秋葉 中村 久蔵 不明  
9月28日
 
信州善光寺
 
中村
 
久蔵
 
不明
 
 
 
9月7日 役行者 東脇 勘十本畑 不明  
9月7日 護摩札 東脇 勘十本畑 不明  
7月20日

 
外宮

 


 
松嶋新田
 
おげん山(元〆山)
 
20日廣岩主水の内宮
 
おげん山の所在は西松嶋新田と思われる。内宮(うちみや)とは、水神社のこと
7月22日
 
内宮
 

 
松嶋新田 権作の藪
 
24日八幡宮
 
東松嶋新田
 
8月18日
 
秋葉
 

 
松嶋新田 小屋の廂
 
19日水神社
 
出典:『豊橋市神社棟札集成』
 
8月18日
 
伊雑宮
 

 
松嶋新田 神社の廂
 
19日水神社
 
出典:『豊橋市神社棟札集成』
 
8月24日までに 不明
 

 
松嶋新田 権四郎
 
不明
 
7月の可能性もあり
 
8月24日までに 不明
 

 
松嶋新田 善治
 
不明
 
7月の可能性もあり
 
8月24日までに 不明
 

 
松嶋新田 不明
 
不明
 
松嶋新田では8月24日までに13枚降札 7月の可能性もあり
8月24日より後 尾州一宮
 
松嶋新田 権四郎
 
不明
 
9月の可能性もあり
 
8月24日より後 秋葉
 

 
松嶋新田 善治
 
不明
 
9月の可能性もあり
 
8月24日より後 秋葉
 

 
松嶋新田 安平
 
不明
 
9月の可能性もあり
 
8月24日より後 秋葉
 

 
松嶋新田 和助
 
不明
 
9月の可能性もあり
 
9月9日
 
秋葉
 

 
松嶋新田 権作
 
不明
 
 
 
8月12日
 
秋葉
 

 

 
八幡宮
 
17日秋葉社
 
12日仮屋で祭る。 14日・15日は大
祭 16日・17日を祝いの日とする
8月12日
 
御像札
 

 

 
八幡宮
 
17日秋葉社
 
12日仮屋で祭る。 14日・15日は大
祭 16日・17日を祝いの日とする
※上から順に上牟呂・中牟呂・下牟呂・松嶋新田に色分けをした。
※「9月6日までに」欄の坂津・外神の降札時期は、「多聞山日別雑記」を参考にした。
※内容は伝聞を含んでいる。
※資料の解釈によって枚数が異なる。
 
表3 牟呂村御札降り月別降札数
  上牟呂 中牟呂 下牟呂 新田 八幡宮
 
 
  大西 市場 坂津 外神 公文 行合 中村 東脇 松嶋 合計
7月 19
8月 15 29
9月 18 30
10月
11月
  20 11 18 80
※「留記」から作成した。
※「留記」に枚数の記載がない場合、1枚とした。
※松嶋新田の8月分15枚の中には7月分と9月分が含まれる可能性あり。
※8月18日、松島新田に御札降りがあったことは松島社の棟札(『豊橋市神社棟札集成』)によってわかるが、「留記」に書かれていない。この2枚を松嶋新田に降った18枚のなかに含めたが、重複する可能性もある。
※表1・表2の「9月6日までに」欄の坂津・外神の降札時期は、「多聞山日別雑記」を参考にして、9月分に数えた。
※内容は伝聞を含んでいる。
※資料の解釈によって枚数が異なる。
                     
表4 牟呂村御札降り種類別降札数
  上牟呂 中牟呂 下牟呂 新田 八幡宮  
  大西 市場 坂津 外神 公文 行合 中村 東脇 松嶋   合計
内宮          
外宮              
太神宮                
伊雑宮                
御鍬                  
秋葉       19
伊良湖                  
尾州一宮                  
善光寺                  
津嶋                  
光明山                  
役行者                
金毘羅                  
護摩札                  
不明     16           27
合計 20 11 18 80
※「留記」から作成した。
※「留記」に枚数の記載がない場合、1枚とした。
※「太神宮」とある御祓は、内宮か外宮か不明。
※8月18日、松島新田に御札降り(秋葉権現1枚と伊雑宮1枚)があったことは松島社の棟札(『豊橋市神社棟札集成』)によってわかるが、「留記」に書かれていない。この2枚を松嶋新田に降った18枚のなかに含めたが、不明の9枚と重複する可能性もある。
※内容は伝聞を含んでいる。
※資料の解釈によって枚数が異なる。
 

『三州吉田宿の御札降りと、ええじゃないか』(1)−(5)概要
【三河武士がゆく】