三州吉田宿の御札降りと、ええじゃないか(5) 牟呂村御札降りは、ええじゃないかの発端といえるのか? 平成二十五年(2013年)一月四日 |
《もくじ》 1.「留記」 2.牟呂村御札降り (1)御札降りの概要 (2)御札の降り方 (3)御札降りの背景 3.小村の対応と故障 (1)小村の対応 (2)松嶋新田の故障 (3)中牟呂の故障 4.「ええじゃないか」 の発端といえるのか (1)「ええじゃないか」 発端資料 (2)最初の御札降りか (3)周辺への波及 (4)村の秩序を乗り越えたのか [表] 表1 牟呂村御札降り年表 表2 地域別牟呂村御札降り表 表3 牟呂村御札降り月別降札数 表4 牟呂村御札降り種類別降札数 ※資料から引用するにあたって、ワープロにない旧字体・略字・合字などは、新字体や仮名文字に改めましたので、本書からの資料の引用は避けてください。 ※明治五年の改暦前の表記は旧暦ですが、年号と西暦を併記する場合は、便宜上次のように表記します。例えば、慶応三年十二月九日の「王政復古の大号令」は、西暦では1868年1月3日ですが、慶応三年・1867年、又は慶応三年(1867年)とします。 |
《吉田宿及び周辺の、御札降り・御鍬祭関係地図》 拡大表示をすると、文字がわかりやすくなります。 |
※慶応三年当時の推定地図です。慶応三年当時、吉田大橋は大水による流失のため存在せず、船町・下地間の渡船がおこなわれていました。 ※吉田二十四町には、東海道沿いの表町十二町(船町・田町・坂下町・上伝馬町・本町・札木町・呉服町・曲尺手町・鍛冶町・下モ町・今新町・元新町)と東海道南側の裏町十二町(天王町・萱町・指笠町・御輿休町・魚町・垉六町・下リ町・紺屋町・利町・元鍛冶町・手間町・世古町)がありました。町裏十か所(談合宮・中世古・野口・中柴・新銭町・清水町・御堂裏・西宿・西町・畑ヶ中)は吉田宿二十四町の裏におこった住宅地のことで、周辺の村との間に位置していました。 ※「守上」・「守下」は、当時の土地の名称であり、町名ではありません。 |
《牟呂村・羽田村周辺の、御札降り・御鍬祭関係地図》 拡大表示をしますと、文字がわかりやすくなります。 |
※慶応三年当時の推定地図です。 ※牟呂村・羽田村は台地上にあります。 ※羽田村の北側・中郷・百度(ずんど)・西羽田を四島と呼んでいました。 ※花ヶ崎村とは、現在の羽根井町・花中町・松山町あたりです。 ※西宿とは、現在の豊橋駅とその周辺の広小路・駅前大通あたりです。豊橋駅の住所は豊橋市花田町字西宿です。 |
1.「留記」 |
三河国渥美郡牟呂八幡宮神主、森田光尋によって慶応三年牟呂村で発生した御札降りと祭礼が克明に記録されました。これが「留記」です。光尋は、羽田八幡宮の神主で国学者(平田門)でもあった羽田野敬雄に師事し、平田篤胤没後の門人(父、光義も平田門)となっています。「留記」原本は豊橋市美術博物館が保管しており、コピーを豊橋市中央図書館で借りることができます。私はこのコピーの方を見ています。 裏表紙に「両社大宮司 森田肥後守 四拾三才」とあります。光尋は明治三十一年(1898年)に七十四歳で没していることから、慶応四年(明治元年)頃書かれたと思われます。内容は、次のように別けられています。番号は便宜的に振っています。 @明和四年(1767年)・・・ 伊雑宮(御鍬社)勧請 A文政十三年(1830年) ・・・ 御札降りとおかげ参り B慶応三年(1867年) ・・・ 御札降りと祭礼 慶応三年の騒動は直接光尋が関わっていますので、事の次第が詳細に記録され、次のような構成になっています。 ・本編 : 七月十四日から十一月三日までの牟呂村に関する御札降りと祭礼。 ・神異 : 牟呂村以外でおきた神秘的なできごと。 ・牟呂村の神異 : 七月十四日、牟呂大西村への降札に始まる牟呂村での神異。 牟呂村のお札降りを考えるにあたって「留記」をベースにしながら以下の書籍を参考にしました。豊橋市中央図書館で借りることができます。 @田村貞雄 『ええじゃないか始まる』 青木書店、昭和六十二年・1987年 A牟呂史編纂委員会編 『牟呂史』、平成八年・1996年 B渡辺和敏 「慶応三年「御札降り騒動」発祥地の動向」 『愛知大学文学会叢書4 法制と文化』、平成十一年・1999年 C渡辺和敏 『ええじゃないか』 あるむ、平成十三年三月・2001年 資料はできる限り原本に近い表記をしますが、原本には句読点がありませんので便宜上付け加えている箇所があります。また、原本と活字になっている資料を見比べると僅かに異なっている箇所がありますので転載をせず、必ず原本をご確認ください。 |
2.牟呂村御札降り |
(1)御札降りの概要 |
「留記」によりながら七月十四日から十一月三日までの牟呂村御札降りの概要を述べていきます。「留記」からの引用には資料名を記していません。降札回数と枚数が多いので詳細な内容は省きますが、以下の表をつけておきましたので参考にしてください。 表1 牟呂村御札降り年表 表2 地域別牟呂村御札降り表 表3 牟呂村御札降り月別降札数 表4 牟呂村御札降り種類別降札数 牟呂村の規模は大きく、『牟呂史』によれば、次の表のように上組・中組・下組に別けられ、上牟呂・中牟呂・下牟呂と呼ばれていました。各組には小村と呼ばれる同族集団を中心とする生活の村がありました。小村には小村を氏子とする小社がありました。牟呂八幡宮は牟呂村全体の鎮守的存在でした。 |
『牟呂村棟別覚』による牟呂村の戸数(明治維新前後と思われる) | |
上組(上牟呂)151戸 | 市場86戸・大西53戸・大海津12戸 |
中組(中牟呂)138戸 | 坂津44戸・外神30戸・大公文31戸・小公文33戸 |
下組(下牟呂)161戸 | 行合34戸・中村85戸・東脇42戸 |
合計450戸 | |
※『牟呂史』によれば、これは森田家が神務を執り行うためのもので実際の数とは異なるようで、「吉田領戸数調」による安政五年(1858年)の家数508軒、2,420人と、「牟呂村一覧表下書」による明治五年(1872年)の戸数527軒、2,560人も参考にする必要がある。 ※松嶋新田は含まれていない。松嶋新田に関しては、「吉田領戸数調」では安政五年の家数11軒、58人であり、元治二年(1865年)の記録に16人の名が(『牟呂史』)、慶応三年、松嶋新田から八幡宮へ差し出された「奉差上一札之事」(七月二十四日付)には15人の名が見られる。 |
牟呂村の御札降りは、慶応三年(1867年)七月十四日七ッ時分(午前四時頃)、大西(牟呂の小村のひとつ)「多治郎屋敷東竹垣際笹之うら」で外宮の御祓が発見されたことから始まります。七月十四日はお盆の最中です。この外宮の御祓は十七日晩、大西の天王社に納められました。大西では三日正月(お祭のための休日)となり、神酒二樽を求めています。神事は牟呂八幡宮神主であった森田光尋により執行されますが牟呂村全体の祭礼にはなっていません。 なお、降札場所については、不明な点があります。森田光尋から山田宰記と山田左源太へ宛てた手紙(慶応三年十一月十九日付)の写しと思われる資料(森田家文書)に、「七月十四日外宮之御祓天王社中江降臨」(「慶応三年「御札降り騒動」発祥地の動向」)とあるのです。「多治郎屋敷東竹垣際笹之うら」は天王社中ということも考えられますが、十五日にもあった降札の場所が天王社であったという理由で御札が八幡宮での取り扱いになっていることを考えますと、十四日の外宮御祓の降札場所は天王社中ではなかったと考えた方が自然です。 十四日の朝見つかった御祓が天王社に納められたのが十七日晩です。少し時間がかかりすぎています。これは、御祓の発見者も含めて御札降りが人為的なものだと疑われていたことによります。ところが、十四日夜、発見者の息子(八歳)が病気でもないのに急死したのです。この時点では神罰とは思われなかったのですが、十五日夜半に別の、疑った者の妻(十三日より「おこり」を煩っていた)が亡くなります。十五日の晩(夕暮方とも)には、天王社にも降札がありました。そして、十六日の朝より村人たちが神罰であるとにわかに騒ぎ出し、十六日の夜、大西の惣代二人が八幡宮を訪れて事の次第を報告しました。これにより、大西は三日正月となるのです。 七月十五日晩、中村普仙寺の「秋葉之石灯籠之垣ノスミ竹ニ」内宮の御祓が見つかり、中村から八幡宮へ届けがありました。中村は大西の南側に隣接する小村です。十七日、文政十三年の御札降りの時と同様に中村の社宮神社の御祓箱に納められ、神酒二樽が開かれました。この神事も十四日に発見された御祓の時と同様に森田光尋によって執行されました。 七月十五日晩(夕暮方)、天王社の「行者之東雑木枝之上」に「伊雑皇太神宮之御小祓」が降っているのが見つかりました。「牟呂之神異」には「天王社中庚申の東の雑木の枝」に「磯部の御祓」とあります。おそらく、十四日の御札降りの件と同時だと思いますが、天王社への御札降りは、大西より八幡宮へ届けられました。この天王社への降札は天王社が牟呂八幡宮の支配地という理由で、御祓は八幡宮へ納める事になりました。 寺社の支配地の場合、その影響を受けることがありました。後で述べますが、慶応三年のお札降りでは松嶋新田への降札をめぐる問題がおこっています。また、御蔭参りが流行した文政十三年(1830年)には、牟呂村の真福寺地内に伊勢神宮の御祓が降り、坂津・外神の者が渡してくれるようにと頼みましたが、真福寺側はこれを拒絶して寺に納めるということもありました。 天王社への御札降りにより、森田光尋と惣代たちは七月十八日から二十日までの二夜三日正月を取り決め、文政十三年(1830年)のおかげ同様に取り計らうことになりました。八幡宮は牟呂村全体の鎮守的存在であるので、村を挙げての祭礼となっていくのです。このようにして、牟呂村御鍬祭が始まったのです。 七月十八日七ッ時、伊雑宮の御祓を天王社より八幡宮へ移しました。このとき、大西、中村、公文、市場は手踊りをおこない、中村は餅投、市場は饅頭投をしました。十九日晩には大西の小供が手踊りをおこないました。二十日には酒樽二樽を開き当初の予定(六樽)と合せて酒樽は八樽となりました。 牟呂村での「二夜三日正月」の二日目にあたる七月十九日夜、中牟呂の坂津と公文に合わせて九枚の御札が降りました。中牟呂はそろって小宮四社へ幟を立て、公文は大頭梁、坂津・外神は若宮へ籠もりました。この九枚の御札は八幡宮へは届けられず、それぞれの小宮に納められています。この時中牟呂では酒樽を四樽開いたそうです。 牟呂村での「二夜三日正月」の三日目にあたる七月二十日、市場の弁天社へ内宮の御祓が降り、二十一日弁天社拝殿へ納めました。市場は中村の南方向に隣接する小村です。 同じく七月二十日卯の刻、西松嶋新田のおげん山にある水神社(現松島社)前に外宮の御祓が降りました。松嶋新田は市場の南側、柳生川を渡った地域に開発された新田です。この御札降りは松島社の棟札(『豊橋市神社棟札集成』)でも確認ができます。棟札には次のようにあります。 (表) 慶應三年丁卯七月二十日卯刻 松島新田神社之前ニ天降座 同日外宮鎮座 松島新田庄屋 岡田権四郎豊乃 村中一統安全 匠工 味岡善平竣工八十一兩 社徒老人 (裏) 太神宮外宮御本宮 この外宮の御祓は西松嶋新田の地主で、西宿(現豊橋駅から広小路一帯の地名)の秋葉権現社神主であった、廣岩主水(敬敏)により、同日外宮に納められました。水神社は水神の他、稲荷・秋葉を祀っていました。「留記」には「主水之内宮」とあり「ウチ」と仮名が振ってあります。「うちみや」とは廣岩主水が持っているという意味なのでしょう。棟札にある外宮とは「そとみや」であり、水神社の境内社を意味しているようです。 広岩主水の秋葉権現社がある西宿は吉田宿の町裏で、吉田宿に隣接しており、本町や萱町からは徒歩数分の距離です。廣岩主水と親交があった佐野蓬宇(吉田宿本町在住)が著した「此夕集」(『此夕集』三十六)の慶応三年七月二十日の項には、「晴 松嶋新田の宮前に御祓降ていはひとて廣岩家によはるゝ」とあり、御札が降った日に西宿の廣岩家でお祝いがあったことがわかります。松嶋新田御札降りのニュースは、その日のうちに吉田宿へ伝わったことでしょう。他の資料から、この二日前の十八日には吉田宿のどこか(萱町の可能性あり)で御札が降ったことがわかっています。 七月二十二日、東松嶋新田権作の藪に内宮の御祓が降り、七月二十四日に八幡宮に納められています。 七月二十二日、行合権現社と中村に御札が降り、七月二十七日と二十八日、市場弁天社に内宮の御祓が降っています。七月二十七日に降った内宮御祓は市場弁天社中の大杉へ空中より降ったものです。これまでに牟呂村では酒樽を二十五樽開いています。 七月の牟呂村での御札降りは以上で、続いて段落を下げて次のように牟呂村以外の地域の御札降りをまとめています。資料中の「光文」とは森田光尋の息子のことです。 吉田町々江御祓降臨 秋葉之小札御像札抔数多降臨 鶴よりも小き鳥クワへ空中より落し候よし申触ラス 尤光文眼前ニ見し事有 「吉田町々江御祓降臨」の時期は明記してありませんが、七月二十七日、町裏の中世古に御札が降り(「多聞山日別雑記」)、同日の「多聞山日別雑記」には「其外曲尺手・城内并所々へ種々ノ札降ル噂也」とありますので、七月二十七日頃と思われます。 引き続いて七月二十七日、前芝の加藤六蔵屋敷に讃岐金毘羅の御幣が降り、その後牛久保や下町(吉田宿下モ町のことか?)にも御札が降ったことをあげています。続いて近在の西羽田・富田・羽田・羽根井・橋良・草間・大崎・大津・小池・小浜・高足などの名をあげて、残らず大方降ったとしています。 段落が上がって、八月五日の大西への降札記事が見られます。ここから八月の内容になります。八月五日の一両日以前にも大西に降札がありました。八月五日の御札は天王社へ納められた後、九月九日に自宅へ納められています。その後八月十六日、大西の二箇所へ降札があり、いずれも御札は天王社へ納められた後、九月九日に自宅へ納められています。この八月十六日が「留記」で確認できる大西での最後の降札の記録です。 八月十一日、中村に降札があり、社宮神に納められました。 八月十二日、牟呂八幡宮に秋葉の小札と御像札が降りましたが、八月十四・十五日は八幡宮の大祭であるためこれを避けて、八月十六・十七日を祝いの日と決めました。祭礼では小村による狂言・手おどり・投餅などの催しがありました。御札は八月十七日晩七ッ時、秋葉社(八幡宮の境内社と思われる)へ納められました。 この後、森田光尋は息子の光文を伴って遠州秋葉山参詣のため八月二十日から二十四日まで出かけています。表4にみられるように秋葉に関する御札が多いのです。 八月十八日、中村に御札が降り、八月十九日に社宮神へ納められました。 市場には八月二十一日、弁天社へ御札が降り、二十五日に弁天社へ納められ、二十四日にも御札が降り、この御札は自宅へ納められました。 八月二十四日までに松嶋新田に十三枚、その後四枚、九月九日に一枚降り、合計十八枚となりました。 八月二十五日、中村に御札が降り、自宅へ納められました。 八月二十四日の市場へ降った御札が自宅へ納められていますが、二十四日以後の降札で不明な場合を除いて確認できる納場所は自宅となります。八月五日と十六日の大西に降った御札の場合はいったん天王社へ納めてから九月九日に自宅へ納めています。秋葉山参詣から森田光尋が帰ってきたのが二十四日です。光尋は秋葉山参詣を一つの区切りとして騒ぎの鎮静化を試みたのかもしれません。 しかし、九月に入ってからも御札は降り続きます。九月七日、東脇と中村、九月九日、坂津と松嶋新田、九月十七日、坂津と市場、九月十八日、中村にそれぞれ降りました。九月十七日と思われる箇所に、「牟呂惣村中ニ而是迄之内外酒凡八拾樽計も買入候よし 前代未聞之事也」とあります。九月二十八日、中村に御札が降り、九月の記事は終わります。 九月に降ったと思われる三十枚の内、中牟呂が二十枚(坂津十八枚、外神二枚)です。この内、三枚は日付がわかっていますが、九月九日の御札降りより前の、坂津・外神の降札の日付は書かれていません。しかし、九月六日の「多聞山日別雑記」の記録には、「○坂津・外神此節大分札降り、今日神楽有ル云、二度目也」とあり、九月六日までに多数の降札があったことがわかります。七月十九日にも九枚(公文七枚、坂津二枚)降っていますので、これに次いで二度目という意味なのでしょうが、七月十九日の時も神楽がおこなわれたのかもしれません。今回も中牟呂に降った御札は八幡宮には届けられず、小村で対応したようです。 その後、十月(日付無し)に市場へ、十一月三日、外神に秋葉山の御札が降りました。 「留記」の記録はここまでとなっています。 資料で確認できる降札枚数は八十枚です。内訳は七月十九枚、八月二十九枚、九月三十枚、十月一枚、十一月一枚です。七月十四日に始まった牟呂村御札降りは九月いっぱいで大方終息したといえます。 |
(2)御札の降り方 |
次の表を参考にしてください。 表1 牟呂村御札降り年表 表2 地域別牟呂村御札降り表 表3 牟呂村御札降り月別降札数 表4 牟呂村御札降り種類別降札数 牟呂村の総降札数を組別又は小村別に比較してみますと、三つの組のなかで戸数が最も少ない中牟呂が最も多く、月別にみても中牟呂が最も多いことがわかります。中牟呂の特徴は一度に多く降っていることです。小村別では坂津が二十枚と突出しています。坂津と他の小村の違いが何であるのかわかりません。また、気になるのは松嶋新田です。戸数は十五軒ほどと思われますが、十八枚という数は人口比では最大です。牟呂村全体の降札数が八十枚ですので、坂津と松嶋新田で牟呂村全体の約半数の降札数となります。最初に降札がありました大西は七枚であり、九月からは降札を確認できません(最後は八月十六日)。このように見てきますと、牟呂村御札降りで特に気になる地域は、大西、中牟呂、松嶋新田です。 最初の降札地が大西であった理由はわかりませんが、文政十三年(1830年)の御札降りで、真福寺の次に御札が降った場所が天王社でしたので、天王社あるいは天王社のある大西への御札降りであれば、御札降りと祭礼が強く結びつくと御札を降らした者が考えたのかもしれません。 降札枚数が多い中牟呂と松嶋新田ですが、この二つの地域はそれぞれ異なる内容の故障を抱えていました。証明する資料はありませんが故障と枚数との因果関係を疑いたくなります。これらの故障については後で触れます。 御札の種類は、伊勢神宮系(内宮・外宮・太神宮・伊勢・伊雑宮)の御祓が最も多く秋葉山(秋葉大権現)の御札が続きますが、七月中は秋葉山の御札は降っていません。秋葉山の御札が降り始めるのは8月12日八幡宮からです。 慶応三年の牟呂村御札降りは、近隣の村の中では最も早く始まり、吉田宿を含めた周辺地域の中でも早い時期に発生したものであり、長期間断続的に御札が降ったため、降札数が多くなり、御札祭が繰り返しおこなわれました。そのため、牟呂村全体では切れ目なく御札降りと祭礼がおこなわれているような印象を受けます。しかし、牟呂村御札降りの実態を知るためには、小村ごとの御札降りを整理しておく必要があります。 |
(3)御札降りの背景 |
最初の牟呂村御札降りの背景には、この時期西三河より流行してきた御鍬祭の存在が考えられます。「留記」には、「此近村ニ而御札之降始也」とあり、前掲の森田光尋から山田宰記等へ宛てた手紙の写しにも「吉田近在ニ而者私村方始ニ而」とあるように、森田光尋にとっては、牟呂村御札降りが吉田近在で最も早い御札降りという認識がありました。しかし、御鍬祭については周囲に比べると遅れていたのです。「留記」には次のようにあります。 「此ころ近村にて御鍬祭といふこと流行に、この牟呂計しかせさる事を、神のしるし見せてなさせ給ふなるへしなと、口々にいひさわぐ」 「今度御鍬祭といひて近郷御祭を致ス、此村も十六日過なハ御祭もせはやとおもひ居りしに、ふしきにも御祓のふりしによりて、かくいつくしく御祭仕へ奉りける也」 牟呂村は吉田藩領で最大規模の大所帯だけに準備にかける時間が必要だったとも考えられますが、遅れていた理由は書いてありません。 御鍬祭の執行を七月十六日を過ぎた頃に予定していたところ、七月十四日に外宮の御祓が降ったのです。十六日過ぎとは、盆を避けたのではないでしょうか。七月に入る頃から盆の準備が始まります。盆の期間は十三日から十六日までで、牟呂村には放下と言って十四日朝から初盆の家々をまわる行事がありました(「参河吉田領風俗」『三河文献集成 近世編・下』)。盆の念仏は若者仲間にとって大切な村の行事でした(『牟呂史』)。 七月十四日より前の段階で牟呂村の近村では御鍬祭りがおこなわれており、遅れていた御鍬祭を催促するかたちで御札が降ったのだと村人たちが騒ぎ出したのです。もっとも、最初の御札降りは人為的なものとして疑われていました。ところが、二人の死によってにわかに神異的なものへと変化していくのです。 「萬歳書留控」から、隣接する羽田村の状況がわかります。羽田村でも御鍬祭を予定していたところ、「此程近辺草間牟呂野田新田萱町等へ伊勢之御祓降下候とて祝祭れり」という周囲の状況となり、「廿二日西羽田次郎兵衛前屋敷へ伊勢の御祓降下」し、七月二十三日・二十四日、羽田八幡宮で伊雑宮百年祭(御鍬祭)がおこなわれたのです。 |
3.小村の対応と故障 |
次の表を参考にしながら説明します。 表1 牟呂村御札降り年表 表2 地域別牟呂村御札降り表 表3 牟呂村御札降り月別降札数 表4 牟呂村御札降り種類別降札数 |
(1)小村の対応 |
牟呂村の御札降りの性格を知るためには、小村による御札降りへの対応を個別に見ていく必要があります。牟呂村が氏子である牟呂八幡宮の祭礼も含めて、祭礼の担い手となる実動的な組織は小村です。牟呂村の規模は大きく、上牟呂・中牟呂・下牟呂に別けられていました。ほとんどの小村が独立の村として取り扱ってよいほどの人口でした。牟呂村御札降りを考える場合、この事を意識する必要があります。明治維新前後と思われる牟呂村の小村の規模は、次のように『牟呂村棟別覚』(『牟呂史』)によって知ることができます。 |
組 | 小 村 |
上組(上牟呂)151戸 | 市場86戸(7枚)・大西53戸(7枚)・大海津12戸 |
中組(中牟呂)138戸 | 坂津44戸(20枚)・外神30戸(3枚)・大公文31戸・小公文33戸 |
下組(下牟呂)161戸 | 行合34戸(1枚)・中村85戸(11枚)・東脇42戸(3枚) |
合計450戸 | |
※( )内に降札数を入れた。松嶋新田(18枚)、公文(7枚)、八幡宮(3枚)。 ※『牟呂史』によれば、これは森田家が神務を執り行うためのもので実際の数とは異なるようで、「吉田領戸数調」による安政五年(1858年)の家数508軒、2,420人と、「牟呂村一覧表下書」による明治五年(1872年)の戸数527軒、2,560人も参考にする必要がある。 ※松嶋新田は含まれていない。松嶋新田に関しては、「吉田領戸数調」では安政五年の家数11軒、58人であり、元治二年(1865年)の記録に16人の名が(『牟呂史』)、慶応三年、松嶋新田から八幡宮へ差し出された「奉差上一札之事」(七月二十四日付)には15人の名が見られる。 |
『三州吉田宿の御札降りと、ええじゃないか』(1)−(5)概要 【三河武士がゆく】 |