歩兵第十八連隊
(豊橋歩兵第十八聯隊・歩兵第18連隊)
 

■太平洋の奇跡 大場栄大尉と実業学校?
■「サイパン島民間人収容所内の惨劇」と『地獄の虹』 2011/02/27
■サイパンタイガー、堀内今朝松一等兵は松本歩兵第50連隊か?2011/03/01
■《太平洋の奇跡》だけではない 2011年5月14日
■NHK《おひさま》和成の出征 2011年06月04日

【三河武士がゆく】

 
歩兵第18連隊は明治17年名古屋で創設され、旧吉田城内(現豊城中学校・豊橋公園)に兵舎を置いていました。日清・日露戦争、日中戦争に従軍し、昭和17年には満州の海城に駐屯していました。

昭和19年マリアナ方面防衛のために所属する第29師団(高品彪中将)に動員が下令され、マリアナ諸島に向いますが、途中輸送船崎戸丸が米潜水艦の魚雷攻撃により沈められ(2月29日)、約4000名のうち、約1600名が戦死しました。このとき、連隊長門間健太郎大佐も戦死しています。連隊長は、軍旗を移したボートに乗らずに、部下の退船を見届け、二回目の退船命令の時に入水したそうです。

連隊は、連隊長や多くの将士と兵器・物資を失い、サイパン島に上陸しました。戦力が大きく減退したので、守備地域がテニアン島とグアム島からサイパン島に変更となり、大橋彦四郎大佐を連隊長に迎え、再編と陣地構築をすることになりました。

その後、第43師団(斎藤義次中将)がサイパン・テニアンに配置されると、18連隊はグアム島守備を命じられました。船舶不足のため一度で移動ができず、細々とした転進が始まりましたが、第1大隊と衛生隊(隊長大場栄大尉)は米軍のサイパン侵攻(6月15日上陸)により取り残され、サイパン守備隊として玉砕します。

7月21日、グアム島にも米軍が上陸し、7月25日軍旗奉焼、夜襲による総攻撃がおこなわれ、大橋連隊長が戦死しました。その後も戦闘が行われましたが、8月10日、日本軍守備隊は玉砕しました。第31軍司令官小畑英良中将と第29師団長高品彪中将も戦死しております。

※テニアン島も玉砕します。海軍の守備隊には第1航空艦隊司令長官角田覚治中将や参謀長三和義勇大佐がいました。
《三和義勇大佐について》
■『海軍の家族』
■映画「聯合艦隊司令長官 山本五十六」

※第43師団の基幹は、歩兵第118連隊(静岡)、歩兵第135連隊(名古屋)、歩兵第136連隊(岐阜)であり、愛知・岐阜・静岡出身者が多く含まれていました。

※『烈日サイパン島』白井文吾編、1979年(昭和54年)が参考になります。1995年(平成7年)に改訂新版が出ていますが読んでいないので、比較はできていません。

※歩兵第118連隊の設立は豊橋、その後静岡に移駐しています。そのためか、豊橋公園内に碑があります。18連隊同様に輸送船が米潜水艦の雷撃により沈没し、連隊長伊藤豪大佐以下約2200名が戦死しています。

 

■太平洋の奇跡 大場栄大尉と実業学校?
2011/02/25
2013/02/14(改訂)

出典不明ですが、Wikipediaで大場栄氏の経歴をみると、1933年に御津町立実業学校の地理教諭となったとあります。

しかし、テレビ東京編集の『証言・私の昭和史』5には、「愛知県御津町立実業術習学校教諭」とあり、正確には、実業補習学校だと思います。実業学校という学校の種類のなかに実業補習学校がありました。

『御津町史』によれば、大正時代に御津村立実業補習学校と、御津村立北部実業補習学校が設置されています。昭和5年(1930年)の町制施行により町立となり、昭和10年(1935年)の青年学校となっています。

調べていないのでわかりませんが、実業補習学校以外に実業学校があったのかもしれません。

さらに、Wikipediaには、1936年に豊橋市立吉田方尋常小学校教諭となったとあります。戦争がなければ、教師の道を歩む人だったのかもしれません。

※実業学校には、工業学校・農業学校・水産学校・商業学校・商船学校・実業補習学校などがあった。

 

■「サイパン島民間人収容所内の惨劇」と『地獄の虹』 2011/02/27

大場栄大尉に率いられてアメリカ軍に投降した日本軍(仮に大場隊としておきます)の中に、民間人収容所の日本人の殺害に関与した者がいました。それは、南洋憲兵隊の伍長とサイパン実業学校の生徒でした。

この内容は、「サイパン島民間人収容所内の惨劇」(『歴史と人物 太平洋戦争シリーズ』昭和60年冬号)によって知りました。これは、『死刑囚から牧師へ』同出版委員会編を参考にしています。

最近になって、『地獄の虹』(毛利恒之、毎日新聞社)を読み、詳細がわかりました。副題には「死刑囚から牧師に」とありました。

※些細なことですが、「死刑囚から牧師へ」と、「死刑囚から牧師に」の「へ」と「に」の違いがあり、最初検索でつまずきました。「あとがき」に、広島三育学院編の『死刑囚から牧師へ』と書かれていました。

 
■サイパンタイガー、堀内今朝松一等兵は松本歩兵第50連隊か?2011/03/01 ※2011/06/02改訂

アメリカ兵からサイパンのトラと呼ばれた、堀内今朝松一等兵の所属について、歩兵第五十連隊とするものと、歩兵第百五十連隊とするものがあります。

『烈日サイパン島』には、「堀内は松本五十連隊の補充兵として牛山一良大尉に率いられトラック島に渡る途中、サイパンで戦闘に巻き込まれた」とあります。

しかし、松本にあった五十連隊は、昭和十六年に名古屋第二十九師団管区となり、徴募区は岐阜県に変わりました。その後満州に移り関東軍となりますが、昭和十九年にテニアン島で玉砕しています。

第五十連隊が満州へ渡った後には、金沢五十二師団管区として歩兵第百五十連隊が入ります。したがって、サイパン戦の時に松本連隊といえば、この第百五十連隊となります。百五十連隊は、昭和十九年二月、トラック島へ向かいますが、輸送船が撃沈され、物資は失われ多くの犠牲者がでました。

この補充のため、牛山大尉(諏訪市)を輸送指揮官とする150名が派遣されますが、トラック島へ向かう途中サイパン島で足止めとなりました。六月十一日のサイパン空襲当日朝、牛山大尉等六名の将校(軍医一名含む)は連絡のためトラック島の連隊本部へ向かいました。彼らの乗った二式大艇は奇跡的に夏島水上基地にたどり着きましたが、六月十五日アメリカ軍がサイパン島へ上陸したため、補充隊は指揮官を欠いたまま取り残されたことになります。

『松本連隊の最後』には、牛山大尉の名を記していません。山砲大隊の通信中隊長西沢駿一大尉(諏訪市)や代議士であった小野祐之中尉(塩尻市・戦死)のように補充隊の他の将校の名は記しています。連隊旗手に同姓の牛山正雄少尉(諏訪市)の名が見られますが、牛山大尉と混同したのでしょうか?

サイパン島に取り残され、玉砕した補充隊の中に堀内今朝松一等がいたのです。150名の補充隊に将校が何人いたのか知りませんが、隊長以下6名もの将校がいなくなった影響は大きかったでしょう。堀内一等兵の行動と無縁とは言えないでしょう。なお、堀内一等兵の最後の様子は、『烈日サイパン島』と『タッポーチョ』では異なっています。

歩兵第五十連隊は、明治以来、松本連隊としてなじみが深かったために間違えたのかもしれません。

《参考文献》

山本茂実、『松本連隊の最後』、角川書店、昭和五十三年(1978年)、初出は昭和四十年1965年近代史研究会

白井文吾(中日新聞社会部長)編、『烈日サイパン島』、東京新聞出版局、昭和五十四(1979年)

ドン・ジョーンズ著・中村定訳、『タッポーチョ 「敵ながら天晴」大場隊の勇戦512日』、祥伝社、昭和五十七年(1982年)


 

■《太平洋の奇跡》だけではない 2011年5月14日

昭和十七年一月、歩兵第十八連隊第二大隊第八中隊長の大場栄中尉は、第二次長沙作戦で左大腿部に貫通銃創を負っています。

第三師団の本部付であったと思われる大場中尉が、原隊に復帰し中隊長として部下に着任の挨拶と訓示をしたのが十二月五日です。その三日後に太平洋戦争が始まりました。大場中隊長は着任後約一カ月で負傷したことになります。大場中尉の負傷はこれが初めてではありません。昭和十二年の上海上陸作戦には参加していませんが、同年十一月補充員として着任以来、徐州作戦・武漢作戦など多くの作戦に参加し、負傷の回数は資料によって異なるのですが、4回目か5回目になるようです。そして、昭和十七年五月から始まる浙?(せっかん)作戦には第八中隊長として戦闘に参加しているのです。

昭和十六年九月から十月にかけておこなわれた第一次長沙作戦での損害は大きく、第十八連隊では中隊長六名が戦死、大中隊長五人が負傷しています。大場中尉の中隊長就任はこれを受けたものか、予定されていたのかわかりませんが、損失のため三人の大隊長と十七人中十三人の中隊長が交代しています。大場中隊長が負傷した第二次長沙作戦でも大隊長・中隊長以下多くの死傷者が出ています。日本軍の将校死傷率の高さに驚かされました。

浙?(せっかん)作戦終了後、第十八連隊は支那派遣軍の第三師団から離れて、関東軍第二十九師団隷下に入ることになり、昭和十七年九月、満州の海城へ移駐しました。その後、第八中隊は昭和十九年、南方転出時の部隊編成の刷新により解隊・消滅しました。

大場中尉は昭和十八年に大尉に進級していますが、衛生隊の隊長となった経緯は調べることができませんでした。サイパン戦までの指揮官としての戦闘経験が突撃で生き残った後の行動に大きな影響を与えていたことでしょう。

上海上陸以来、一カ月あまりの激戦で十八連隊は多くの死傷者が出ています。四日間の戦闘で、大隊長が戦死し、四人いた歩兵中隊長の内三名が戦死した大隊があったり、編成時二百名ほどであった隊員の生存者が五十名前後になった中隊も複数ありました。生存率が四分の一では、負傷率はもっと高いのです。無傷でいる方が不思議なくらいでしょう。これは兵力の差が大きく、この劣勢を補うための火力にも乏しかった日本軍が少数での戦いを強いられながらも、勇敢に戦った結果と言えます。作戦を立てる軍人が被害を最小限に抑えることを考えないという危機管理意識の低さ(人命軽視)と、疑問を持ちながらも最前線で戦う勇敢な兵士の使命感が、流れる血の量を増大させるのです。このような組織の体質は現代にも通ずる感があります。

これは孤島の玉砕戦でおきたことではないのです。このような中国戦線で幾度も負傷し戦場で四年以上生き残ることができたことは、奇跡なのではないでしょうか。その後、サイパンにいたるまでに輸送船が撃沈され、玉砕戦を生き残ってきたことを思うと、ただ運が強いということではないものを感じます。自身の生活とは別に、本の題材となり、没後も映画となって多くの人に何かを伝える役割を担っていたのかもしれません。


【参考文献】

守屋賢至雄編 『歩兵第十八連隊第八中隊史』 歩一八・八中会隊史刊行委員会、昭和五十三年(1978年)

兵東政夫 『歩兵第十八聯隊史』 歩兵第十八聯隊史刊行会、平成六年(1994年) ※初版は昭和三十九年(1964年)

水谷眞理・竹内康子編 『大場栄と峯子の戦火のラブレター』 これから出版、平成二十三年(2011年)

※歩兵第十八連隊だけみてきましたが、中国戦線での被害は想像以上に大きなものでした。機会があれば調べてみたいと思います。


 

■NHK《おひさま》和成の出征 2011年06月04日

和成がいたのは、松本連隊と思いますが、松本歩兵百五十連隊は、昭和十九年二月、トラック島へ向かう途中、輸送船が撃沈され、多くの犠牲者がでました。

トラック島には米軍が上陸しなかったので、無事にトラックへたどり着けばよいのですが。

また、補充であったとしたならば、サイパンタイガーと呼ばれた堀内今朝松一等兵と共にサイパン島へ取り残されることになるかもしれません。サイパン島は玉砕することになります。

どちらにしても、過酷な運命が待ち受けているのです。

おひさまのHPの人物相関図に陽子と和成の子どもがいないのは、関係があるのでしょうか?

タケオは大丈夫ですが、春樹・茂樹ともにちょっと心配です。

 
■太平洋の奇跡 大場栄大尉と実業学校? 2011/02/25
■「サイパン島民間人収容所内の惨劇」と『地獄の虹』 2011/02/27
■サイパンタイガー、堀内今朝松一等兵は松本歩兵第50連隊か?2011/03/01
■《太平洋の奇跡》だけではない 2011年5月14日

 
【三河武士がゆく】