■映画「聯合艦隊司令長官 山本五十六」を見てきました  2012/01/08

(1)戦争に疑問を持とう

あまり興味がなさそうな息子と、ほとんど関心がない娘を連れて見に行きました。

私が父親に連れられて東宝の「日本海大海戦」を見に行ったのはもっと幼いときでしたが旅順攻撃は印象に残りました。太平洋戦争は子どもたちの記憶のなかにとどめておいて欲しい内容です。知ることがなければ興味は持てず、内容を掘り下げるのは関心があればこそです。

あくまでも史実に忠実な映画としてみるのならば不可ですが、総体的に良い出来だと思いました。登場人物が減らされ、ストーリーが単純化されて(賛否両論あるでしょうが)わかりやすく、退屈せずに見ることができました。また、今では戦闘シーンはあまり見たくないので助かりました。

戦争を推進した新聞社や三国同盟への過程など多くを伝えたかったのはわかりますが、新聞記者の話や三国同盟を推進する勢力の描写を工夫するか短縮することによって、戦略・戦術面へスペースを空けて欲しかったと思いました。新聞が自主的に戦争推進をした背景には利潤を追求する企業としての姿勢もあったことを強調したかったのでしょうか。

日本史でいえば、封建社会から近代に変わっていく過程で、人間が、人命が大切にされるようになったかといえば、そうばかりとはいえないということを、近代戦が以前の戦いに比べて、人間を機械のように投入しなければならない戦い方であったことを描いて欲しかった。

また、かけがえのない人の命を、経験が乏しく、あるいは経験から学ぶことが少ない人たち、あるいは現実的な想像力の足りない人たちが戦場から遠く離れた机の上で決めるという、

「事件は会議室で起きてるんじゃない。現場で起きてるんだ」(青島刑事 「踊る大捜査線」)

と同じことが、ずーっと前から行われていたということからも、学ばなければならないのです。

映画を見終わった後、子どもたちの口から「どうして?」「なぜ?」という疑問を聞くことができました。

疑問を持つことがいいのです。

(2)誰だったかな?

そのような人いたかな?
家に帰るのが待てずに途中書店によってまでも調べたいことがありました。
映画の予備知識ゼロで見に行ったものですから。

吉田栄作演じた三宅義勇参謀と、ガダルカナル撤退作戦で戦死したカドクラ(門倉?角倉?)と名乗る軍人です。

結局、インターネットにより三宅義勇参謀は三和義勇参謀をモデルにしていることがわかりました。

カドクラという軍人については全くわかりません。誰をモデルにしたのでしょうか?

草鹿龍之介と源田実はどこに出ていたのだろうと思っていると、西岡宗介参謀ではないかということになりました。

様々な制約のなかで、映画を作るから仕方がないのでしょうが、ここは、実名でやって欲しかったと思うのです。

それから、空母飛龍総員退去時の山口多聞少将と艦長加来止男大佐、蒼龍艦長柳本柳作大佐、そして、飛龍の機関室に残された人たちの話なども、描いて欲しかった。

自分にとっては久々のヒットと感じた映画だけに、少し残念です。

(3)三宅義勇参謀の正体?

三宅義勇参謀は三和義勇参謀をモデルにしたと書きましたが、他にもモデルとした人がありそうです。映画のなかで、山本長官が三宅参謀と将棋を指すシーンが何回かありましたが、これは戦務参謀の渡辺安次中佐と思われます。他に参謀の藤井茂中佐も将棋を指していたそうです。

映画での三宅参謀は山本長官と一緒に戦死しますが、三和義勇大佐の連合艦隊での在任は昭和十七年十二月一日までになっており、山本長官がトラック島からラバウルに移った頃には、南東方面艦隊(司令長官草鹿任一中将・司令部ラバウル)の先任参謀であったと思われます。昭和十七年十二月二十四日に編成された南東方面艦隊は第十一航空艦隊と第八艦隊からなっており、司令長官と幕僚は第十一航空艦隊と兼務であったので、三和参謀は連合艦隊から第十一航空艦隊へ移ったのかもしれません。

したがって、三和参謀が一式陸攻に同乗することはありません。山本長官が戦死された昭和十八年四月十八日には、三和参謀は入院しており、病院のベランダから長官機を見送ったそうです。長官機に同乗していた連合艦隊参謀は航空甲参謀の樋端久利雄中佐です。他には副官の福崎昇中佐と軍医長高田六郎少将が同乗していました。福崎中佐は開戦前より副官を務めていました。

長官の視察には幕僚が二機の一式陸攻(護衛は零戦六機のみ)に分乗しました。もう一機には参謀長宇垣纏中将が搭乗していましたが、先任参謀の黒島亀人大佐や渡辺参謀は乗っておりません。

架空の人物である三宅義勇参謀のモデルは、三和大佐と渡辺中佐だけでなく、福崎中佐・樋端中佐・藤井茂中佐(長官と将棋を指すことがあったそうです)までも含まれるのかもしれません。


[幕僚が搭乗した一式陸上攻撃機]

一番機(全員戦死)
副官 福崎昇中佐
軍医長 高田六郎少将
航空甲参謀 樋端久利雄中佐

二番機
参謀長 宇垣纏少将(負傷)
主計長 北村元治少将(負傷)
気象長 友野林治中佐(戦死)
通信参謀 今中薫中佐(戦死)
航空乙参謀 室井捨治中佐(戦死)
なお、主操林浩二等飛行兵曹も生還しています。

三和大佐は昭和十八年七月に第一航空艦隊(司令官角田覚治中将)の参謀長となり、昭和十九年八月にテニアン島で戦死しております。三和大佐が遺した日記は宇垣参謀長の『戦藻録』とならぶ一級資料でありますが、遺族によれば戦後同期であった人が貸りて紛失した箇所があるそうです。これは、『戦藻録』についても同様で、黒島亀人氏が紛失したそうです。遺族にとっては貴重な遺品を紛失するとは考えにくいことです。

最後に角田中将のことを一つ。「見敵必戦」を信条とし、闘将・猛将のイメージが強い人ですが、テニアン島での防戦準備をしているとき、民間人に対して、 「今まで軍への協力を惜しまなかった民間人を前に、「ありがとう。皆さんは民間人ですから、軍人のように玉砕しなくともいいのですよ」笑顔で最後の挨拶をしてまわった」(『歴史街道』244号)そうです。

★参考文献
『烈将山口多聞』 生出寿、徳間書店(1989年)※『勇断提督山口多聞』(1986年)の文庫版
『山本五十六のすべて』 新人物往来社(1992年・第3刷)
『検証・山本五十六長官の戦死』 山室英男・緒方徹、日本放送出版協会(1992年)
『海軍の家族』 三和多美、文藝春秋(2011年)
その他

 

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