徳川慶喜が愛した女性「お芳」

東三日本史趣味 第1号
2014年12月16日
A4サイズ12枚 
約271KB

【1】徳川慶喜が愛した女性「お芳」(1) 2〜10頁
 1.大坂城から脱出したお芳
 2.お芳をめぐる開陽艦での騒ぎ?


1.大坂城から脱出したお芳

将軍徳川慶喜の側室「お芳」は謎の多い人物である江戸町火消の頭取、新門辰五郎(新門の辰五郎)の娘だとされるが、生まれも育ちも、最後もどうなったのかよくわからない。

私がお芳に興味を持ったのは、徳川慶喜の大坂城脱出時における、開陽艦(開陽丸)乗り組みの際のお芳に関するエピソードが、書籍によってまちまちであったことによる。

慶応4年1月3日、鳥羽・伏見の戦いが始まり、旧幕府軍が敗退し、薩摩藩・長州藩などの新政府軍が大坂城に迫りつつある1月6日の夜、前将軍徳川慶喜は密かに大坂城を脱出し、翌7日に大坂湾に碇泊する開陽艦に乗り込んだ。当時開陽艦の副長であった澤太郎左衛門の「戊辰之夢」(『旧幕府』)には、この時慶喜を追って御側御用人室賀伊予守と奥向きの人たちが開陽艦に乗り付けたとある。室賀正容(伊予守)は御側御用取次であり慶喜の信任が厚かったであろうから、奥向きのことを託したと思われる。断定はできないが、このなかに慶喜の側室が乗り込んでいた可能性が高い。

開陽艦に乗り込んでいた側室についての記述が、会津藩主松平容保の小姓浅羽忠之助が書いた「鳥羽へ御使並大坂引揚の一件」にある。次の引用箇所は、慶喜に随従して開陽艦にあった容保が江戸に帰った後で浅羽に語った内容である。
 
扨て御船中御座所に始めは小児の声致し候と思召し候処、後には婦人姿を現し、承れば御侍妾の由、何時の間に御連れ成られ候哉と逐一御話これあり
       「鳥羽へ御使並大坂引揚の一件」
浅羽忠之助、明治初年(『会津戊辰戦争史料集』所収)

慶喜の部屋から子供の声がすると思ったら、側室であった。一人の家臣も連れることを許されず、随行を命じられた容保にしてみたらどのような思いであったか。

この「御侍妾」は「お芳」のことだと思うが、この史料だけでは断定する事ができない。徳川慶喜の京都時代の側室について詳しく知らないが、『新聞薈叢』の「市川 西 十一月十六日出京師報告大略」に次のような記述がある。これは市川斎宮と西周助(後の西周)による報告書であるらしく、開成所教授であった西が命により上京した慶応2年のものである。
 
大君Concubine 三名御抱相成候由尤ホトグレヒーにて御撰之由二條城へも御住込に成る評判なり

            『新聞薈叢』会訳社編、明治文化研究会校訂、岩波書店、1934年(昭和9年)

「Concubine」とは、側室や妾、「ホトグレヒー」は写真のことである。これによれば、京都時代の側室は複数いたことになる。開陽艦に乗り込んだ側室として名前が挙がるのは、お芳ひとりであるが、ひとりと決めつけてよいのだろうか。鳥羽・伏見の戦いの時には側室はお芳ひとりだったのか、他の側室も乗り込んでいたのか、それとも置き去りにされ、別の方法で江戸までたどり着いた側室がいたのか、あるいは、開陽艦に乗り込んでいたのはお芳ではなく他の側室であり、お芳は父親の新門辰五郎とともに江戸に帰った可能性もあるのかなどと、考えてしまう。

歴史を調べるためには、素性のしっかりした資料が必要となる。徳川慶喜とお芳の東帰についてよく用いられる資料は、『聞き書き 徳川慶喜残照』(遠藤幸威、1982年)である。これは、徳川慶喜の関係者からの聞き書きであり、そのなかに「小島いと女憶え書き」という慶喜晩年の侍女であった小島いと氏の話がある。小島氏は明治26年生まれなので、話の内容は伝聞によるものである。情報源がわからないが、慶喜周辺の体験者や当時を知る者から話しを聞いていた可能性がある。
 
「小島いと女憶え書き」

あたくしは存じませんが、鳥羽・伏見の戦いの後、軍艦開陽丸まで付いて来て回りの人が、
「上さまのお部屋で子供の声がする」
 と間違えた京、大坂時代のお局お芳さんという新門ノ辰五郎親分の娘も、多分こんなタイプの少少小柄な女じゃなかったか、と思います。
               『聞き書き 徳川慶喜残照』遠藤幸威、朝日新聞社、1982年(昭和57年)

また、同書には、聞き書きであるのかよくわからないが、鳥羽・伏見の戦いの時に徳川慶喜の小姓であった村山鎮(久五郎)が明治になってから語ったとされる記述がある。村山については後述するが、明治5年に解雇されるまでは、徳川家の家従を勤めており慶喜に仕えている。村山によって周囲の人たちに大坂城脱出時の話が伝わっていた可能性はあるが、資料中の話を誰がいつ聞いたのかはわからない。
 
「晩年の慶喜前将軍回顧」
(前略)
 ただ一ツ橋家へ仕えて静岡にも供をした旧幕臣村山鎮は明治後、
「上さまのお部屋で子供の声がする、と思ったら女だ。これを知った者が、女を斬ると騒いだ」
 という憤懣を語っているが、この女性が新門ノ辰五郎の娘お芳である。
 お芳は開陽丸が碇泊中、用度品を搬入している際、駆けつけてまぎれ込んだらしい。お芳は慶喜に付いて静岡まで行っている。
 この女のことは西周(後男爵・慶喜側近の一人)の記録や『浅羽忠之助手記』にもチラッと出ていた。

 ※「鳥羽へ御使並大坂引揚の一件」は、『浅羽忠之助手記』に含まれる。『会津戊辰戦争史料集』の解説には、「浅羽忠之助之筆記」内の一部とある。

              『聞き書き 徳川慶喜残照』遠藤幸威、朝日新聞社、1982年(昭和57年)

『聞き書き 徳川慶喜残照』は貴重な資料であるが、小島いと氏の情報の入手先と時期、村山鎮の話を聞いた人物と時期がはっきりとしない。実際にはわかっているのかも知れないが、『聞き書き 徳川慶喜残照』には記述されていない。

また、資料を見るとき、書かれた時期や社会的背景、実際に目撃や体験した内容か伝聞か、などを考慮する必要がある。記憶違い、思い違い、思い込み、想像、創作、意図的に操作したものなどが含まれる可能性もあり、必ずしも正確だとは限らない。したがって、資料の信憑性を高めるためには、内容を他の信頼できる資料で確認する必要がある。

そこで、新門辰五郎の娘が開陽艦に乗り込んだことを証明できるような資料を、地元の図書館(豊橋市図書館、豊川市中央図書館)と国会図書館のデジタルコレクションで探してみた。しかし、見つかったのは次の2冊だけだった。2冊とも資料としは不完全であり、典拠とするには厳しいが、他に見つけることができなかった。デジタルコレクションでは、閲覧不可能な資料があり、確認していない資料も多くあるから、信憑性が高い資料が存在している可能性はじゅうぶんある。また、刊行物以外の徳川慶喜に関する資料を見たことはない。

それでは、資料をひとつずつ見ていくことにする。
 
慶應三年一月七日と記憶して居る大坂城にあつた慶喜卿は薩長の勢に敵し難く暗夜二三の幕僚を具して城内を脱れ出で兵庫に碇泊して居た幕府方の軍艦回陽丸に?れ去つた、其時自分も回陽丸乗組員の一人であつたが同艦では司令榎本武揚氏が慶喜卿の身の上を気遣ひ艦員を上陸せしめて居つた時で何れも慶喜卿を探したが姿が見えぬので頗る懸念して居ると突然兵庫碇泊中の英艦から一艘の端艇が波を切つて漕ぎ付け一葉の名刺を通じ英艦に此者が來て居るから引取りに來いと通知して來た夫れは慶喜卿であつたので武揚氏は副長澤太郎左衛門等の一隊を遣はし漸く回陽丸に卿を迎ふる事が出來た卿は暗夜の爲め幕艦と英艦とを間違へたのである相だ、因に同艦は直ちに東航の準備に取りかゝらうとしたが其時海上遙に波を切つて漕ぎ寄せる一艘の傳馬船がある爾うして回陽丸目掛けて聲を限りに呼んで居る近づくのを見るとこれが慶喜卿無二の愛妾たる時の?客新門辰五郎の娘で窈窕たる美人であつたので卿の喜びは素より艦内の豪傑連も流石垂涎措かなかつた

「新門辰五郎の娘」 舊幕臣渡邊C太郎氏談(市村残月『前将軍としての慶喜卿』春江堂書店、大正2年(1913年)所収)

※徳川慶喜は大正2年11月22日に亡くなっている。『前将軍としての慶喜卿』の印刷は同年11月28日、発行が12月1日となっている。
 

談話者である旧幕臣渡邊C太郎の経歴がわからない。談話の通り当時の開陽艦乗組員であれば、目撃者の証言としての価値は高いと言える。しかし、内容には「戊辰之夢」などと異なる点が多い。「戊辰之夢」によれば、当時大坂に上陸していたのは榎本武揚であり、開陽艦にはいないことになっている。次に慶喜たちが一時身を寄せたのは《英艦》ではなく、《米艦》である。さらに、海上は「遙に波を切つて漕ぎ寄せる一艘の傳馬船」という状況ではなく、「西風強く海面は高浪山の如く端船動揺烈しく本船に接する能はず今や轉覆せんと。する有様」(「戊辰之夢」)であった。「鳥羽へ御使並大坂引揚の一件」にも、「其節風強くして大いに御難儀、漸く御乗移に相成り候」とあり、伝馬船のような小船では開陽艦までたどり着くことは困難であったと思われる。さらに、「戊辰之夢」によれば、慶喜たちが米艦より大型端船で開陽艦にたどり着いた時、慶喜を追ってきた御側御用人室賀正容と奥向きの人たちが、千石積と思われる売船で開陽艦に横付けしていたとあるので、断定はできないが、この船にお芳が乗っていた可能性が高い。

また、「鳥羽へ御使並大坂引揚の一件」のように、周囲に気付かれる事無く側室が乗り込んだのであれば、「其時海上遙に波を切つて」以降の状況はあり得ない。談話の正確な時期が不明だが、おそらく40年以上前の事なので細部においては談話者の記憶違いがあるとしても、この資料をどの程度信頼してよいのか、はかりかねる。乗り込んだ側室を新門辰五郎の娘としているが、談話者がそれをいつどのようにして知ったのか疑問に感じる。

次の資料は、歴史の資料としてとりあげるには厳しいと思うが、徳川慶喜と新門辰五郎の娘の東帰について記述しているので、とりあげてみた。
《「あとがき」より》
新門辰五郎の娘お芳は謎が多い。調べていくと余計にわからなくなるので、頭を悩ました。
そもそもは、三河吉田藩の戊辰戦争時の動向を追っていたのが、その過程で徳川慶喜の大坂城脱出で引っかかって、そのついでにお芳の事が気になって離れなくなってしまった。お芳のことを書いても、知りたいという人は多くはいないだろうが、どうにも調べたくなってしまった。素性や行動を明確にする一次史料はみあたらない。あまりにも資料が少なく、確証と言えるところまでは行き着けないが、この先わかる範囲で書いてみようと思っている。
 
「新門辰五郎」
慶喜と辰五郎の結付きの裏には、辰五郎の娘は慶喜の愛妾であるという関係がった。後の話ではあるが、横山健堂の『江戸の面影』に「殊に維新の正月十五日、将軍慶喜公、大阪城より海上を東走して東京湾に帰来し、美しき愛妾、新門辰五郎の娘を携へ、ボートに搭じて、此の森のかげより夜深に浜御殿に潜入されし、新史劇一幕の眼前に見ゆる心地せずんば非ず。当時浜御殿には寝具の準備なし、霜の夜をば、十五代は其愛妾侍臣と共に、木を焚きて明ししと聞く」というように愛妾の父親であったのである。

『やくざの生活』生活史叢書4、田村栄太郎、雄山閣出版、昭和49年(1974年)第8版、初版は昭和39年(1964年)

著者の田村栄太郎が引用している『江戸の面影』は未見である。著者の横山健堂は昭和18年(1943年)に亡くなっているので、それ以前の刊行であろうが、資料に関する事はまったくわからない。徳川慶喜の側室である新門辰五郎の娘が、慶喜と共に大坂から船で帰ってきたという内容であるが、典拠は不明である。横山の情報入手の経路が少しでもわかればと思うが、どこに手をつけてよいのかわからない。

以上見てきたように、裏付けとなる資料を得ることはできなかった。これほど資料が少ないとは思わなかった。
         
付け加えておくが、『聞き書き 徳川慶喜残照』でみられた「お芳」という名は、「新門辰五郎の娘」(『前将軍としての慶喜卿』)と、『江戸の面影』には記されていない。これまでは、名前に疑問を持つことはなかったが、調べることの必要性を少し感じた。


2.お芳をめぐる開陽艦での騒ぎ?

徳川慶喜は大坂城を密かに脱出して開陽艦へたどりついたのだが、このことは、大坂城内の一握りの家臣しか知らないことだった。つまり、彼らを置き去りにしてきたということになる。この敵前逃亡ともとられかねない行動に対して、家臣たちのなかには、承服しない者もいただろうし、憤懣やるかたない者がいてもおかしくない。

この時の事として、既刊書などによく見られるエピソードがある。側室が開陽艦に乗り込んでいること、あるいは乗り込もうとしていることが家臣達の知るところとなり、騒ぎとなったというのだ。しかし、この事件もはっきりとしない。次に対立する内容を示す。
 
「晩年の慶喜前将軍回顧」
(前略)
 ただ一ツ橋家へ仕えて静岡にも供をした旧幕臣村山鎮は明治後、
「上さまのお部屋で子供の声がする、と思ったら女だ。これを知った者が、女を斬ると騒いだ」
 という憤懣を語っているが、この女性が新門ノ辰五郎の娘お芳である。
 お芳は開陽丸が碇泊中、用度品を搬入している際、駆けつけてまぎれ込んだらしい。お芳は慶喜に付いて静岡まで行っている。
 この女のことは西周(後男爵・慶喜側近の一人)の記録や『浅羽忠之助手記』にもチラッと出ていた。

『聞き書き 徳川慶喜残照』遠藤幸威、朝日新聞社、1982年(昭和57年)
 
さて二婢となると、はたと思い当たる女がいた。鳥羽・伏見の戦に敗れ、慶喜が大坂より軍艦で江戸に逃げ帰る時に出てくる新門辰五郎の娘(お芳といったらしい)である。彼の軍艦にお芳を乗せた小舟が近づいたところ、近習の村山摂津守(鎮、『村摂記』の著者)が、我々は主君を守るために乗船しているが、お手つき女中だからとて、軍艦に乗ろうとは何事だと、白刃を振るって追い返そうとしたという。お芳の姿が歴史上に垣間見えたのはこの時だけである。

比屋根かをる「徳川慶喜をめぐる女性たち」(『徳川慶喜のすべて』新人物往来社、1984年(昭和59年)所収)
 

事件の鍵を握っていそうな村山摂津守は、通称久五郎、名を鎮(まもる)といった。村山は始め一橋家に仕え、将軍徳川慶喜の中奥小姓を勤めた。江戸開城後も慶喜に従い、静岡に移っており、廃藩置県後の明治5年に解雇されるまで一等家従を勤めた。解雇後東京に移り、内務省勧業寮製茶掛として出仕した後も静岡の慶喜邸を何度も訪れている(『慶喜邸を訪れた人々』)。慶喜が何度も会っているところをみると、信頼が厚かったと考えられる。

まず最初に、開陽艦に乗り込もうとする時にお芳を追い返そうとして騒ぎになったのか、徳川慶喜の部屋に居たのが発覚して騒ぎになったのかという問題だが、「舊幕臣渡邊C太郎氏談」の内容について説明したように、お芳が小舟で開陽艦までたどり着くのは難しいと思う。確証は無いが、状況的には、御側御用取次室賀正容が率いた奥向きの人たちと一緒に千石積みのような船に乗って来たと考えられる。したがって、『聞き書き 徳川慶喜残照』にあるように、「上さまのお部屋で子供の声がする、と思ったら女だ」というのが真実に近いと思う。これは、「鳥羽へ御使並大坂引揚の一件」にある、御船中御座所に始めは小児の声致し候と思召し候処、後には婦人姿を現し、承れば御侍妾の由」と符合する。

次に、騒ぎの当事者は誰なのかという問題に移る。村山自身が語ったとされる『聞き書き 徳川慶喜残照』の内容の通りであれば、当事者は村山ではない。目撃者もいたであろうし、実際に本人が語っているのであれば、嘘をついていないかぎり真実である。このようなまわりくどい書き方をするのには理由がある。この村山の話をいつ誰が聞いたのかがわからないのだ。記述通りの情報では、信頼性の高い典拠とはならない。

気になる事は他にもある。比屋根かをる氏が「徳川慶喜をめぐる女性たち」に当事者を村山鎮と書いた事だ。何の根拠もなく書いたのであろうか。比屋根氏は、1975年(昭和50年)、「徳川慶喜をめぐる女性たち」よりも前に、『将軍東京へ帰る』(新人物往来社)という小説を書いている。このなかで、「今、妾を軍艦に入れたら主人の末代までの恥だと、抜刀して追い返そうとしたのは、この村山摂津守であった」と、断定的に書いているのだ。開陽艦での騒ぎの箇所は、「徳川慶喜をめぐる女性たち」と同じベースと思われる。これは小説であり、典拠を記していない。「徳川慶喜をめぐる女性たち」も典拠を示していないので、村山が当事者であったという説はこれ以上確かめようがない。

ただ、比屋根氏は、徳川慶喜研究者である河合重子氏の影響を受けており、共有している情報も豊富だと思われる。また、これはまったくの想像になるが、両氏は慶喜関係者に直接会って話しも聞いているので、当事者を村山とする話を聞いた可能性も考えられる。ちなみに河合氏は、2007年(平成19年)に『謎とき徳川慶喜』(草思社)を著しているが、お芳の開陽艦への乗船については記しているものの、騒ぎに関しては触れていない。

村山鎮は何も残さなかったわけではなく、『村摂記』という回顧録のようなものを遺している。村山は、明治35年(1902年)に亡くなっている。慶喜は大正2年(1913年)11月に亡くなっているので、慶喜生存中に書かれたものであるが、年代はわからない。中央公論社版『未刊随筆百種』の「後記」によれば、三田村鳶魚が村山の遺稿を整理したのは大正2年7月とあり、発行は昭和2年である。    
 
「いよいよ此先の話は御免を蒙る、実に@慨に堪ぬから、大坂引揚はよしにしませう」、併し君公へ御供したのは御大名が多つた、御老中で酒井雅楽頭、板倉伊賀守両人と会津と桑名とて、御扈従頭取三人と御医者の戸塚計りで、坪井信良と云ふ人は会津さんが独りで草鞋もはけず困るから連れられたと云ふ事です、御大名だの、殿様と云ふものは真に独り歩きは出来ぬもので随て困たもんでした、今でも其風がありますから、学習院抔では余程厳敷やらぬと失礼ながら馬鹿計りに成ります、
夫から後の御内意を伺て居るものは、七日の朝、天保山沖に投錨して居る開陽艦に乗込だよふでした、御微行で御出発になつたあとの大坂城の話も之もぬきとしませう、何分@慨に堪んから、表の御役人から兵隊ですか、夫は御軍艦がいくらでもゐて回天蟠竜富士山等に八日頃から乗込、又紀州へ又者だの何かは行て蒸気船に大概乗りて東帰しました、

   村山鎮「村摂記」(三田村鳶魚編『未刊随筆百種 第三巻』中央公論社、昭和51年(1976年)所収
※米山堂の『未刊随筆百種』は昭和2年(1927年)発行
 


『村摂記』を読んで気になったのは、徳川慶喜が大坂城を脱出し、開陽艦に到るまでの間、村山が随行していたのかという事だ。開陽艦に乗っていなければ、騒ぎには関わっていない事になるからだ。『村摂記』には、三人の御扈従頭取(御小姓頭取)が随行したとあるが、これは小姓とは異なる。いっぽう、「鳥羽へ御使並大坂引揚の一件」には、徳川慶喜が大坂城を脱出したときに、小姓を随えていたと書かれているので、このなかに村山が含まれていた可能性はある。

しかし、「御内意を伺て居るものは、七日の朝、天保山沖に投錨して居る開陽艦に乗込だよふでした」という文章を素直に読めば、開陽艦にはいなかったように感じられる。たとえ乗船していたとしても、お芳をめぐる騒ぎに関与していなかった印象を受ける。

『村摂記』の中に真実に迫る情報がないかと期待したが、「熬(※下は心)慨に堪ぬ」という理由からこれ以外の、大坂城脱出の詳細は記されていない。余程腹に据えかねた事があったのだろう。騒ぎの当事者を村山だとする側に立てば、これをお芳の一件と結びつけたくなるであろうが、確かめようがない。

ここまでみてくると、村山が騒ぎの当事者であった事を裏付ける資料が示されない限り、「晩年の慶喜前将軍回顧」(『聞き書き 徳川慶喜残照』)にみえる、「上さまのお部屋で子供の声がする、と思ったら女だ。これを知った者が、女を斬ると騒いだ」という方が信憑性が高く感じる。しかし、両説共に確実な典拠が示されていないので、断定はできない。したがって、併記したほうが無難といえる。曖昧な結論になってしまったが、私が見ている資料だけではこれ以上の追究ができない。

徳川慶喜とお芳を乗せた開陽艦は、1月8日、天保山沖を出帆し、1月11日、無事に品川沖に達した。慶喜は翌12日に上陸して江戸城に入っているが、お芳に関する記録はみあたらない。

その後の、お芳についてもはっきりとしない。お芳の父親、新門辰五郎は名の知れた侠客であり、ある程度までの情報が残っている。しかし、お芳については、生まれや育ちなどが、明確ではない。次回は、この新門辰五郎とお芳との関係について書く予定だ。




【2】豊川を渡った新選組隊士

愛知県豊橋市の中心部は江戸時代、吉田と呼ばれ、吉田城の城下町、そして東海道の宿場町として栄えた。吉田宿の北を東西に流れる吉田川(豊川・大川)には、吉田大橋(吉田橋・豊橋)が架けられ、幕府直轄の橋として管理された。

慶応2年7月2日(1866年)、前日来の大雨による洪水のため、吉田大橋が流失した。6月には、第二次長州戦争が始まっており、人と物資の流れが滞ることがあってはならず、7月3日より渡船が始まった。

渡船役として渡船業務を行った吉田宿船町(現豊橋市船町)には、この慶応2年7月3日からの渡船に関する諸記録が残っていたが、1945年(昭和20年)の空襲で焼失し、原本を確認する事ができない。しかし、船町の郷土史家佐藤又八氏がまとめた『三州吉田船町史稿』(1971年)によって部分的にではあるが内容を知ることができる。『三州吉田船町史稿』のなかに、慶応2年分の『御役々様方御往来吉田川渡船取調書上帳』(横帳一冊)と『御用物御通行取調記』(立帳三冊)を元にしてまとめた記述がある。

この記述のなかに、三名の新選組隊士の名が見える。

 ・9月17日 「登 新選御組藤沢彦次郎様 栗山七郎様」
 ・10月29日 「登 新選組藤堂平助様」 

7月20日に将軍徳川家茂が大坂城で亡くなり、8月20日に喪が発せられた。9月12日夜、吉田宿では、「明日ヨリ十日ノ間 御進発御供ノ御方相続テ帰東相成候ニヨリ 其心得アリタシトノ事」(『三州吉田船町史稿』)という状況となり、上方より下る引き揚げの幕府軍が急増し、渡船場は人や物でひどく混雑していたことだろう。この流れとは逆に上方へ登った三名の新選組隊士とは、どのような人物であったのか、調べてみた。

参考文献は次の通り。

『新選組史料集』新人物往来社(1993年)
『新選組日誌』新人物往来社(1995年)
『歴史読本 幕末最強新選組10人の組長』(1997年)
『別冊歴史読本 新選組隊士録』(1998年)
『別冊歴史読本 新選組原論』(2001年)
『別冊歴史読本 新選組組長列伝』(2002年)
『新選組を探る』あさくらゆう、潮書房光人社(2013年)

文中にある「隊士名簿」とは、上記文献で確認できる隊士名簿を指す。

1.栗山七郎

新選組の隊士名簿には見られない。どのような人物であるかわからない。

2.藤沢彦次郎

新選組の隊士名簿には見られないが、西村兼文の『新撰組始末記』に、「藤沢竹城ハ文芸ノミニテ武事ノ用ヲナサズト倦シテ退去ス」とあることから、同一人物である可能性を指摘されることがあるが、断定できる史料はない。

また、新選組隊士大石鍬次郎が局長近藤勇の次兄、宮川総兵衛に宛てた慶応2年8月1日付の書簡に「就而は同志藤沢彦次郎殿幸此度東下被致候間」(『新選組日誌』)とあることから、この頃京を出発して江戸へ下り、その帰りに東海道を通り吉田川を渡って吉田宿に入ったと考えられる。

同行の栗山については、情報がないので、東下の際、一緒であったのかはわからない。

3.藤堂平助

藤堂平助は、新選組結党以来の幹部隊士で、副長助勤となり、元治元年の池田屋事件にも参加し深手を負っている。

池田屋事件後(8月頃か)江戸に下って隊士募集活動を行い、翌慶応元年5月、京都に戻ったとされる。このあと新入隊士を加えた編成で八番隊組長となるが、これ以降、慶応3年3月までの行動がはっきりとしない。『御役々様方御往来吉田川渡船取調書上帳』に名の見られる慶応2年10月29日は、その空白の時期にあたる。

東に下った目的は不明であり、目的地が江戸であったかもわからない。東下の時期も不明なので、渡船開始よりも前に吉田宿を通っている可能性もある。

そして、翌慶応3年3月、伊東甲子太郎らと共に新選組から分離して御陵衛士となり、高台寺党を結成したが、同年11月18日、新選組に暗殺された伊東の遺骸を引取に行って、京都油小路で討たれた。吉田川を渡って約一年後の事である。



《あとがき》

1.徳川慶喜が愛した女性「お芳」(1)

新門辰五郎の娘お芳は謎が多い。調べていくと余計にわからなくなるので、頭を悩ました。そもそもは、三河吉田藩の戊辰戦争時の動向を追っていたのが、その過程で徳川慶喜の大坂城脱出で引っかかって、そのついでにお芳の事が気になって離れなくなってしまった。お芳のことを書いても、知りたいという人は多くはいないだろうが、どうにも調べたくなってしまった。素性や行動を明確にする一次史料はみあたらない。あまりにも資料が少なく、確証と言えるところまでは行き着けないが、この先わかる範囲で書いてみようと思っている。


2.豊川を渡った新選組隊士

私は、『燃えよ剣』をテレビで見て以来、土方歳三にあこがれた新選組の一ファンに過ぎない。数年前、豊橋市の「ええじゃないか」を調べていた時、『三州吉田船町史稿』のなかに、新選組隊士藤堂平助の名がある事を知って素直に喜んだ。

『三州吉田船町史稿』に含まれる資料は交通史関係の内容だと思うが、慶応2年の渡船の記録には、幕府の要職に就いている者は勿論、京都見廻組や幕府歩兵なども見られ、第二次長州戦争のための動員の様子を知ることができる。ただ、多くの原本が空襲で焼失しており、元々の状態がはっきりとわからないのが残念である。


 

東三日本史趣味 第2号
2016年5月14日
A4サイズ 13枚 
約249KB

徳川慶喜が愛した女性「お芳」(2) 2〜12頁

1.その後のお芳?
2.新門辰五郎の娘なのか?
3.「お芳」という名前は本当か?
4.「お芳」の情報を提供したのは誰?
5.お芳のプロフィール


【1】徳川慶喜が愛した女性「お芳」(2)

1.その後のお芳?

徳川慶喜と共に江戸へ帰り着いたお芳のその後についてもよくわからない。没年も亡くなった場所も、墓についても不明である。

その後のお芳については、「小島いと女憶え書き」で次のように語られている。
 

あたくしは存じませんが、鳥羽・伏見の戦いの後、軍艦開陽丸まで付いて来て回りの人が、
「上さまのお部屋で子供の声がする」
と間違えた京、大坂時代のお局お芳さんという新門ノ辰五郎親分の娘も、多分こんなタイプの少少小柄な女じゃなかったか、と思います。
貴方がこないだ新庚申塚(豊島区)の善養寺にある新門ノ辰五郎以外の町田家(辰五郎の養家)のお墓で見付けた、
   法林妙市信女 明治四十三年十二月一日 六十二歳
というの。ひょっとするとお芳さんかも知れませんよ。明治後新潟の方へ駆落ちしたとか聴きましたけど、結婚したという話は聴きません。すると当然実家のお墓に入りますからね。「いち」という字もつづけようによっては「芳」ともなるし、御前ならそれくらいの茶目ッ気もありますもの。歳も合いますしね。ただお子さまはこの方生んでおりませんよ。生れてすぐお亡くなりになったお方でも、あたくしには判りますからね。

    「小島いと女憶え書き」(遠藤幸威『聞き書き 徳川慶喜残照』朝日新聞社、1982年(昭和57年))

小島氏は徳川慶喜晩年の侍女である。1893年(明治26年)生まれで、実際にお芳と会っていない。お芳に関する情報はすべて伝聞であり、確証的な内容になっていない。

『聞き書き 徳川慶喜残照』の出版は1982年(昭和57年)であるが、実は、1967年(昭和42年)発行の『歴史読本』10月号に「慶喜江戸崩れ」を書いており、小島いと氏から話を聞いていることがわかる。同一の文章ではないが、〈箪笥の中身〉〈玄米麺麭〉〈アルミの飯盒〉の話は「小島いと女憶え書き」の内容と同様のものである。なお、「慶喜江戸崩れ」の小島氏から聞いたと思われる内容にはお芳の話はない。

「法林妙市信女」がお芳である可能性について、後で少し触れる。

しかし、明治後新潟の方へ駆け落ちしたという内容は、比屋根かをる氏の『将軍東京へ帰る』では次のようになる。
 
 須賀には、慶喜が昔、寵愛した新門辰五郎の娘が、明治になって、能の囃子方の笛吹きの男と、駆け落ちしたのがわからなかった。一橋侯時代にこそ、新門辰五郎の「を組」を私兵がわりに必要としたが、静岡に隠遁し、明治八年に新門辰五郎が死ねば、慶喜は辰五郎の娘に目もくれなかった。 

               比屋根かをる『将軍東京へ帰る』新人物往来社、1975年(昭和50年)



『将軍東京へ帰る』は小説であるが、著者の比屋根氏は、徳川慶喜に詳しく、『徳川慶喜のすべて』(新人物往来社、1984年(昭和59年))に「徳川慶喜をめぐる女性たち」を書いている。お芳が能の囃子方の笛吹きの男性と駆け落ちしたことが、事実なのか創作であるのかは確かめようがない。

文中「須賀」とは、一色須賀のことである。天保9年(1838年)、旗本一色家に生まれ、幼少の頃一橋家の老女であった伯母の養女となり、後に徳川慶喜に仕えて老女となっている。(「小島いと女憶え書き」)。徳川慶喜の晩年まで仕え、昭和初年まで存命であり、慶喜邸で亡くなっている。この須賀が情報源の可能性の一つとして考えられる。須賀はお芳のことを知っているであろうから、お芳のことは須賀によって周囲に語られた可能性はある。


2.新門辰五郎の娘なのか?

お芳については、江戸町火消の頭取、新門辰五郎(新門の辰五郎)の娘で、徳川慶喜の側室であったということ以外はっきりとしない。その不確かな部分に興味をもって資料を探してみたが、参考となる資料があまりにも少なく、実像に迫ることが困難であることは既に述べてきた。このような状況なので、新門辰五郎とお芳の関係についても疑ってかかることにした。

新門辰五郎のことが書かれた戦前の刊行書には、お芳について触れてあるものは少ない。もっとも、「お芳」という名は見当たらず、次にあげる3冊も新門辰五郎の娘が徳川慶喜の側室になっていると書かれているだけである。A以外は情報源の特定はできない。Aも「大坂城から脱出したお芳」でとりあげたように、信頼を置けない箇所が多い。
 
A
慶喜卿無二の愛妾たる時の?客新門辰五郎の娘

「「新門辰五郎の娘」舊幕臣渡邊C太郎氏談」(市村残月『前将軍としての慶喜卿』春江堂書店、1913年(大正2年)所収)
 
B
原と同時に採用された人物に、侠雄新門辰五郎があつた。江戸いろは四十八組の火消の親方として、その侠名を謡はれ、有馬火消との闘は、彼の親分らしさを發揮したものであつた。娘を側近の女たらしめて居る關係もあり、京都の火消を一手に任して、慶喜を助けるところ多かつた。

                田中惣五郎『最後の将軍徳川慶喜』千倉書房、1939年(昭和14年)
 
C
慶喜と辰五郎の結付きの裏には、辰五郎の娘は慶喜の愛妾であるという関係が〔ママ〕った。

横山健堂『江戸の面影』(田村栄太郎『やくざの生活』生活史叢書4、雄山閣出版、1974年(昭和49年)第8版、抜粋、〔初版は1964年(昭和39年)〕)
※『江戸の面影」は未見で、刊行年も未詳。横山健堂は昭和18年に没している
 


新門辰五郎の家族関係を知るうえで参考になる資料が、辰五郎の碑文である。これは、大内青巒(おおうちせいらん)が新門辰五郎の子分達に頼まれて書いたもので、大内青巒の『人生の快楽』(文昌堂・明文館、1916年(大正5年))に収められている。書かれた年代はわからないが、青巒は辰五郎に直接会い、子分達からも話を聞いているので、ある程度正確な情報だと思われる。この碑文では、お芳のことは触れられていない。

碑文などよれば、新門辰五郎は、飾り職人中村金八の子として生まれ、輪王寺宮の家来で浅草寺伝法院の新門の門番をしていた町田仁右衛門の養子となっている。その後、仁右衛門の娘「錦」を妻とし、錦との間には3男2女をもうけているが、錦に先立たれ、長谷川姓の「縫」を後妻に迎えている。1875年(明治8年)9月に浅草馬道の自宅で亡くなり、下谷の西蓮寺(浄土宗)と善養寺(東叡山寛永寺の末寺・天台宗)とに分骨されたらしい。西蓮寺は盛雲寺(浄土宗)に合併して移転し、現在は豊島区西巣鴨に位置する。善養寺も移転し西巣鴨にある。

碑文の他に「新門略系」(『新門辰五郎游侠譚』)にも新門辰五郎の家族が書かれている。これには、3男2女が見られるが、母親の名は記されていない。直ちに碑文にある3男2女と同一人物だと断定はできないものの、人数は一致する。

 仁三郎(後の町田仁右衛門、安政5年(1858年)没、享年42歳)
 松次郎(現在の町田仁右衛門)
 元次郎(早世)
 さわ女(は組頭取忠兵衛に嫁ぐ、現在の忠兵衛の母)
 きく女(穴蔵大匠庄助に嫁ぐ)

松次郎には息子が二人おり、仁三郎は上野山内の蕎麦屋新清庵、金太郎は父祖の職業を相続となっている。娘の名は、「さわ」「きく」であり、他家に嫁いでいる。「よし」の本名であった可能性を完全に否定できないものの、可能性は低いと考える。

『新門辰五郎游侠譚』(萩原乙彦綴、生田芳春(歌川芳春)画)は、1879年(明治12年)発行の草双紙(絵が挿入された読み物)である。発行は新門辰五郎没後数年であり、萩原は浅草旅籠町、生田は浅草並木町が住所となっているので、情報の確度は高いと考える。ただし、法名が「コ廣院正養信學居士」となっており、碑文にある「コ廣院正譽眞覺居士」とは異なる。浄土宗の法名であれば碑文の方が正しいと思う。それにしても、この「新門略系」には、早世した元次郎も載っており、事情に詳しい者からの情報を集めたと考えられ、辰五郎と錦との子供をすべてあげているように思う。碑文と「新門略系」からは、お芳が辰五郎と錦との子供であるとはいえない。

では、後妻の縫が母親である可能性はどうなのだろうか。碑文によれば、縫は長谷川姓であり、慶応4年に亡くなっている。縫の年齢は不明だが、被官稲荷社の由緒によれば、安政元年(1854年)に妻錦が重病となり、辰五郎が山城の伏見稲荷に祈願したところ全快し、その御礼に伏見稲荷から勧請したのが安政2年(1855年)である。当然、辰五郎の妻となったのはこれ以降であるので、お芳が縫の産んだ子供であれば、徳川慶喜の側室になるには若すぎる。もっとも、縫に子供がいたという記録はない。

ここで、小島氏がお芳である可能性を指摘した「法林妙市信女」という法名の女性についても述べておく。この女性は、1910年(明治43年)に62歳で亡くなっていることから、出生は錦の生存中となる。「新門略系」には「いち」という名はないので、「法林妙市信女」は、錦と縫の子供だとは考えにくい。お芳が徳川慶喜の側室となったのが文久3年(1863年)、慶喜2度目の上洛のあたりとすれば、年齢的にはお芳と同一人物の可能性は否定できない。ただ、「いち」という名がお芳の本名で、町田家に帰って墓に入ったのだと仮定しても、父親も母親も不明であり、「法林妙市信女」がお芳だと証明できるものはない。むしろ、町田家に嫁いできた人物とした方が自然なのではないか。

錦、縫の他に新門辰五郎の妻として名が上がるのが「仲」である。未見であるが、『没後100年 徳川慶喜展』、2013年(平成25年)によれば、元離宮二条城事務所所蔵の「新門仲書簡」が残っており、これは静岡にあった辰五郎の妻、仲から京都の実家に宛てたもので、時期は明治初期とされている。仲との間に子供がいたかは不明だが、辰五郎は元治元年(1864年)上洛して徳川慶喜に仕え、京都に邸宅を構えている。このときに仲と縁ができたのかもしれない。年代的にはお芳の母親とは考えられない。

「新門辰五郎の娘なのか?」というテーマでこの項を書いてきたが、小島いと氏が「京、大坂時代のお局お芳さんという新門ノ辰五郎親分の娘」(「小島いと女憶え書き」)と言っていることに信頼を置いている自分がいた。周知の事実であるから証明する必要はないのだという思いもあった。だが、親子関係を示す資料が見当たらないことに対しての焦りもあり、実の親子ではないのかもしれないという思いを強くさせた。


大内青巒が新門辰五郎の子分達に依頼された碑文には二人の妻のことや嫡男の早世や孫が後継したことなど、家族のことにも少し触れているが、徳川慶喜の側室になった娘のことには全く触れていない。これでは何か特別な理由があると疑いたくなる。この碑文はいつ書かれたのであろうか。慶喜は明治2年謹慎を解かれ、明治5年従四位、明治13年正二位、明治21年には従一位になっている。明治31年には明治天皇に謁見、明治35年公爵となっている。身分がある慶喜に対して憚ったのであろうか。

お芳は、新門辰五郎の実子であるか証明ができず、母も不明である。妾の子 養女である可能性も否定はできない。


3.「お芳」という名前は本当か?

お芳が新門辰五郎の実子であるか不明ということになってくると、名前は大丈夫なのだろうかと疑いたくもなる。

通説では、徳川慶喜の側室となった、新門辰五郎の娘の名は「お芳」とされている。この「通説」とか、「〜といわれている」「〜とされている」は、一度は疑ってかかる必要性があると感じるようになってきた。実は、これまで使ってきたお芳という名前たが、これは、彼女を伝聞情報で知っている小島いと氏の語りの中に出できたものであり、「小島いと女憶え書き」以外に名前の根拠となるものを見出だしてはいない。

まず、腑に落ちにないことをひとつ解決しておく必要がある。「小島いと女憶え書き」を収めた『聞き書き 徳川慶喜残照』は、1982年(昭和57年)に出版されているが、これ以前に新門辰五郎の娘の名を「お芳・およし」としているものが3作品ある。年代順に並べると次のようになる。

1966年(昭和41年)司馬遼太郎「最後の将軍」『別冊文藝春秋』連載
                    (※単行本の刊行は1967年)
1975年(昭和50年)遠藤幸威「新門の辰五郎」『人物探訪・日本の歴史10巻』
1979年(昭和54年)八尋舜右「葵の纏」『歴史読本』1979年4月号

当初私は、「小島いと女憶え書き」に依らず、「お芳」という名前は当然のように知られているものだと思っていた。したがって、「最後の将軍」と『聞き書き 徳川慶喜残照』の作品が書かれた年代に16年の開きがあっても疑問には思わなかった。しかし、「最後の将軍」以前に書かれた書籍にお芳の名を見つけることができなかったことについては、不思議でならなかった。もちろん、私が見つけることができないだけかもしれないので、断定はできないのだが。

3作品の典拠は何であろうか。小説であっても典拠を示してあれば、確かめる術があるが、共に典拠を示していない。したがって、お芳という名前が周知の事実でないかぎり、根拠がないものか、創作とみなされても仕方がない。司馬氏の「最後の将軍」以来、活字になった文章には、名前を「お芳」とするものがほとんどなので、ひょっとして司馬遼太郎氏が「お芳」の名付け親(創作)で、小島氏も実はお芳の名前をはっきりと覚えていないので、それに従ったのではなどと想像するようになった。それでも何かないかと手掛かりを探していると、八尋舜右氏と遠藤幸威氏に共通する情報源が小島氏であることがわかってきた。

「最後の将軍」連載の9年後に出版の『人物探訪・日本の歴史10巻』(暁教育図)に収められている「新門の辰五郎」の著者は遠藤幸威氏である。遠藤氏は『聞き書き 徳川慶喜残照』の「あとがき」に、朝日新聞社の八尋舜右の紹介で小島氏と出会ったと書いている。その八尋氏は「慶喜残暦」(『慶喜残暦』中公文庫、1997年(平成9年))の中で10年以上も前に70歳を超えていた小島いと氏と会って話を聞いたとしている。「慶喜残暦」の原題は「葵の纏」で、『歴史読本』1979年(昭和54年)4月号所収のものである。したがって、八尋氏が聞き取りをした時期は、1893年(明治26年)生まれの小島氏が70歳を超える1963年(昭和38年)から1969年(昭和44年)の間となる。

ちょうどこの間の『歴史読本』1967年(昭和42年)10月号に遠藤氏は、「慶喜江戸崩れ」を書いているが、これには小島いと氏からの聞き書きが載っている。つまり、1963年〜1967年(昭和38年〜昭和42年)の間に、人物往来社の八尋氏が遠藤氏に小島氏を引き合わせたことになる。それから、10年以上経過して、八尋氏の「葵の纏」(1979年)、遠藤氏の『聞き書き 徳川慶喜残照』(1982年)が出版されている。なお、70年ぶりに小島氏と再会した遠藤氏の母親が聞き取りに同席したことや、半年にわたる聞き取りの後、1980年(昭和55年)、小島氏が88歳で亡くなったことなどが『聞き書き 徳川慶喜残照』から伺えるので、少なくとも「慶喜江戸崩れ」と『聞き書き 徳川慶喜残照』の執筆にあたって聞き取りを行っていることがわかる。

このようにしてみると、「新門の辰五郎」や「葵の纏」におけるお芳の名前の情報は、小島氏からの聞き取りによって得られた可能性があると考えてもよい。しかし、司馬氏に関しては全く見当がつかない。「最後の将軍」の連載時期から考えると、八尋氏や遠藤氏が小島氏から聞き取りをしたのと同時期であるので、司馬氏と他の3人との接点があるのではないかと思いたいが、わからない。

直接お芳を知っているわけではないが、徳川慶喜に仕えていた小島氏の聞き書きで、新門の辰五郎娘の名前をお芳としていることから、ほぼ間違いないだろうと思いたいのだが、これに対して全く別の名前を用いているのが、勝海舟研究者の勝部真長氏である。著書「勝海舟伝」(『氷川清話』角川文庫、1972年(昭和47年))の中で、徳川慶喜の側室であった新門辰五郎の娘を「お咲」としている。ただし、こちらも典拠が示されていないので、確認のしようがない。

また、「勝海舟伝」(勝部真長)の後に出版された比屋根かをる氏の『将軍東京へ帰る』(新人物往来社、1975年(昭和50年))では、「新門辰五郎の娘」とされるのみで、名前は書かれていない。ところが、比屋根氏は「徳川慶喜をめぐる女性たち」(『徳川慶喜のすべて』新人物往来社、1984年(昭和59年)所収)では、「新門辰五郎の娘(お芳といったらしい)」として、断定を避けながらも名前を載せているのが気になる。『将軍東京へ帰る』と「徳川慶喜をめぐる女性たち」の間に『聞き書き 徳川慶喜残照』が出版されていることと関係があるのだろうか。わかっているのは、「徳川慶喜をめぐる女性たち」を書く時点で、比屋根氏には名前をお芳と断定する材料がなかったということだ。

現段階でこれ以上の考察は困難である。小島氏の証言以外に名前をお芳とする資料が見つからないものの、今後、「お咲」である根拠が見つからないかぎり、小島いと氏の証言に従い名前は「お芳」である可能性が高い。

網羅しているとは思わないが、お芳の名、又はお芳と思われる女性が少しでも登場する書籍を次の表にまとめたので参考にしていただきたい。

 
新門辰五郎の娘の名前 出典
 
著者
 
発行年
 
新門辰五郎の娘

 
「新門辰五郎の娘」 
市村残月『前将軍としての慶喜卿』春
江堂書店
舊幕臣渡邊C太郎

 
1913年
大正2年

 
新門辰五郎の娘
 
『最後の将軍徳川慶喜』千倉書房
 
田中惣五郎
 
1939年
昭和14年
新門辰五郎の娘
 
『やくざの生活』生活史叢書4、雄山
閣出版
田村栄太郎
 
1964年
昭和39年
お芳
 
「最後の将軍」
『別冊文藝春秋』連載
司馬遼太郎
 
1966年
昭和41年
記載無し
 
「慶喜江戸崩れ」
『歴史読本』昭和42年10月号
遠藤幸威
 
1967年
昭和42年
新門辰五郎の娘
 
『日本侠客100選』秋田書店
 
今川徳三
 
1971年
昭和46年
お咲
 
「勝海舟伝」
『氷川清話』角川文庫
勝部真長
 
1972年
昭和47年
新門辰五郎の娘
 
『将軍東京へ帰る』新人物往来社
 
比屋根かをる
 
1975年
昭和50年
お芳
 
「新門の辰五郎」
『人物探訪・日本の歴史10巻』暁教育図
遠藤幸威
 
1975年
昭和50年
およし
 
「葵の纏」
『歴史読本』1979年4月号
八尋舜右
 
1979年
昭和54年
新門辰五郎の娘
 
「火事といなせは江戸の華 新門辰五郎」
『歴史読本』昭和55年新年号
中田耕治
 
1980年
昭和55年
お芳
 
「小島いと女憶え書き」
『聞き書き 徳川慶喜残照』朝日新聞社
遠藤幸威
 
1982年
昭和57年
お芳
 
「晩年の慶喜前将軍回顧」
『聞き書き 徳川慶喜残照』朝日新聞社
遠藤幸威
 
1982年
昭和57年
お芳といったらしい
 
「徳川慶喜をめぐる女性たち」
『徳川慶喜のすべて』新人物往来社
比屋根かをる
 
1984年
昭和59年
新門辰五郎の娘
 
『晩年の徳川慶喜』新人物往来社
(原題『将軍東京へ帰る』)
比屋根かをる
 
1997年
平成9年
およし
 
 
「慶喜残暦」
『慶喜残暦』中公文庫
(原題「葵の纏」)
八尋舜右
 
 
1997年
平成9年
 

 
『徳川慶喜静岡の30年』静岡新聞社
 
前林孝一良
 
1997年
平成9年
お芳
芳野
『徳川慶喜』三笠書房
 
鈴村進
 
1997年
平成9年
お芳
 
「慶喜を支えた多彩な女性たち」
『歴史と旅』1998年3月号
萩尾農
 
1998年
平成10年
お芳

 
「お芳 大坂城脱出に同行した新門辰五郎の娘」
『歴史読本』1998年10月号

 
永岡慶之助

 
1998年
平成10年
 
お芳
 
『謎とき徳川慶喜』草思社
 
河合重子
 
2007年
平成19年


4.「お芳」の情報を提供したのは誰?

司馬遼太郎氏の「最後の将軍」は、1966年(昭和41年)、『別冊文藝春秋』に3回(6月、9月、12月)にわたって連載され、1967年に文藝春秋から単行本が、1974年(昭和49年)には文庫本(文春文庫)が出版されている。前項で述べたようにお芳に関する文章の典拠は示されていない。

司馬氏はどこから情報を集めたのであろうか。「最後の将軍」のなかのお芳が司馬氏の創作であれば問題はない。しかし、そうでない可能性を見つけたからには、情報源を探し出し、白黒はっきりさせる必要がある。

私はある人物が気になっていた。お芳というよりも、徳川慶喜に関する情報を豊富にもっている人物である。それは、徳川慶喜研究家の河合重子氏である。河合氏は徳川慶喜関係者や貴重な慶喜関係資料と接している。遠藤幸威氏は河合氏により、一色須賀の甥一色於菟四郎氏を紹介されているので、河合氏は須賀からの貴重な情報に接しているのではないかと思う。須賀は幕府時代より慶喜に仕えており、慶喜に関する情報の信頼度は高いといえる。

この河合氏から司馬氏がお芳に関する情報を得ていたのではと考えていたのであるが、そのようなことはなかった。司馬氏の『街道をゆく一』(1971年)の「第三章甲州街道」にその答えがある。河合氏の友人である比屋根かをる氏が初めて司馬氏を訪ねたとき、既に『最後の将軍』は書き上げられており、司馬氏が河合氏を知ったのは、さらにその後のことだとある。したがって、『最後の将軍』にはこの二人から得られた情報は入っていないことになる。

河合氏は、『謎とき徳川慶喜』(草思社、2007年(平成19年))を執筆しているが、お芳について詳しく書いていない。お芳に関する詳しい情報は持っていなかったのかもしれない。

そうなると、やはり小島いと氏が情報提供の重要人物となる。情報量が少ないお芳であるだけに、1982年(昭和57年)、「小島いと女憶え書き」を収録した『聞き書き 徳川慶喜残照』が発行されて以降、憶え書きを典拠として書かれた文章が増えてきたように思う。それだけ、小島氏の証言は信頼を得ていると言える。しかし、お芳に関しての情報を確実なものにする資料を見つけ出すことができない。

この小島氏と、八尋舜右氏、遠藤幸威氏の関係は前項で示したが、司馬遼太郎氏とのつながりがわからない。八尋氏や遠藤氏が最初に小島氏と会ったと考えられるのは、1963年〜1967年(昭和38年〜昭和42年)であり、司馬氏が「最後の将軍」を『別冊文藝春秋』に連載したのは、1966年(昭和41年)である。この3人、何か関係があるのではと当たりを付けて調べていくと、すぐに3人の作品にお芳について共通する部分がある事に気が付いた。

司馬遼太郎氏の「最後の将軍」には、徳川慶喜が文久3年(1863年)の2度目の上洛にあたり、一橋家用人であった黒川嘉兵衛に側室を求めたという、お芳が慶喜の側室になった経緯が書かれている。「最後の将軍」を読んだときに、このような情報は表に出ることはないだろうから、これは司馬氏の作品上の創作と思っていた。しかし、同様の経緯が他の書籍にも書かれていることを知って驚いた。それは、遠藤幸威氏の「新門の辰五郎」と八尋舜右氏の「葵の纏」である。3作品ともに出典が記されていないので、創作の可能性は否定できないが、仮に創作だとしたら、先行する司馬氏と同じ内容を後の二者が書くとは思えない。

真偽はともかく、そのような経緯があったという話が存在していたとしたら、ごく一部の者しか知り得ない情報である。出所が同じである可能性は高い。証拠がないので断定はできないが、八尋氏と遠藤氏が小島氏と最初に会ったと思われる時期と「最後の将軍」が書かれた時期を考えると、この3者は小島氏又はその周辺からお芳の名前や慶喜の側室となった経緯に関わる情報を得ていたのではないか。


5.お芳のプロフィール

幕末から明治初頭に近い時代の史料からお芳を見つけ出すのは困難である。戦前に刊行された文献の中には、新門辰五郎の徳川慶喜の側室となった娘がいることが書かれているものがあるが、お芳という名は見当たらない。お芳に関する情報は、証言か伝聞に頼ることになるが、これを探すのも至難の業である。

私がお芳を調べるにあたって情報を期待したのが、村山鎮、一色須賀、小島いとの3人であった。村山鎮は小姓・家従として徳川慶喜に仕え、家従を解任されてからも慶喜邸へ足繁く通い、慶喜と直接会っている数少ないうちの一人である。一色須賀は、幕府時代より慶喜晩年まで仕えている。しかし、この二人が遺した資料にはおそらくお芳に関する情報はないと思う。小島いとは明治生まれで、慶喜晩年の侍女である。直接お芳と関わっていないが、須賀などから情報を得ていた可能性はある。現在のお芳に関する記事の多くはこの須賀の証言をもとにしていると思われるが、伝聞情報であるという認識をもつ必要がある。

このような不確かな情報の証拠を固めようとしたのだが、「どうしたもんじゃろの〜」という結果になった。今わかる範囲でお芳の紹介文を書くのであれば、次のようになる。
 

【お芳】徳川慶喜の側室(生没年不詳)

江戸町火消の頭取、新門辰五郎の娘とされるが、実子であるかは不明。母は特定できない。名は「お芳」とされるが確証はない。

徳川慶喜の側室となった経緯については、文久3年の2度目の上洛にあたり、一橋家用人であった黒川嘉兵衛に側室を求めたことによると書かれたものがあるが、証明ができない。

慶応4年、鳥羽・伏見の敗戦後、大坂城を脱出し、慶喜と共に開陽艦で江戸に帰ったと思われる。会津藩主松平容保が開陽艦内で見つけた慶喜の側室がお芳とされるが、確証はない。このとき、徳川慶喜の側室の乗艦をめぐって騒動が起こったと書かれたものが多く見られるが、諸説あって定かでない。

江戸に帰って以後の消息は不明。

新潟に駆け落ちしたという話が伝わるが確証はない。

没年、墓地不明


《あとがき》

確かな資料がないというのがこれほどしんどいことだとは思いませんでした。というのが正直な感想です。自供も物証もなく、関係者からの聞き込みもできないまま、数少ない状況証拠と噂だけで犯人を捜し出すというような状況でした。

お芳については、確かなことがほとんどないということを証明したような結果となりました。今後、あまり研究する人もほとんどいないと思いますが、参考になれば嬉しいです。

 

【三河武士がゆく】
徳川慶喜の吉田城脱出と吉田藩