■《概要》『慶応3年、小野友五郎の上坂と薩摩藩邸焼き討ちの報』2023年4月15日

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はじめに

学生の頃、徳川慶喜の大坂城脱出について調べていた時がある。鳥羽・伏見の戦いについて、そのきっかけを作ったのが大目付滝川播磨守であるという印象を受けたのを記憶している。滝川が兵隊と共に蒸気船で大坂城にやってきて、江戸薩摩藩邸焼き討ちの報をもたらし、諸士を煽動したことで開戦に突き進んでいったというように感じ取った。この頃、薩摩藩邸焼き討ちの報のことで、少し違和感をおぼえたことがある。引っ掛かりは情報が大坂にもたらされた日が史料によって異なっていた点にある。『徳川慶喜公伝』は12月28日とし、『復古記』は慶応3年12月晦日(30日)としていたのだ。もっとも、『復古記』というより所収史料の「春嶽私記」にそのようにあった。『徳川慶喜公伝』には滝川と並んで勘定奉行並小野内膳正の名もあったのだが、名前を微かに記憶しただけであった。

そして、30年ほど過ぎた頃、図書館の中公新書の棚に『咸臨丸航海長小野友五郎の生涯』の背表紙を見たとき、過去に引っ掛かった記憶が甦ったかどうかわからないが、手に取ってパラパラと中を見た。さらに数年前、インターネットで小野友五郎の記事をいくつか見たときに湧いてきた新たなモヤモヤをはっきりと感じた。これが本稿を書くきっかけとなった。モヤモヤのもとは鳥羽・伏見の戦い後、小野友五郎に対して行なわれた処罰にあった。

1.死一等可被宥

(1)小野友五郎
小野友五郎(廣(ひろ)胖(とき))は、文化14年(1817)、常陸国笠間藩士小守庫七の子として生まれ、同藩士小野柳五郎の養子となった。友五郎は算術に優れ、幕府天文方出役に起用され、長崎海軍伝習一期生として西洋数学や測量技術を修得してレベルの高さを認められるまでになる。万延元年には咸臨丸に乗り組み渡米し、翌年には幕臣に登用され、江戸湾防衛計画、小笠原の測量、製鉄所の建設、長州征伐での兵站などを担当し、技術官僚として頭角を現しただけでなく実務的な能力も発揮して幕府再建のために力を注いだ。慶応3年1月には、軍艦や武器などを購入する為、再度渡米をしている。帰国後の10月23日、大政奉還により政局が動揺するなかで勘定奉行並(勝手方)に任命され、たたき上げの技術系官僚から幕府中枢へと進んでいくのだが、翌慶応4年1月の鳥羽・伏見の戦いが彼の運命を大きく変えることになる。

(2)処罰
慶応4年4月11日の開城をひかえた4月7日の夜、徳川家若年寄平岡道弘(丹波守)宅において、鳥羽・伏見の戦いの責任者とみなされた徳川家家臣(旧幕臣)へ、勅諚による処罰が申し渡された。開戦時、勘定奉行並として兵站を担った小野友五郎(内膳正)は、重罪でありながら格別の寛典によって死罪をゆるされ、永御預・揚座敷となった。

(3)「丁卯日記」に見る薩摩藩邸焼き討ちの報
(4)『徳川慶喜公伝』に見る薩摩藩邸焼き討ちの報

2.『咸臨丸航海長小野友五郎の生涯』と史料

(1)『咸臨丸航海長小野友五郎の生涯』の参照文献

滝川具挙と小野友五郎が薩摩藩邸焼き討ちの報を大坂にもたらしたことについて、藤井哲博氏は『咸臨丸航海長小野友五郎の生涯』(中公新書、昭和60年[1985]、以後『小野友五郎の生涯』と略す)のなかで、「二十五日朝の薩摩藩邸焼打ちのことを二十三日に品川を出帆した二人が知るはずがない」(126頁)としてこれを明確に否定している。

滝川具挙もそうだが、小野友五郎が戦後処理で重罪とされた原因について抱いていたイメージが、この『小野友五郎の生涯』によって崩れた。薩摩藩邸焼き討ちという軍事行動が、薩摩藩へ開戦の口実を与えたのは明白であり、江戸の幕閣も薩摩と戦う覚悟を決めたのである。そして、滝川具挙や小野友五郎は、宣戦布告の決定打を打つために、兵隊を引き連れて大坂に乗り込んで来た強硬論者、主戦論者ではなかったのか。

この疑問を解く第一歩は、12月23日品川出帆の事実を確認することである。しかし、『小野友五郎の生涯』には、滝川と小野の上坂にあたっての史料が示されていないので、拠り所となるのは同書巻末にある「主なる参照文献」である。直接本件と関係がない史料もあるが、今後の参考にしていただけたらと思う。

(2)小野友五郎の履歴書
(3)小野友五郎の日記
(4)「小野友五郎君国事鞅掌の事歴」

3.小野友五郎の上坂

(1)大坂出張の理由

小野友五郎の上坂理由については、はっきりとしない。また、慶応3年12月7日の兵庫開港・大坂開市や同時期に発生した王政復古政変が絡んでくるので上坂までの経緯は複雑である。

(2)上坂延期
(3)米国人扶助金問題に関わる
(4)上坂

出帆延期となっていた小野友五郎であったが、いよいよ江戸を離れる時が来た。「履歴書」によれば、乗船する長鯨丸の出帆は12月23日である。しかし、「小野日記」23日条には出帆に関する記述がなく・・・

(5)天保山沖の軍艦(「村摂記」)

4.滝川播磨守の上坂

小野友五郎が焼き討ちの報を大坂にもたらしていないことは明確になったが、滝川についても同様の事がいえるのか調べてみた。

5.薩摩藩邸焼き討ちの報は、いつもたらされたのか

(1)12月晦日ではない
(2)黒川嘉兵衛の歎願書
(3)江戸一事相廻ル
(4)西周助の手記
(5)「二ツの宝船」

おわりに(※全文)

小野友五郎は、鳥羽・伏見の戦いの後、紀州から船で江戸に引揚げたのだが、間もなく御役御免・寄合を命じられている。その後、差控、逼塞を経て、江戸開城直前の4月7日夜、勅諚により死一等をゆるされ永御預の格揚座敷を申し渡されることになるのだが、このとき、戦いの重だった責任者のうち、松平正質(開戦時総督、老中格、上総大多喜藩主)は在所で謹慎しており、塚原昌義(開戦時副総督、若年寄並兼外国総奉行)は逃亡中であった。竹中重固(開戦時陸軍の総指揮官、若年寄並兼陸軍奉行)は、このあと彰義隊を支援して上野戦争に参戦し、箱館まで転戦しているのだが、この時の動向はよくわからない。結局、徳川家家臣を代表して小野友五郎が最も重い責任を負うこととなった。友五郎は従容として刑に服し、7月には宗家を継承した徳川家達に与えられた駿府へ移送され、明治2年ころまで謹慎したらしい。

本稿では小野友五郎が江戸薩摩藩邸焼き討ちを大坂にもたらしていないことを明かにしてきたが、解明しなければならない宿題が残されている。ひとつは、薩摩藩邸焼き討ちの報が小野友五郎によって大坂にもたらされたという、誤った情報がどのようにして作られたのかという問題である。

もうひとつは、小野友五郎が代表として責めを負うことになった理由である。小野友五郎が強硬論者・主戦論者であったとしても、友五郎のポジションで戦争を主導するだけの権力があったとは思えない。したがって、友五郎の戦争責任と処罰の重さが釣り合わないのだ。

もっとも、鳥羽・伏見の戦いに旧幕府側として参戦した藩のなかには、降伏、恭順の過程で命と引き換えに藩を救った重役もいる。臣下が主のために死ぬことは当時の武士社会では当然なのかも知れない。徳川家においても、徳川慶喜や組織が負うべき責任を家臣が背負うことで降伏、恭順の交渉をスムーズに進めようとしていたと思う。だとしても、なぜ小野友五郎なのか。このからくりを明らかにできないかと思っている。

これらの問題を解決する手がかりの一つは、旧幕府軍の進軍が決定された会議にある。しかし、この重要な部分が明らかでないことは多くの方の知るところでもあり、一番の責任者である徳川慶喜をはじめ、当事者たちは明確な証言を残さずにこの世を去ってしまった。大坂城で何があったのか。真実は闇の中のまま、150年以上過ぎてしまった。しかし、このままにはしたくないという思いがある。


小野友五郎の戊辰戦争


 
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