戊辰戦争拾遺
小野友五郎の戊辰戦争
 

 

■慶応3年12月、小野友五郎の上坂ヘの疑問(1) 2020/07/15
■慶応3年12月、小野友五郎の上坂ヘの疑問(2)2020/10/09
■小野友五郎と米国人扶助金問題 2022年5月29日
■小野友五郎日記 2022年9月24日
■《概要》『慶応3年、小野友五郎の上坂と薩摩藩邸焼き討ちの報』2023年4月15日

戊辰戦争拾遺
《発行一覧》
【三河武士がゆく】

 
慶応3年12月、小野友五郎の上坂ヘの疑問(1) 2020/07/15


笠間藩(牧野家)出身の幕臣、小野友五郎が滝川播磨守と大坂に来て、江戸薩摩藩邸焼き討ちを報じたことは、藤井哲博『咸臨丸航海長小野友五郎の生涯』(中公新書、以後『小野友五郎の生涯』と略す)のなかで明確に否定されています。刊行は昭和60年(1985)ですから、もう随分前になります。実は私がこれを知ったのは数年前のことです。

現在、愛知県の東端、「東三河」の公立図書館では所蔵が確認できません。公共図書館で読むには、豊田市か隣県の浜松市まで行く必要があります。ちなみに私が住む豊橋市の愛知大学の図書館にはあります。ネット古書店では、在庫が見つかってもけっこうな値段で売られています。ネットオークションでもたまに見かけるくらいです。

問題の箇所ですが、「勘定奉行並・小野内膳正広胖となった友五郎は、大目付・滝川播磨守具挙とともに、二十三日、品川から長鯨丸に乗り大坂に向け出帆した」(126頁)とあります。薩摩藩邸焼き討ちが12月25日ですので、23日に江戸を離れた小野と滝川が薩邸焼き討ちの情報を大坂にもたらすことができないことがわかります。

しかし、この記述には論拠が示されていませんので、23日の品川出帆や長鯨丸に乗船した事の確認ができないのです。また、同書に、薩摩藩邸焼き討ちの報は、27日出帆した外国郵便船に託した御用状によって30日に大坂にもたらされことは、木村喜毅の日記に明らかだと書かれていますが、この件もちゃんと調べてみる必要があると感じました。
巻末に「主たる参照文献」が掲載されていますので、資料にあたりをつけながら調べてみることにしました。資料探しの最初の段階で、佐藤泰史『あの世からの徳川慶喜の反論』(創成維新史研究会、平成25年[2013])を参考にさせていただきました。

小野友五郎の戊辰戦争
戊辰戦争拾遺
 
慶応3年12月、小野友五郎の上坂ヘの疑問(2)2020/10/09 

『小野友五郎の生涯』では、12月23日の出帆とされていますが、出典が不明でした。刊本(小説や雑誌も含めて)のなかで、小野友五郎の上坂に関してどのように書かれているのか調べますと、次のようになりました。自力では限界がありますので、国立国会図書館デジタルコレクションや茨城県立図書館レファレンスサービスを利用させていただきました。2018年4月頃のデータです。


・1898年 杉本勝二郎『明治忠孝節義伝 一名東洋立志編 』第3輯
 記述なし

・1911年 南梁居士編『修養教訓 偉人豪傑言行録』
 記述なし

・1918年 渋沢栄一『徳川慶喜公伝』
 12月28日、大目付滝川播磨守(具挙)と共に薩摩藩邸焼き討ちの報をもたらす。

・1920年 「贈正五位小野友五郎事蹟」(『大正七年茨城県贈位者事蹟』1920年) 12月23日大阪に赴く

・1972年 茨城県高等学校教育研究会編『会報と研究集録』第1号
 記述なし

・1985年 藤井哲博『咸臨丸航海長小野友五郎の生涯』
 12月23日出帆、長鯨丸乗船

・1992年 小野友五郎ほか『小野友五郎君国事鞅掌の事歴』
 記述なし

・1993年 笠間市史編さん委員会編『笠間市史』上巻・下巻
 記述なし

・2004年 小室昭『輝いた笠間藩士たち ふるさとの歴史2』
 12月29日着任

・2005年 『常陽藝文 2005年10月1日号』
 記述なし

・2011年 大野芳『天皇の暗号 明治維新 140年の玉手箱』学研パブリック
 12月28日大坂着、長鯨丸、大目付瀧川具挙と共に

・2011年 鳴海風『怒涛逆巻くも 幕末の数学者小野友五郎』下
 12月23日出帆、品川から長鯨丸、大目付滝川播磨守具挙と共に、12月28日午前大坂天保山沖着

・2017年 杉田捷機監修『小野友五郎物語』
 記述なし

・2017年 「咸臨丸航海長小野友五郎」(『世界の中の茨城』茨城県教育委員会)
 記述なし


小野友五郎の戊辰戦争
戊辰戦争拾遺

 
■小野友五郎と米国人扶助金問題 2022年5月29日

・2022年9月16日 一部改訂


勘定奉行並であった小野友五郎(内膳正・小野廣胖)が、慶応3年12月の上坂直前まで関わっていた案件に米国人扶助金問題がある。

この事案については、「米国往復書翰」(アジア歴史資料センターデジタルアーカイブ)で確認ができるが、「横浜騒擾御国人等米国ロベルトソン等ヲ殴打一件」(外務省外交史料館所蔵「続通信全覧」、アジア歴史資料センターデジタルアーカイブ)にまとめて収録しているので、こちらを参考にする。以後、「殴打一件」と略す。なお、同様の史料が、『横浜市史』資料編にも収められているようである。

第二次東禅寺事件の賠償金の交渉が進まないうちに発生した生麦事件の解決ももつれるなかで、文久3年2月、幕府に武力的圧力をかけようと、イギリス極東艦隊の主力が横浜沖に集結したことがある。幕府も一戦を辞さない姿勢を見せ、混乱状態となった横浜で、翌3月、事件がおきる。商品の代金や工作賃銀の支払いをめぐり、米国商人ロベルトソンらと日本人との間に暴力事件が発生したのである。自国人が一方的な被害者という認識の駐日アメリカ弁理公使ロベルトヱッチプライン(ロバート・H・プリュイン)は幕府に対して賠償金を求めた。幕府は謂れのない要求だと、当初これを拒絶したが、被害者の扶助金の支払いに応じることとなった。しかし、公使の要求額2万ドルに対して、幕府の提示額は1,000ドルというように、双方が主張する金額に大きな隔たりがあり、折り合いが付かないまま、月日が流れたのである。2万ドルの要求額は、公使の独断であり、4月プラインの帰国(慶応元年4月)後、代理公使ア・ル・セ・ホルトメン(ポルトマン、ポルトメン、アントンL・C・ポートマン)により半減されて1万ドルになり、幕府の提示額も4,000ドルまで増えて少しは歩み寄りが見られた。その後、慶応2年、新弁理公使アル・ビ・ワン・ワルケンボルグ(ロバート・B・ファン・ファルケンブルグ)着任後も平行線のままであったが、慶応3年8月頃には幕府の態度が変化してくる。

外国惣奉行・外国奉行の、「米国商人ロベルトソン扶助金の儀に付申上候書付」(「殴打一件」慶応3年8月22日条、「卯八月」・日付なし)には、老中より直接、公使へ書簡を遣わして1万ドルからの減額を求め、4,000ドルの扶助金の額に1,000ドルを加えて5,000ドルを提示し、公使がこれを承服した時には、直ちに現金で支払うか、公使の要求通りに1万ドルを支払うのであれば、小野友五郎が米国政府へ預け置いた資金の内から支払う方法が示され、軟化の姿勢が見られる。

この年の5月に兵庫開港が勅許となり、6月には、12月7日(1868年1月1日)の兵庫開港、大坂開市が布告され、瑣末な事であっても外国との関係が悪化するような要因は取り除いておきたいという外交責任者としての判断があったのであろう。

小野友五郎が米国政府へ預け置いた資金について少し触れる。友五郎は幕命により、慶応3年1月から6月にかけて渡米しているが、その役目は軍艦や武器等の購入と、幕府が前公使プラインの仲介で発注した軍艦の代金を、プラインから取り戻すというものであった。プラインは軍艦の注文を米国政府を通さずに個人的に請けており、契約を履行できずにいた。目的を果たした友五郎は、取り戻した代金を軍艦や武器などの購入の為に米国政府へ預け置いてきたのである。後に明治政府海軍の手に渡った甲鉄艦(鋼鉄艦)、ストーンウォール号(後の東艦)は、この時購入されている。一連の詳しい経緯は、藤井哲博氏の『咸臨丸航海長小野友五郎の生涯』(中公新書、昭和60年[1985])をお読みいただきたい。

8月に外国方の上申があったものの、しばらくの間、大きな動きはなかったのであるが、10月14日の大政奉還の上表以後、一気に事態が動いたように思う。江戸城に徳川慶喜の大政奉還の意志が伝わったのが15日前後、勅許の報がもたらされたのが20日・21日頃である。事態の確認のため急ぎ上京する老中・若年寄などに伴い、22日に大目付・目付、遊撃隊・歩兵などにも上京命令が下りた。

「殴打一件」慶応3年10月22日条には、次の3つの史料が見られる。

はじめに、10月22日付、老中兼外国事務総裁であった小笠原壱岐守差出の、米国公使ワルケンボルグ宛書簡である。


亜米利加合衆国ミニストルレシデント
ヱキセルレンシー
  アルビワンワルケンボルグへ

以書簡申進候貴国商人ロベルトソン扶助金の儀に付、是迄種々差縺居候次第者閣下にも委細御承知の儀に可有之、畢竟商人同士の逋債より事起りし儀にて、ロベルトソン踈忽の取扱を受け、夫が為め入費不少趣に付、扶助金可差遣積の処、貴国先任公使ヱキセルレンシープラインより弐万弗可差出旨被申立、其後ポルトメンヱスクワイル代任公使被相勤候節員数の儀ヱキセルレンシープライン被定候儀にて、弐万弗は不相当に付、壱万弗差遣し候はゝ可取扱旨被申聞候得共、素々扶助金の儀に付、右にては過当の儀と被存候に付、四千弗可差遣旨外国奉行を以て同氏へ申入候得共、承引無之遂に閣下を煩し候次第に至りぬ、去なヶら瑣末の事より葛藤を生し、両国の親睦に差響き候ては不容易儀に付、猶勘弁を加へ扶助金として五千弗可差遣間閣下公正の断案を以御処置有之度、此段偏に所望に候、右申進度如此候拝具謹言

  慶応三年丁卯十月廿二日
                       小笠原壱岐守 花押


これは、8月の外国方の上申を受けて、老中が直接公使に扶助金の減額を求めた内容となっている。この書簡がどのように取り扱われたのか不明であるが、次の二つの史料を見るとようやく幕府としての支払額が公使の要求額である1万ドルに決着したことがわかる。

2番目の史料は、内容的には8月の外国方の上申をうけた老中が、5,000ドルに上乗せして交渉するか、公使の要求通り1万ドルを支払うかの評議を勘定方に命じた回答(評議書)と思われる。勘定方としては、事件よりすでに5ヶ年に及び、年月も経っており、最初2万ドルの要求額であったものが1万ドルに減額されており、これ以上の減額はのぞめないだろうから、公使の要求通り1万ドルを支払い、米国政府に預け置いた金額のから扶助金に宛てることを回答している。


書面并別紙共取調候処、米国商人ロヘルトソン扶助金被遣方申立の趣にては最早年数相立居、一体商人同士の逋債より事起り、御国人より打擲受候
趣にて格別の訳を以扶助金として弐千弗可差遣旨及談判候得共、彼よりは最初弐万弗の積申聞候処、ホルトメン代任公使に相成候節、弐万弗は不相当に候間壱万弗被遣候はゝ取扱可申旨申立、其後猶減方の儀度々引合を重、遂に四千弗?可差遣旨申諭候得共、何分承引不致、其後ワルケンボルグ渡来の報告有之趣にてホルトメン一存にては難取計申聞、談判纏不申、同人渡来後も懇談いたし候得共、更に承引不致候間四千弗へ千弗増加五千弗可被遣?、又は壱万弗被遣候儀に候はゝ、此程小野友五郎外壱人米国へ被差遣候砌、同国政府へ預置候金額の内を以御差向相成候はゝ、別段御出方不相成候間、両様の内相伺候趣勘弁仕候処、右扶助金一條に付差縺候事柄も可有之候得共、元々商人同士の逋債より事起り候儀にて、償金等可被差遣謂れ無之段は外国奉行より及弁論、於渠了解仕候由に候上は素より、扶助金として政府御厚意を以被遣候上は、金高の多少を可論辞柄は有之間敷筈に候得共、五ヶ年にも相成最初ブラインより弐万弗の扶助申立、ホルトメン代公使に至り右にては不相当に付壱万弗被遣候はゝ取扱可申旨申立候上は、此上減方も致間敷哉に候間、壱万弗被遣候積相心得、右御金の儀は米国政府へ預ヶ置候内を以、御渡相成候方と奉存候、左候はゝ其段外国奉行へ被仰渡可然奉存候

  卯十月

小栗上野介
小出大和守
織田和泉守
小野友五郎
御勘定方


この上申書は日付がないが、勘定奉行小出大和守は、10月23日に留守居に転じているので、それ以前であることがわかる。小野友五郎も、23日に勘定奉行並に任ぜられたので、この時は勘定頭取(慶応3年8月20日任)である。

3番目の史料には、「覚 壱万弗被下候方に相心得、尤右御金の儀は米国政府へ預ヶ置候内を以可相渡候間、右の趣を以及談判候様、可被致候事」とあり、1万ドルの扶助金の支払いを持って談判をするようにとの指示がみえる。

この1万ドルの件は、10月27日、外国奉行の江連加賀守より勘定奉行並となったばかりの小野友五郎へ伝えられた(小野友五郎の日記。以後「小野日記」と表記)。米国公使にも幕府が扶助金の支払いの件を請けたことが伝えられたが、支払い方法をめぐって問題がおこる。米国公使館書記官ポルトメンは、米国政府に預けた紙幣で扶助金1万ドルを支払う場合、墨西可(墨是可・メキシコ)銀貨を合衆国貨幣のレートで計算することになるので、5割増しの15,065ドル57セントになるという内容の書簡(11月2日付、「殴打一件」11月3日条)を、江連に送ってきたのである。

当時外国との交易に多用されていたメキシコ銀貨(メキシコドル)は、洋銀とも呼ばれ、これを米国貨幣に交換して、さらに米国紙幣に換算した場合、5,000ドルほど多く支払うことになるというものだ。

この件は即日江連より友五郎に伝えられた。勘定方では友五郎が扶助金一件の専任になっているように思う。友五郎は、11月20日、米国公使と会い、11月22日には、横浜へ出向いたと思われる(「小野日記」)。この時、支払い方法についてのやり取りがあったであろう。

そして、翌12月、外国惣奉行並、小野友五郎、外国奉行が次の上申書(「殴打一件」12月8日条)を差し出した。


[鰭付]
書面正金にて壱万弗御渡可相成旨被仰渡奉承知候
十二月十七日

--------------------------------------------------------------------------
[端裏]

 米国商人ロベルトソン扶助金御渡方の儀に付申上候書付
外国惣奉行並
小野友五郎 
外国奉行
--------------------------------------------------------------------------

米国商人ロベルトソン扶助金被下方の儀に付、当秋中申上候処、壱万ドルラル被下候方に相心得、尤右御金の儀は米国政府へ御預ヶ被置候内を以御渡可相成候間、右の趣を以及談判候様可致旨、当十月中御書取を以被仰渡候に付、加賀守横浜表出張、同公使并書記官ポルトメンへ引合及ひ候処、右御預金は米国紙幣に候間、墨是可銀貨に直し候得は、五千弗余の相場違を生し候に付、尚委細の儀は書記官出府の上、小野友五郎へ引合可及旨申聞、其後ポルトメンより相場違の書面も差出、此程同人〔此同人は公使には無之ホルトメンに可有之〕出府に付、友五郎并対馬守引合およひ候処、右扶助金受取候ものは横浜滞在罷在候儀に付、為替にて御渡有之候ては意外の手数相掛り、不都合不少候間、正金にて当表於て御渡被下度旨、遮て申聞候に付、勘弁仕候処、為替御渡相成候儀は一時御便利の事と相心得候処、前條ポルトメン申立の趣、強て御拒絶可相成筋にも至り兼、将御預金の儀も夫々御遣方相成候趣に付、当地於て御渡相成候ても、別段の御出方と申儀にも無之、殊に算計相場違も無之旁彼の望に相任せ候方に可有御座哉、就ては此上減額の談判も可仕儀に御座候得共、既に先達て壱万弗御渡可相成旨及引合候上は、今更夫等の談方いたし候儀も相成兼候間、同人申立の通り御聞届相成、正金にて御渡御座候方可然哉奉存候、其段御勘定奉行へ被仰渡候様仕度依之此段申上候以上

  卯十二月
朝比奈甲斐守
小野友五郎
江連加賀守
菊池丹後守
平岡和泉守
酒井対馬守
杉浦武三郎


米国政府に預けた紙幣で扶助金を支払った場合、「五千弗余の相場違」を生じるのでこれを避け、横浜に滞在している扶助金の受取人(ロベルトソンは帰国後、既に死亡)に、正金(現金)で支払うほうが為替を用いることなく手間をかけずにすむのでよいという内容である。

しかし、すぐには老中から指示がなかった。14日には、書記官ポルトメンより支払いについて外国奉行に問い合わせの来簡があり、回答を迫られた外国奉行から同日、友五郎へ催促をしたようで、「小野日記」12月14日条には、「一万トル一条才足之事」とある。なお、「殴打一件」12 月16日条の、外国奉行差出、小野友五郎宛の書付には、「此程壱岐守殿へ御同様より申上置候趣も有之候得共、未た御下知無候間、右回答如何様申遣し可然哉、貴様御見込の次第早々御申越有之候様」とある。宛名が「小野友五郎」のままで、「小野内膳正」ではないので、この掛合(問い合わせ)は、友五郎が諸大夫を仰せ付けられ、内膳正の名乗りをゆるされた16日より前のものと思われる。

この14日という日は、京で起きた王政復古のクーデタの第一報が江戸に届いた日である。京では一触即発の状態が在京老中より伝えられ、即日兵の上京が命じられた。翌15日には、友五郎にも上方への出張命令が出ており、以後日記には、扶助金に関する箇所は見られない。

このあと、友五郎が扶助金の支払に関してどのように動いたのかはわからないが、12月17日に、「覚 正金にて壱万弗相渡候事」(「殴打一件」12月17日条)という指令が出ている。上申書(「殴打一件」12月8日条)の鰭付には、「書面正金にて壱万弗御渡可相成旨被仰渡奉承知候」と承付があり、日付は、「十二月十七日」となっている。

したがって、直接現金で1万ドルを支払うということに決定したので、外国奉行よりポルトメンに対し、公使不在であるが(12月7日の兵庫開港にあたり、大坂に出張中)、扶助金を受け取るかどうか書簡(12月20日付、「殴打一件」12月20日条)で問い合わせている。

ポルトメンよりの返簡を待つ間に、外国奉行は「小野内膳正」宛に、扶助金を早く渡すように取り計らってもらいたいことと、扶助金を江戸から持っていくのか(御金藏からという意味か)、横浜運上所の関税の内から宛てるのかを前もって知っておきたいということで次のように掛合に及んだ。


[端裏]

  小野内膳正殿   外国奉行
------------------------------------------------------------------------□

米国人ロベルトソン扶助金渡方の儀に付、此程御同様一同にて書面を以相伺候趣有之候処、正金にて可相渡旨、御書取を以被仰渡候に付、同国公使不在中には候得共、受取方出来候哉の旨、拙者共より同国書記官ポルトメンへ書簡を以問合差遣候、就ては同人おいて受取可申旨申越候はゝ、右御金早々御渡相成候様兼て其御手続に御取計置有之度候、尤右は当表より御廻し相成候哉、亦は横浜表税銀の内を以、御渡可相成哉兼て承知いたし置度此段御掛合およひ候  
  卯十二月
(「殴打一件」12月21日条)


しかし、友五郎から挨拶(回答)が来ないうちに、ポルトメンより、公使が不在であっても扶助金を受け取るという12月21日付の返簡(「殴打一件」12月22日条)があった。そこで、外国奉行は、「御勘定奉行衆」宛に再度、次のように掛合に及んだ。


[端裏]

 御勘定奉行衆 外国奉行
------------------------------------------------------------------------□

米国人ロベルトソン扶助金渡方の儀に付、此程小野内膳正殿へ御掛合およひ候処、御挨拶無之内、同国書記官ポルトメンより別紙の通り書簡差出候間、右写御廻し申候、就ては右金子渡方手続如何御取計被成候哉、右御挨拶に基き返簡差遣候積もり有之候間、早々御挨拶有之度、依之別紙写相添此段御懸合およひ候
  卯十二月
(「殴打一件」12月22日条)


しかし、掛合の相手である友五郎は23日、長鯨丸に乗り組み江戸を離れることになっていたのである。

友五郎の上坂の情報は事前に外国奉行には伝わっていなかったのか。異なる役所間での書面のやり取りは必要なものであったとしても、奉行同士が直接会って話せば簡単なことだと思うのだが、上方の情勢を考えるとそれどころではなかったのか。しかし、事件発生以来、米国公使が幕府の対応の遅さを責めてきている事をみると、機構的な問題がおおきいのかと思う。結局、米国への対応は遅れることになる。

外国奉行からの掛合書(「殴打一件」12月22日条)に対する勘定奉行の回答(下げ札)は、次のように、年内中には取り調べることができないので、扶助金の支払いは来春になるというものだった。


御書面の趣致承知候、右は神奈川表税銀等の内を以相渡候積の処、最早年内余日も無之、取調方等出来兼候に付、来春相渡候様取計可申候間、右之趣を以可然御説得有之候様いたし度存候、此段及御挨拶候
  卯十二月                御勘定奉行
(「殴打一件」12月24日条)


これを受けて、12月24日、外国奉行は再び掛合に及ぶが、友五郎はすでに海の上である。


御下ケ札御申越の趣には候得共、是迄追々引合の次第も有之、且米国先任公使より弐万ドルラルとの申立も有之候得共、右も数回の談判にて壱万ドルラルと談決相成、今日の手続に至り候処、御渡方来春に相成、且日限も不相定候ては、返簡差遣候とも承允可致見据無之、且右等キて内膳正殿御引受御引合有之候儀に付、別段御調にも及申間敷、旁可成丈年内御渡相成候様いたし度、此段再及御掛合候
  卯十二月                    
                    (「殴打一件」12月24日条)


外国奉行の申し立てはもっともなことで、扶助金1万ドルの支払いが決まってから、その支払い方法の交渉を勘定方として取り扱ってきたのは、友五郎である。横浜運上所の税銀を扶助金に宛てるのであれば、今更何を取り調べることがあるのかということだ。年内に米国側に渡したいので、早く取り計らってほしいというものである。

しかし、外国奉行の再掛合は黙殺されたかたちとなる。年の暮れも迫るなか、12月27日、外国奉行は、24日の掛合に対し「其後何等の御挨拶無之」(「殴打一件」12月27日条)と、あらためて催促に及んだところ、下げ札で次のような回答があった。


御下ケ札の趣致承知候、右は最前彼国紙幣を以御渡可相成筈の処、被仰立の趣も御座候に付、正銀にて御渡の積相成候儀にて、手続等も相違いたし候に付ては、取調方も有之、且神奈川表へも引合候義に付、年内御渡方行届申間敷と存候得共、猶御申越の趣も有之候間、精々手繰取計行届次第日限等御引合可申候、此段及御挨拶候
  卯十二月                  
(「殴打一件」12月30日条)


12月17日に、「覚 正金にて壱万弗相渡候事」と指令が出ており、その後、友五郎は外国奉行より米国へ渡す金をどこから充てるのかと問われたが、返事をすることなく、江戸を離れてしまう。外国奉行が再三催促した末、晦日(30日)に受け取った勘定奉行からの返事は、取り調べる時間がないので、支払いは来年になるというものだった。

これに対して、老中宛と思われるが、勘定奉行と神奈川奉行に対して、横浜運上所の税銀からポルトメンへ扶助金を渡すように指令することを求める上申書が、「御達案」を添えて外国奉行から、差し出された(「殴打一件」12月30日条)。

この三日後、上方では鳥羽・伏見の戦いが勃発する。

結局、扶助金支払いは、翌慶応4年に持ち越された。1月3日に鳥羽・伏見の戦いが始まり、開戦の知らせは、1月8日には江戸にもたらされ、その翌日、1868年2月2日(慶応4年1月9日)付の、ポルトメン差出、外国奉行宛書簡(「殴打一件」1月19日条)で、支払いの催促があった。「殴打一件」1月19日条に、慶応4年1月9日付の書簡が載っている理由はわからない。

大坂城を抜け出した徳川慶喜を乗せた幕府軍艦開陽が品川沖に姿を現したのは、1月11日のことである。徳川慶喜の帰府により、江戸城は混乱状態となったが、ようやくのことで、老中小笠原長行より次の指令が出た。


[端裏]

  外国惣奉行並
  外国奉行   B ※宛名の部分は付箋

    覚
------------------------------------------------------------------------□
去る亥年中、御国人より疵請候米国人ロベルトソンへ、為扶助金洋銀壱万ドルラル被下候積に付、税銀の内を以繰替、同国書記官ボルトメンへ相渡追て御金蔵納渡の積可被取計候
右の通神奈川奉行へ相達候間可被得其意候事 
(「殴打一件」1月17日条)


この指令を受けて、外国奉行は、1月25日付書簡(「殴打一件」1月25日条)を、ポルトメンに送り、扶助金は横浜運上所で渡すので、神奈川奉行へ申し出るようにと伝えた。「殴打一件」の記載は以上で終わっている。

文久3年3月の事件発生以来、約5年に及ぶ扶助金問題が、ようやく落着した。

小野友五郎が負うべき責任の範囲がどの程度であったのかわからないが、12月14日に上京する兵隊の御用取扱を命じられ、翌日には上坂命令が下っていることもあってか、途中から外国奉行との意思の疎通を欠いており、また、執務の引き継ぎが確実におこなわれていたようにも思えない。

友五郎は命令に従い23日に江戸を離れ上坂するが、着坂後まもなく、鳥羽・伏見の戦いが始まり、これに強く関与したとみなされて、戦争責任を問われ、差控、逼塞を経て勅諚により、死一等をゆるされるも、永御預の格揚座敷となり、刑に服すことになる。


小野友五郎の戊辰戦争
戊辰戦争拾遺


 
■小野友五郎日記 2022年9月24日

藤井哲博氏の『咸臨丸航海長小野友五郎の生涯』(中公新書、昭和60年[1985])巻末の「主なる参照文献」で示されている「小野友五郎日記」について。

@広島県立文書館所蔵「小野友五郎日記」28冊(小野清家旧蔵)

広島県立文書館「東京府日本橋区小野友五郎家文書 仮目録」によれば、文久4年(元治元年)から明治31年までの28冊(番号411−438)が所蔵されている。

A東京大学史料編纂所所蔵「小野友五郎日記」写本3冊

小野友五郎は、慶応3年、遣米使節として日本を離れている。慶応3年1月20日−7月29日の日記の写本が東京大学史料編纂所に所蔵されている。

B国立国会図書館所蔵「航海日記」写本4冊(マイクロフィルム)
      
安政7年(万延元年)[1860]、小野友五郎が咸臨丸に乗り組み、渡米した時の日記の写本である。

文倉平次郎著『幕末軍艦咸臨丸』(巌松堂、昭和13年[1938]、530−678頁)に収められている「咸臨丸航米日誌」と改題した航海日記(正月12日−5月6日)は、著者によって省略・編集されている。

C宮内庁書陵部所蔵「米里堅紀行」2冊

安政7年(万延元年)[1860]時の遣米日記の写であるが、筆写範囲は、2月26日−閏3月18日と短く、省略・編集されている。国文学研究資料館サイトの新日本古典籍総合データベースで、画像を確認できる。


小野友五郎の戊辰戦争
戊辰戦争拾遺

 
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