「昭和のこころ」ノスタルジー世界のブログ
古い奴だとお思いでしょうが

「歴史・日本史」
 


■徳川慶喜が愛した女性「お芳」 2014年12月18日

■『週刊新発見!日本の歴史』創刊号を買いました 2013年6月19日

■戦国武将の謎に迫る! 諏訪大社と武田信玄 2013年2月6日

■鶴ヶ城で戦った吉田藩士? 2013年1月7日

■山本八重のスペンサー銃?2013/01/06

■ 「打ちこわし」の回答が? 2012年12月25日

■あったこととなかったことの証明 2012/12/22

■ウィンチェスター銃かヘンリー銃か? 2012年12月10日

■豊橋中央図書館資料展 《忘れない!戦争と郷土に生きた人々》2012/08/08

■権門上に奢れども、国を憂うる誠なし 2010年08月15日

■NHK 15歳の志願兵なぜわが子が戦争に?

■NHKスペシャル「玉砕 隠された真実」を見て

■『敵兵を救助せよ』 2010年08月06

■父と見た映画3本が刻み込んだもの 2010年07月07日

■江戸時代、孝行者への保障 2010年06月19日

■シベリア特措法と戦争被害者への保障 2010年06月17日

■『別冊歴史読本18 新選組組長列伝』2010年04月07日

■『特攻からの生還 知られざる特攻隊員の記録』 2010/02/03

■勝負の退き際・・・止めるときの決断力 2010/01/19

■「ジロチョー 清水の次郎長維新伝」を見て 2010/01/13

■日本史の本・雑誌を買うときに最も注意したいこと 2009/12/20

■日本史の常識に疑問? 地方史編纂にみる残念な点2009/12/20

■梓特別攻撃隊 2009年9月8日

■やましき沈黙《日本海軍400時間の証言》2009/8/11

■太平洋戦争の原因は? 科目としての「近代史」の必要性2009/07/15

■潜水艦乗りと学校教育 2009年07月03日

■長州藩諸隊の反乱と派遣切り 2009年05月16日

■箱館新選組隊士木下勝蔵 2009年01月04日



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三河武士がゆく

 
 
■徳川慶喜が愛した女性「お芳」 2014年12月18日

新門辰五郎は名の知れた侠客で、ある程度の素性がわかっていますが、15代将軍徳川慶喜の側室となった娘お芳については、よくわかっていない事が多いのです。

以前から大坂城を脱出する徳川慶喜と周囲の行動について調べていまし。そのなかで、慶喜が乗り込んだ開陽艦でのお芳のエピソードが区々であることが気になっていました。

資料がすぐに見つかるだろうという安易な気持ちで調べ始めたのですが、すぐに壁にぶつかりました。

信憑性の高い文献がなかなか見つからないのです。「ウラがとれない」ということです。

本当は、誰もが知っている事実であり、典拠を示す必要性がないのかも知れませんが、見つからなければ、探したくなるのがサガです。

地方在住で身動きがとれない環境なので、どれほどのことができるのかわかりませんが、可能な限りお芳に迫ってみようと思います。

『東三日本史趣味』第1号を編集しました(有料)
 
 
■『週刊新発見!日本の歴史』創刊号を買いました 2013年6月19日
 
「ここが変わった!」

「ここまで分かった!」

「新」や「真」がタイトルにつくものはとりあえず買うようにしています。
揃えるタイプの創刊号は安いこともあります。

長篠の戦いと本能寺の変には興味があったので、アマゾンで購入しました。

長篠の戦いや本能寺の変の場合、本当に新説で無い限り以前からテーマとして何度も取り上げられたものになってしまいます。

数十年前から唱えられている説を、「新発見」とうたわれても、困ります。

大げさな言葉を使うのであれば、「大論争」や「大激論」として、数人の専門科によって意見を戦わせた方がおもしろいのでは。

専門書や研究機関の紀要などを定期的に購読したり借りて読んだり、ニュースに触れるので無ければ、新しい情報は手に入りにくいものです。

新発見と言った場合、どの程度の範囲なのかを、明記して欲しいものです。
理想的には1年以内、少なくとも3年以内にして欲しいものです。

また、何年に発表されたものかが分かれば、購入の目安にもなります。

時代ごとの様々なテーマに関する説を一冊で簡単に知ることができるという点では、読みやすいとは思います。

 
 
■戦国武将の謎に迫る! 諏訪大社と武田信玄 2013年2月6日
 
戦国武将の謎に迫る!諏訪大社と武田信玄 (青春新書INTELLIGENCE)

下諏訪大社の前を数回通ったことはありますが、ほとんど知識も無く過ごしてきました。豊橋市は神明や八幡が多く、その為なのかどうかは知りませんが、諏訪社はすくなく、氏子の地域以外ではなじみが薄いのではないでしょうか。「諏訪大社」がタイトルに付いた本を読むのもはじめてでした。

武田信玄と諏訪社との関係にひかれたからです。諏訪頼重と勝頼とその母の話は、映画やドラマなどでよく出てくるので知っていました。武神といえば、源氏は八幡とのつながりが強い。そもそも武田氏と諏訪大社との関係はどうなのだろうかと。

武田氏と諏訪大社との関係がいつどのようにしてできたのかということも正確にはわからないようです。

武田信玄の諏訪進攻の原因について諸説あるようですが、信玄の諏訪信仰という観点からこれを説明しようとしたのかなあと思いました。

本書を読んでみて、知識が乏しかった自分にとって、信玄あるいは武田氏と諏訪大社との関係よりも、諏訪大社の成り立ちや祭神や祭祀をする主体の変遷、神氏・金刺氏の衰亡などが新鮮でわかりやすく入ってきました。

縄文・弥生融合→出雲系→大和→天照大神という変遷が、地域を支配する権力と中央権力との力関係の現れ方なのかと思いますが、諏訪の場合ちょっと違う。

なぜ違うのかというはっきりとした理由はわからないようですが、興味を持つことができました。

一つの説として考えたほうが良いのかもしれませんが、諏訪大社の成り立ちが簡明にあらわされており、よくわかりました。

  
 
■鶴ヶ城で戦った吉田藩士? 2013年1月7日

会津藩士間瀬新兵衛の娘、間瀬みつの日記である『戊辰後雑記』に、「三州吉田藩 貫義隊 差図役 吉田幸一郎」なる者が出てきますが、吉田幸一郎の名は吉田藩分限帳で見つけることはできません。藩士中吉田姓はありますし、分限帳に載らない者もいますが、変名であった可能性も否定できません。但し、吉田藩へ引き渡された降伏人中その名を見ることはありません。吉田藩が間違いであった可能性も否定できませんし、藩の資料の記載漏れも考えられますし、吉田は手負であったことから、戦死も考えられます。

ただ、明治二年、会津降伏人として、金子喜一郎という者が吉田藩に引き渡されたようで、金子も手疵を負い治療していたことから、吉田幸一郎との関連を疑ってみたくもなります。

会津への経路はまったくわかりませんが、吉田藩は彰義隊への参加者を出しており、上野戦争に参加した後に貫義隊へ加入したのかもしれません。
 
■あったこととなかったことの証明 2012/12/22

例えば、歴史上の事実を証明する場合、

その日にあったことを証明することと、
その日以外にはなかったことを証明する必要があります。

どちらかの証明だけで研究をして、推測して結論的なものを書いてしまうと、大変なことになることがあります。

片方だけですと、突き崩しやすいのです。
事件を追うときにはアリバイを証明したり崩したりしますね。
これをちゃんとやるのが基本です。

 
■ 「打ちこわし」の回答が? 2012年12月25日

知恵袋などで「打ちこわし」の意味が問われることがあります。

なかには打ちこわしは都市部の民衆によって都市部でおこるというような回答があります。

しかし、打ちこわしは農民によってもおこりますし、農村部の村役人などの富農を対象としたものもあります。

これは、享保や天明の打ちこわしの教科書の説明によるのかもしれません。

また、百姓一揆が農民によって農村でおこり、打ちこわしが都市の住人によって都市部でおこるというようなおぼえ方をしてきたことによるのかもしれません。

一揆や村方騒動の過程で打ちこわしがおこることもあるのです。
 
 
■ウィンチェスター銃かヘンリー銃か? 2012年12月10日

来年のNHK大河ドラマ「八重の桜」の主人公は新島八重です。

ある資料館でおこなわれた幕末の洋銃展での出来事です。

スペンサー銃と説明書きのある銃を見て違和感を覚えました。

丸毛利恒(靫負)が上野戦争で携えていた七連発の銃というものを記憶していたので、あーこれかとしばらく見とれていたのですが、アレッと思って何度も見直した。私は銃には詳しくないのですが、西部劇で見ていたウィンチェスターはさすがにわかりました。

その銃は、ウィンチェスターのように銃身の下に弾倉がありました。二段になっていたのです。

家に帰り、HPで調べてみますと、スペンサー銃の弾倉は銃床の中にあり、展示されていたものとは明らかに異なっていました。

そこで、すかさず資料館にメールを送ると、表示は誤りであり、ウィンチェスター銃のようだというメールが返ってきました。

しかし、どうもスッキリしません。

携帯で写真を撮る習慣が身についていないので、写メというものをまったく思いつかなかったのが悔やまれました。

記憶を思い出そうとするのですがどうしてもはっきりとしません。

弾丸を込める穴が横に付いていたかどうかが。

横に付いていれば、ほぼウィンチェスターに間違いがないでしょう。

付いていなかったとしたら?

調べましたら、ヘンリー銃の可能性もあるかと思うようになりました。しかし、長さが短いので違うような感じがしました。

弾を込める位置によってはヘンリー銃の可能性もあることを指摘し、判明したら教えて頂きたいという内容で再度メール送りました。

返事が無いまま半年以上が立ち、とっくに忘れていましたが、来年の大河ドラマのことでで思い出しました。


私としては山本八重が所持していたという七連発のスペンサー銃を見てみたかったのに残念でした。


 
 
■豊橋中央図書館資料展 《忘れない!戦争と郷土に生きた人々》2012/08/08

偶々、調べ物があり中央図書館へ行きました。

なぜか毎年のように、戦争の資料展に遭遇?するのです。

昨年は「シベリア抑留」がテーマでした。
私の父がいた満州の東寧の辺りを写した写真がたくさん展示されており、釘付けになったのを覚えています。

今年も同じ方の写された写真が展示されていました。この方は兼井円成(成夫)という写真家で、ソ連侵攻時に戦った方です。綏芬河(スイフンガ)を中心にした写真(当時ではなく現代の写真)が十枚ほどありました。その中には現在の勝鬨陣地や出丸陣地の写真もありました。私の目を引いたのは兵舎跡の写真でした。これは昨年もあり、同じようにしばらく立ち止まって見ていました。当時のままかどうかはわかりませんが、煉瓦造りのような兵舎でした。

私の父もこのような兵舎で生活していたのかと思うと、なんだか急に懐かしく思えてきたのです。不思議なものです。

私の父は東寧にあった砲兵情報聯隊に居りましたが、ソ連軍侵攻の時には内地に引き上げていました。もし、あのまま留まっていたら、戦死したかシベリアへ抑留されていたでしょう。いずれにしても私がこのように生存する確率は極めて低くなっていたのです。

そして、明日は8月9日です。


※私の父と砲兵情報聯隊
※東寧重砲兵聯隊第一中隊の戦い

「敵は綏芬河に侵入中、同地区居留民は続々集団自決中」という一文を読むと何とも言えず心が痛みます。


 
■権門上に奢れども、国を憂うる誠なし 2010年08月15日

権門上に奢れども、国を憂うる誠なし、

財閥富を誇れども、社稷を思う心なし


気持ちはよくわかります。
しかし、私は、武力は使いません。平和主義者です。

今と当時とを比べて何が違うのでしょうか、私が、当時の青年将校であったのならば、同じことを考えはしたかもしれません。

逆に青年将校といわれた人たちが、今現代を生きていれば、武力ではなく、政治でこの国を改革しようとしたのではないでしょうか。

当時はそういう時代でもあったのです。歴史は現代の尺度で考えるのではなく、当時の尺度なのです。

一部の政党・政治家は国を憂うことなく、党利党略を優先し、いまだ汚職や国民が納得できないような所行が数多あります。

真に国家・国民を憂う政治家はいるのでしょうか?

いなければ、私たちひとりひとりが政治家として国家のこと、みんなのことを考えていきましょう。

まずはじめに、人のために何ができるのかを考えて小さなことから実行していきたいものです。

 
■NHK 15歳の志願兵なぜわが子が戦争に?

「バスに乗り遅れるな」

は日本人の農耕民族的な行動の特徴なのです。

良くも悪くも。

どんなバスであるのか、よく確かめもせず、疑いもせず、乗りたくはなくてもみんなが乗るからと言って、乗ってしまうのです。

KYとよく言われますが、良い意味でのKYが沢山いれば、戦争にはならないのです。

死ぬのは嫌だ、殺すのは嫌だ、戦争は嫌だと、はっきりと言う人が多ければ、多くの人は死なずにすむのです。

私が、戦争を起こす立場であるのならば、女性や子どもや老人や若者を多く死なせるような戦争はしません。

武士である職業軍事のような人だけで戦います。

そして、軍人以外は死ぬなと言います。

私はKYなのでしょう。

戦時中であれば、非国民です。

しかし、家族を愛し、友を愛し、国を憂い、人類や地球の平和を望んでいます。


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■NHKスペシャル「玉砕 隠された真実」を見て

私は必要な嘘はあると思っています。

実際にそうしています。

嘘が嘘を呼び、嘘で塗り固められていくのです。

自殺を強要する参謀、

玉砕を命令する大本営、

特攻を強制する雰囲気


すべてとは言いませんが、死ぬことを強制する方が弱いのだと思います。

強制されて死んでいった人の方が、強いのだと思います。

弱い人間が強い人間を死に追いやったのが戦争なのです。

水木しげる氏の

《真面目な人ほど、上の命令に忠実であり、部下に『死んでこい』と言えるものだ》

という言葉が胸につき刺さってきました。

自分に正直に生きること(良心に忠実に生きること)が、今の私たちにも求められているのではないでしょうか。
 

 
■『敵兵を救助せよ』 2010年08月06日

『敵兵を救助せよ 英国兵422名を救助した駆逐艦「雷」工藤艦長』
惠隆之介 草思社

この本は戦記ものであり、教育書でもあるようなものです。
学校の教師などの教育者に読んでもらいたい本でもあります。

日本海軍駆逐艦「電」の工藤俊作艦長は、ジャワ島北方スラバヤ沖で、漂流するイギリスの巡洋艦・駆逐艦の乗組員四百数十名を救出したことで知られています。

艦長の着任訓示
「本日より、本艦は私的制裁を禁止する。とくに鉄拳制裁は厳禁する」
172頁

当初は軟弱な艦長ではないかという声があったそうです。

それでも、鉄拳制裁は止まなかったそうですが、艦長は決して軟弱ではありませんでした。

戦闘が行われた海域で、救助のために艦を停止させることは、非常に危険なことなのだそうです。攻撃の的になるおそれがあるのです。

艦長の教育者としての手腕は、今の教育者の手本ともいえるものです。

例えば、哨戒活動中に流木を敵潜水艦の潜望鏡と誤って報告した見張りに対して、怒ることなく、「その注意力は立派だ」と誉めたのです。

このため、四○○○メートル先の潜望鏡を識別できる見張りが増えたそうです。

欠点や失敗を叱ることは容易いことです。わたしも、他人の欠点が目につきやすく、叱ったり注意することが多かったのです。

長所や優れた面を誉めることも容易いことです。

ここでは、教育者の性格が如実に表れる場面です。どれが絶対に正解ということは私は言いません。しかし、失敗を長所に変えて誉めることは至難の業です。

失敗を誉めて、直すのではなく、

失敗を逆手にとって、成功させる

これは、わかっていてもできないものです。

人を生かす教育が、多くの人命救助へとつながったのでしょう。

「よき軍人である前に、よき人間であれ」と語った海軍兵学校時の校長は鈴木貫太郎でした。

鈴木は、

鉄拳制裁禁止
歴史および哲学教育強化
試験成績公表禁止(出世競争意識の防止)

といっ海軍兵学校の教育改革に取り組みました。

鉄拳制裁をしたものは退校させると明言し、「鉄拳によってしか部下を心服させ、指揮しえない士官は、士官たる資格なし」と

「最後の海軍大将」井上成美も鈴木の薫陶を受けています。

圧力に屈せず(良い)信念を貫くという点でもこの三人は共通しているのではないでしょうか。

工藤艦長は他の艦へ移り、駆逐艦「雷」は、昭和19年4月13日潜水艦の魚雷攻撃により撃沈され、全員戦死をしています。

戦後の工藤艦長の生き方に少なからず影響を与えたともいわれます。

鈴木は千葉の実家にひっそりと暮らし、井上成美も世に出ることはしませんでした。

『終戦宰相鈴木貫太郎』『最後の海軍大将井上成美』などと共に、ぜひ教育者に読んでいただきたい一冊です。


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■父と見た映画3本が刻み込んだもの 2010年07月07日

明治24年(1981年)7月7日は硫黄島で玉砕した栗林忠道大将の生まれた日です。

私は父と見た映画は3本だったと思います。

「海軍特別年少兵」
「日本海大海戦」
「あゝ陸軍隼戦闘隊」

全部小学校の低学年のころです。よくも、その頃の年齢の子どもに見せたものだと思いますが、私も好きでついていったように記憶しています。

3本ともあまり良い印象はありません。

旅順攻撃、加藤隊長の戦死、帯剣を紛失して自殺する少年。

でも、この3本しか父との思いではないので、今こうして思い出したのだと思います。

わたしはいつしか、戦争映画やプラモデルが好きな少年になっていました。

しかし、近代史を学んでいくうちに、次第に反戦的になっていく自分とのギャップが今でもしっかりと存在しています。これが、自分の精神構造をを複雑なものとしている。

ロシア軍の機関銃の前を突撃して次々と戦死していく兵士たち、そして突撃が繰り返される。

帯剣をなくして自殺する少年。

人命軽視の「教育」と「雰囲気」が亡国へとつながるのだという意識が、そのとき芽生えていたのだと思います。

数年前、NHKで元兵士たちが証言していくテレビ番組を見ていて、あの後味の悪さと怒り(無責任な政治家や軍人への)がこみ上げてきました。

ガダルカナルでも、ニューギニアでも、サイパンでも、グアムでも、インパールでも、フィリピンでも、沖縄でも、広島でも、長崎でも、シベリアでもその他多くの戦場に、戦死者にかわって、タイムスリップし、同じ体験をして、

亡くなった人たちと同じ経験をもう一度していただきます。

それでも戦争をやりますか?

という質問をしてみたい。

今の政治も同じです。何を第一とするのか?

たとえば、特別養護老人ホーム・介護老人保健施設に入ることができない待機者が40万人以上という現実を政治家はどう考えているのでしょうか?

老人には金を使わないというのでしょうか?

介護の最前線では、次々と戦死者がでているのです。

老人や介護家族になってみるとよくわかります。

 
■江戸時代、孝行者への保障 2010年06月19日

江戸時代は、親や兄弟の世話をよくみている孝行者や他人のために尽力した者へ、

一時金を支給したり、
税の負担を軽くしたり、
生涯暮らしに困らぬような保障をしたり、
子々孫々まで収入を保障したりすることがありました。

普通以上の生活を保障することがあったわけです。

長寿者にも金品が支給されることもありました。

これは、支配層による民衆統治の為の一つの方策とみる人もいますが、そればかりではないと思います。

そういえば、江戸時代ではありませんが、織田信長が、体の不自由な人を見て、生活の面倒を村人たちにみさせたという話を、【NHK歴史秘話ヒストリア】でやっていましたね(出典?)。

長生きして安心して暮らせるような社会を選ぶか、現在の社会を選ぶのか。

老い、病気、ケガなど、今はよくても、いつかは来る道なのです。


 
■シベリア特措法と戦争被害者への保障 2010年06月17日

昨日(2010年6月16日)、シベリア抑留者の救済法である《シベリア特措法》(戦後強制抑留者に係る問題に関する特別措置法)が成立しました。


昭和二十年八月九日以来の戦争の結果、ソ連又はモンゴル人民共和国で強制抑留された「戦後強制抑留者」に対し、特別給付金が支給されます。金額は帰還の時期によって異なります。

法案によれば、予算は約250億円であり、国民一人あたり200円に満たない計算になります。

日本政府は、今まで何をしてきたのでしょうか?


戦争は生命だけではなく、精神的にもダメージを受けます。心の傷という精神的な犠牲に対する保障をするべきです。兵役は義務でしたが、それとこれとはまったく別のものです。これは、軍人であるかないかとか、国籍によって区別するものではなく、皆等しくなければなりません。

戦後復興・高度経済成長などの経済的な成長により、現在のわれわれの暮らしがあると思うから、今の世の中が空虚なものになるのだと思います。多くの犠牲の上にあぐらをかいている事を忘れないことです。


 
■『別冊歴史読本18 新選組組長列伝』2010年04月07日

2002年8月発行

完全保存版「新選組隊士名簿総覧」には、新選組隊士名簿が写真版で収録され、活字化されています。

但し、紙面のスペースの都合で役職・所属・人名以外の部分が多く省略されているのが残念です。読み取れないような小さな文字のなかに知りたい情報があるからです。

とはいえ、貴重な資料であることには間違いありません。新選組を調べる上でベースになる一冊だと思います。

「第二次行軍録」
「会津三代在陣者名簿」
「箱館警備者リスト」
「池田屋事変褒賞金リスト」
「元治元年上京者名簿」
「第一次行軍録」
「幕臣取立名簿」
「仙台降伏人名簿」
「横倉甚五郎名簿」
「英名録」
「慶応元年上京者名簿」
「京都ヨリ会津迄人数」
「仙台ヨリ脱走後」
「明治二巳年五月十五日新撰組」
「中島登名簿」
「会津藩御預人リスト」
「在隊者リスト」(平尾道雄『新撰組史』)
「編成表」(西村兼文『新撰組始末記』)
「幕府提出上書署名者一覧」

※タイトルはそのまま記載しました。
※解説は菊地明氏です。

原本を活字におこした時、

明らかな誤りをそのまま記載した時に(ママ)を付けることがありますが、それをせずに、訂正してしまうと、それは原本資料を忠実に写したことにはなりません。

活字にする時の省略は、省略者の判断でおこなうので、知りたい情報が眠っていることがあります。

名簿は、タテに読むか、ヨコに読むのかで異なってきますが、活字になるとどのように読んでいるのかわからないことがあります。

原本を見て初めて違いに気付くのです。

実際に原史料を見ることができる人は限られた人たちです。したがって、『新選組組長列伝』はお気に入りの一冊なのです。

敗者側の史料は希少です。新選組だけでなく、鳥羽・伏見戦争、上野戦争、北越戦争、会津戦争、東北戦争、箱館戦争などシリーズ化して、全文活字化し、小さな文字も識別できるほど鮮明な写真版を収録した資料集が別冊歴史読本程度の販売価格で入手できるようになればなあと思います。


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■『特攻からの生還 知られざる特攻隊員の記録』 2010/02/03

鈴木勘次『特攻からの生還 知られざる特攻隊員の記録』 光人社 2005年

先に海軍の陸上爆撃機「銀河」による第二次丹作戦の梓特別攻撃隊について触れました。

著者は第二次攻撃隊として出撃する予定で、大分県宇佐飛行場で待機していましたが、第二次攻撃は中止されました。


そして、菊水三号作戦により、昭和二十年四月十七日、鹿児島県出水基地から出撃しました。

予定していた他の銀河の故障により、二時間遅れの単機出撃となったり、途中酸素吸入器が故障したりして、アクシデントが続きました。

実際に突入して奇跡的に生還した著者の言葉は重い。

「説明のつかないような苦痛が走り、時間とともに死が本物になっていく」

「身に迫る肉体の消滅という現実を痛感せずにはいられない」

(本文より)


著者は、「はじめに」や本文のなかで、特攻隊員は今の若者たちと何ら変わらなかったということを強調しています。特別な見方をされることには当時も違和感をもっていたようです。

私たちは、知らないから、勝手に想像してイメージを作り上げてしまうことがあります。それが人を苦しめることがあることを知らなければならないと思います。



「現代の人々は、「特攻」というと、スリルとか、豪快だとかと思い浮かべるかも知れませんが、本当の弾丸の飛び交う中を飛んだことがないので、無理からぬことと思います。とにかくいまのヤングの方たちと何ら変わらぬ若者であったことだけは事実です。」

「はじめに」より


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■勝負の退き際・・・止めるときの決断力 2010/01/19

防空戦闘では、紫電改の海軍343空や飛燕の陸軍244戦隊などが有名です。陸軍の震天制空隊には、武装をはずしてB29に体当たりをする特攻機もあり、戦果をあげていました。

しかし、度重なる邀撃戦で戦死者が増え、出動可能な飛行機は減少していきました。B29の高度に達する高射砲の配備も不十分でした。

本土決戦にむけての兵力温存のために出撃を禁じられていた隊もありますが、命令違反をしてまでも、出撃した隊もありました。

防空戦闘を禁じておきながら、人や工場を移さずに地上にあらわしたまま戦争を継続するという考え方は、どこからくるのでしょうか?国民は死傷し兵器を作ることができない状況がわかっていてそうするのです。

現代人の私には理解に苦しむところです。

早く戦争を終える力が政府にあればと思うと残念でなりません。沖縄の戦闘や、広島や長崎の原爆、その他の戦線での戦死者もでなかったのです。私の身近なところでは、豊橋空襲や豊川海軍工廠の空襲もなかったのです。

あのまま、連合国軍が、徹底した空襲や艦砲射撃の後、上陸作戦を実行し、本土決戦がおこなわれ、日本政府からの停戦に応じなかったとしたら、どうなっていたでしょうか。

退き際を見極める力はあっても、実行に移すことができなければ、勝負に大きく負けることになります。

人間は、思い切って止めるときに、決断力が問われるのだとあらためて思いました。

参考『丸 紫電改と五式戦 伝承の邀撃戦』

 
■「ジロチョー 清水の次郎長維新伝」を見て 2010/01/13

清水の次郎長と祖母の昔話

私の母方の祖母は、中村雅俊さん演じる清水の次郎長のことを、あまり良くは思っていなかったのだろうと思います。

江戸時代の幕末の頃、平井村(現在の愛知県宝飯郡小坂井町平井)に、雲風事亀吉という親分がいました。雲風とは江戸相撲時代の四股名だそうです。この平井亀吉は佐野史郎さんが演じていた黒駒の勝蔵とは兄弟分で、次郎長に追われた勝蔵を匿ったことにより、次郎長と争いになりました。

祖母は、平井村の出身ではありませんが、比較的近い下佐脇で生まれて育っています。次郎長が船で平井に攻めてきたという話を昔話のように、私の母によくしていたそうです。

「鬼の子から見た、桃太郎」の話をふと思い出しました。

※水谷藤博氏の「原田常吉の生涯」(『東海近代史研究』第8号、1986年、知立市図書館所蔵)を参考にしました。探しましたが、第8号は近くにはないのです。

 
■日本史の本・雑誌を買うときに最も注意したいこと 2009/12/20

日本史の本・雑誌を買うときに最も注意したいこと(誰が書いたのかが問題ではない)

定説・通説でもよく調べてみると、論拠が曖昧なものがあります。恣意的ではと疑いたくなるようなものさえ見かけることがあります。

なぜ、定説・通説となってしまったのか?

これは、有名な学者・作家などが主張したものが、マスメディアにより、世間一般に知れ渡ったことが大きな原因と思われます。

「教科書に書いていない」「新説」「授業では教えない」とうたっている日本史の内容も要注意です。情報の発信元が根拠としているものの信憑性を確かめずに鵜呑みにするのは危険なことです。

隠されていた事実と言われるようなもののなかには、普通に歴史を知っているものであれば、当然知っているようなことがあったり、知っていても、論拠に確信が持てないため、敢えて触れないことがあるからです。

自説の正当性を主張するときには、学術的な文章でなくとも、引用や参考にした資料の正確さを知るための案内として、註をつけたり参考文献を明記します。

歴史の本を買うときには、ここに注意してください。

誰が書いたのかではなく、何をもとにして書いたのかが大問題なのです。


 
■日本史の常識に疑問? 地方史編纂にみる残念な点2009/12/20

予算がたりないというのが、大きな理由なのかも知れません。

執筆担当者は、自治体職員のほか、大学教授や小中高の教諭が多いと思いますが、編纂スタッフの数が少ないのは大きな問題です。

日本史の専門家といっても、それぞれの得意分野があり、研究テーマは限られていることがあります。地域の江戸時代幕末をテーマとしたとしても、執筆責任者がひとりであるというのは危険なことです。地方史・郷土史といいますと、何十年も研究をしている在野の人がたくさんいます。その人たちの持っている情報のほうが、学者よりも確実で重要なばあいがあります。

『○○県史』に明らかな誤りをみつけ、出典をみてみると、執筆者が資料を全部、または該当する部分の前後を読んでいないことに気づいたりします。

『○○市史』で当然触れる内容が記されていないとき、不思議に思って執筆担当者をみると、狭い意味での専門外であったり、該当分野の専門家であっても、地理的に担当地域外を専門にしている人であったりします。地域外の専門家でも、地域の郷土史家や愛好家から情報を得る人であれば、問題はありません。

数十年に一度、大事な予算を使って作るのですから、じゅうぶんな予算をつけて作ってもらいたいです。購入する方も、一冊数千円のお金を払っているのです。

 
■梓特別攻撃隊 2009年9月8日

楠木正行の辞世より命名されたという、梓特別攻撃隊が東京の南2800キロに位置するウルシー環礁の米機動部隊攻撃のために出撃したのは昭和二十年三月十一日のことです。

三月十日に予定された攻撃は中止され、翌日に延期になりました。この夜宇垣纏第五航空艦隊司令長官に招かれた晩餐会で隊長の黒丸直人大尉が参謀のひとりに激怒している姿が描かれていますのでそのまま抜粋します。内容は生存者の記憶をもとにしています。


「なぜ、三人も出さにゃならんのですか?電信員を二四機すべてに乗せる理由は何ですか!小隊長機だけに乗せてもことはたりますよ!
 手前らのその杓子定規が、日本を駄目にしたんじゃねえのか!無理して死なせることはねえだろう!」
 電信員ほとんどは予科練出身、幼願の残る十代の少年たちである。いたずらに若者を死に追いやるとしか思えないやり方、押し黙る参謀に対して、黒丸大尉の精一杯の抗議でもあった。

※神野正美「梓特攻隊の第二次丹作戦」(『歴史と旅』増刊号94・激闘太平洋戦争)より


攻撃機は海軍の陸上爆撃機「銀河」で搭乗員は操縦員・偵察員・電信員です。最年長は黒丸大尉の27歳、最年少は18歳でした。なお、攻撃隊の内一機が空母に体当たりをし、一機はソーレン島に突入、その他少なくとも二機が珊瑚礁に突入して自爆したようです。黒丸隊長機を含めた4機は暗闇のため目標を捕捉できずにヤップ島に不時着しました。

彼らは「やましき沈黙」の犠牲者とも言えるのではないでしょうか。

 
■やましき沈黙《日本海軍400時間の証言》2009/8/11

NHK「日本海軍400時間の証言」を二日続けてみました。

開戦・特攻と、海軍の中枢にある軍令部の参謀たちが、反対でありながら発言することをしない。または、意見は言ってもそれを押し通さない。

エリート中のエリート達の集団が、日本の命運と国民の生死を握っていたのにもかかわらず、そこに体を張らないとはどういうことなのか。

誰も反対する者がなければ、発言した者の意見が通ってしまう。

見通しや根拠のないままに作戦が立案され実行に移されていく。

机の上で、思いつきや勢いでつくられた計画によって、人が死んでいくのである。

言い出しっぺの軍令部員が先に死ぬことはない。

現代の政界、官界、財界などのなかにもにも「やましき沈黙」は見られるのではないか。


 
■太平洋戦争の原因は? 科目としての「近代史」の必要性2009/07/15

太平洋戦争の原因は?という質問をよく見ます。

少なくとも、以下の要件を幕末・明治維新までさかのぼって勉強することで見えてくるものだと思います。

1.日本の政治体制上の問題

2.国内・国外の経済問題

3.世界情勢と日本の外交問題

国内の経済問題(社会問題)の解決を外交に求め、外交手段のひとつとして戦争(武力を背景とした解決手段)があり、戦争の道を選択しやすい(非戦・反戦の意見が抑圧される)政治体制であったと言えます。

ただ、私たちが誤ってはならないのは、私たちは当時の人間ではないと言うことです。現代の人がすべて当時にごそっと瞬間移動したのであれば、戦争回避の道を選択できる可能性は大きくなると思いますが、当時の人たちが、当時の状況下で、その選択をしたのだというこを理解しなくてはなりません。

私たちができることは、歴史を教訓として学び、良い選択をしていくということです。

残念ながら、今、学校では、近代史の授業時間はじゅうぶんとは言えません。できれば、中学から、少なくとも高校の授業で近代史を日本史から独立させる必要があります。


 
■潜水艦乗りと学校教育 2009年07月03日

最近、『ローレライ』『真夏のオリオン』といった潜水艦を舞台とした映画が作られ、人気俳優をキャストにして、若い世代にも見やすく作られているようです。

以前、勝目純也氏著、「わが青春、どん亀時代に悔いはなし−日本海軍潜水艦乗り気質−」(『歴史群像』2008年10月号)を読みました。

沈没となれば乗組員の生存率はきわめて低く、死なば諸共、一蓮托生という気持ちだったといいます。その気持ちになるためには、和が必要です。狭い艦内で憎しみあっていては、とても過酷な任務を遂行することはできません。

戦時中、潜航訓練中の事故で沈没した潜水艦が、戦後瀬戸内海から引き揚げられましたが、関係者の証言によりますと、自分のベッドで亡くなっていた人も多かったそうです。(吉村昭『戦史の証言者たち』)

最期までそのようにいられる精神状態は私には想像もつきません。

潜水艦乗りには冷静・沈着・迅速・正確・繊細な行動と、精神面での安定が求められたといいます。さらに艦長は情報を瞬時に分析して、ときには、果断な命令を下さなければなりません。ちょっとした判断ミスが命取りになります。

こうなると、潜水艦の艦長は成績優秀な人ばかりなのかと思いますが、実戦で傑出した戦果を上げた潜水艦の艦長のほとんどが兵学校での成績は、半分よりも後ろだったそうです。

現代の日本という船を動かしている人たちはどうなのでしょうか?

残念ながら、戦後60年以上がたちましたが、日本の学校教育はあまり進歩していないことがわかるのです。

なぜならば、依然として学校の成績が優秀な人が、組織の幹部やトップになりやすいシステムになっているからです。さらっと書きましたがとても深刻な問題から日本は抜け出ていないのだと思いました。

これはたいへん大きく深刻な問題です。

学校の成績が優秀な人が社会でも活躍できるような、学校教育をしなければなりません。社会での活躍とは立身出世や金儲けではありません。

学校教育に求められるのは、多角的なものの考え方、切り替えの早さ・柔軟さ、分析・判断・適用・応用の力、そして、愛情・人情・人徳を身につけるような教育だと思います。

このあたりまえのようなことが、学校だけではなく、家庭・社会においてどの程度あたりまえにおこなわれているのでしょうか?

幼い頃、よく家の近所のたばこ屋さんへ親の使いで煙草を買いに行きました。目立つところに海軍の制服を着た人の写真が飾ってあり、私はいつも気になっていました。ある時、親にそのことを聞くと、写真の人は私の父親の幼なじみで、潜水艦に乗っていて戦死した人であることがわかりました。潜水艦乗りは優秀なんだよということを聞いていたことも思い出しました。


『がんこ親父の子育て雑記』(2008年10月23日)を更訂



 
■長州藩諸隊の反乱と派遣切り 2009年05月16日

高杉晋作の組織した奇兵隊で有名な長州藩の諸隊は、武士・農民・その他の庶民で組織されていました。

諸隊は長州征伐(幕長戦争)で幕府軍と戦い、戊辰戦争でも前線で戦いました。そのため、戦死者の数も多かったようです。

しかし、戦争が終わると兵士は不要となり、諸隊は解散を命じられ人員の整理が始まりました。一部は新政府の兵として再雇用されますが多くは職を失うことになりました。

藩士や隊士のうち、上層部であった者は新政府内部で優遇されていきます。一方、戦死者や戦傷者、そしてリストラされた隊士達はじゅうぶんな手当を受けることなく、放り出されることになりました。

単純には言えませんが、優遇されたり残留したのは正社員であり、リストラされた隊士は派遣やパート従業員という見方もできます。

このような状況で反乱がおきました。

反乱は木戸孝允らによって鎮圧され、多くの者が本当に首を斬ら

れました。

ピンチを乗り越える時に、利用するだけ利用して、不要になったら冷酷に切り捨ててしまう。

明治が始まったばかりのお話しですが、長州藩と平成の大企業、似ていませんか。

何のために命をかけて戦ってきたのか?

もういらないからあとは自分たちで何とかしてくださいではなく、長州藩は全員を受け入れるだけの、新しい雇傭を積極的につくりだす必要があったのです。藩として責任を持って報いることをしなかったために、悲劇はおきてしまったのです。

企業も政府も雇傭をつくりだす努力をするべきです。

高杉晋作や坂本龍馬が生きていたらと思うのは、買い被りすぎでしょうか。

乱れた世の中から時代はヒーローを生み出します。

思いもよらぬ方向(もちろん良い方向)へ時代を導いていく平成の坂本龍馬や高杉晋作がいないかと期待しています。


 
■箱館新選組隊士木下勝蔵 2009年01月04日

箱館新選組隊士木下勝蔵(木下勝三)についてのプロフィールの大部分は、「弁天台場籠城者名簿」(『霊山歴史館紀要』第7号、1994年)を典拠としています。

「元三州吉田藩当時並士官 松井郷右衛門忰 幼少ヨリ浪人 父役名不分 木下勝三 二十二歳  生国参州 目見以下」

しかし、この史料以外に勝蔵の素性に関する詳細なデータは見あたりません。

つまり、厳密にいえばウラがとれているわけではありません。

戦後、吉田藩に預けられているので、吉田藩との関係は認められますが、吉田藩サイドにおける木下勝蔵のデータが見つかりません。

新選組関係の書籍を見ると、断定されているかのような書き方をしているものを見受けます。新選組関連のサイトも、おそらくこれをうけているものと思われるものが多いと思います。

しかし、ウラがとれない以上、典拠を述べずに断定的な記載をすることは危険だと思います。

木下勝蔵は、いつどこで新選組に参加したのかも不明です。入隊の理由もまったくわかっていません。箱館戦争において新選組隊士として弁天台場に籠もっていなければ、サイトには登場さえしなかったでしょう。

であったとしても、購入者がお金を払う、書籍については、ウラをとることと、典拠を明記することを最低限してもよいと思います。

これが購入者への誠意でもあります。そして、新選組研究の発展にとってプラスになることだと思います。

 
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三河武士がゆく