「 筆と書 」

 十.古典臨書の夢幻追及(書と筆)

 筆はあくまでも一般事務用品であるため、細く、また連続して同じ線質を出すことが要求される。 よって、狸の筆は多くても、極端に製造原価の高くつく斜筆はそれほど多く生産され、使われなかったのかもしれない。 その為、昔の書家(文学者)の中には自ら筆を作った者もかなりいたと聞く。 そして、筆は明治中頃までに水筆へと移行し、また中国から羊毛が輸入されるようになったことにより、 明らかに書は変化していくのである。

 時を同じくして、外国から、毛筆以外の文字を書く道具が入ってくると、 文学者は必ずしも書をたしなむ必要がなくなり、学校教育も普及してきた。 結果、文学者と書家、学問と書道が分離していき、書を教えることを職業とする人々の間で、 書の展覧会が開催されるようになる。これらの事から、 明治末から大正にかけて書の鑑賞方法、および学問的裏付けをする必要に迫られることになるのである。

 画筆では現在でも先が斜めの筆が生産されているが、この時すでに書筆の場合、斜筆は生産されていないために、 筆と書の因果関係を過去に遡って、理論的、体系的に調べることもなく、 「現在ある筆でいかに書くか」という字書き職人的発想によるものであり、 学問的裏付けが根底から間違っていたと言わざるを得ない。

 たとえ間違った理論でも、ひとたび確立された理論は絶大な威力を発揮する。 書道を学習する時に、基本的に筆が違うために、 古典の臨書というまるで夢幻を追い求めるような最高の教材を与えることとなるのである。

 王羲之や空海だけでなく、ほとんどの古典は筆(斜筆)にあった書き方をしている。 筆という原因から導き出された書という結果である。すなわち、“筆と書”である。

 古典の臨書は先に結果の書はあるが、「現在ある筆でいかに書くか」という考え方、手法のもとに成り立っているが故に、 際限のない努力を書家に要求することになるのである。 そして、「今も昔も使用している筆は同じものである」という理論のもとに成り立った古典の臨書、 例えば、チョ遂良の間違った筆使いによる臨書から生まれたと思われる、 剛毫で側筆を用いた書き方や、最初から硯石で筆を斜めにして書くような書き方が出てくるのである。 このことは、明らかに古筆が斜筆である証明ではないか。

 明治から大正にかけては、字書き屋とか、字書き職人と言われていたが、 昭和になってようやく今日で言うところの書家が誕生する。 そして、同じように古典の間違った臨書から出てきたと思われる、 人前で書く事もできないようなありとあらゆる書き方が出てくるのである。

 いかに努力しようとも書けない古典があるという現実の前に、 書家の中には書道における学問的裏付けが間違っているのではないか、 と疑問を持ちつつも、周到に用意された(疑問を持つほど書けるようになった時は既に遅く、 多くの場合は弟子を養成している。したがって、自分の指導が間違っていると調べる人はいないと思う)理論がある故に、 確証をもてない考えを、容易に言い出すことは非常に難しく、 また反対に、現在の筆は、技術的には歴史上最高に達していると思うのに、書けないのは筆が悪いためだと思い、 古典が書けないから筆が悪いとか、昔の筆は良かったとか、筆屋全体を軽蔑する一部の書家もいる。

 わたしが古筆を調べようと思った最大の理由がここにある。 結果、後世の書家だけではなく、筆屋にもなんと辛辣な学問的裏付けをしたのであろうか。 さらにこの理論の最大の問題は、「書家の鑑賞能力そのものまでも奪う理論である」というところにある。

 筆の製法には大きく分けて、コマ立てと水筆の二つがあり、筆には書筆以外に画筆、化粧筆などいろいろな種類がある。 イギリス製の画筆を見た時、コマ立て製法であると思ったし、また現在でも化粧筆の中にはコマ立て製法の物もかなりある。 さらに学問的裏付けをする時、水筆へと移行した年代を考えれば古筆が斜筆であることを知っていたと推測される。 それは古筆が斜筆であると知っていたために、古典を意臨で臨書したと考えられる 中林梧竹(一八二七〜一九一三)の死亡前後である大正の始め頃に、 日下部鳴鶴(一八三八〜一九二二)とその弟子、比田井天来(一八七二〜一九三九)によって、 書道の学問的裏付けがされているからである。

 現在の臨書で不思議に思うことがある。 それは、仮名は原寸大なのに漢字の場面は拡大して臨書するということだ。 仮名筆の場合は多くても二ミリ前後しか先は斜めにしていないために、 原寸大で臨書しても先が斜めであることは気が付かない可能性が高い。 これに対して漢字の場合は、三ミリ前後先が斜めになっているために原寸大で臨書すると、 斜筆であると気が付きやすいし、特に麝香筆は斜めに減りやすいために、拡大して臨書したのだと考えられる。 更に付け加えるなら、鳴鶴は彦根藩士である。 昭和四十年代に、滋賀県で現在でも一軒だけ、紙巻筆を作るメーカーがあると聞き豊橋から数名見学に行ったこともある。 以上のことからして、鳴鶴は古筆が斜筆であることを知っていたと考えられる。 反対に知らなかったとしても、結果から見れば知っていたといわれても仕方がない。 金儲けの実践論を個別経済学といえるならば、鳴鶴こそ経営学の神様といえるのではないか。 しかし、歴史を歪曲し、他者をおとしめ、自らの能力すら否定する理論である以上、 古典を超えることは出来ないのではないか。 いずれにしても現在の書家の責任ではないし、また筆屋の感知するところではない。

 古筆が斜筆であると認めることは、書家にとって、今まで習ってきた学問、 また、教えたこともあろう古典の臨書が、基本的に間違っているということを認めなければならない。 反対に、今も昔も同じ筆であるというのであれば、 すでに王羲之や空海の能力を超えていると思われる書家も自らの能力を否定しなければならない。

 戦後、マジックという文字を書く道具が出てきた。最初はフェルトのような物を、真っ直ぐ切っただけ、 次は斜めのもの、そして現代は円錐形の物が出てきている。 これは筆の歴史と同じではないか。たった数十年でこれだけ変わっているのである。 空海から一二〇〇年、古代社会から封建制社会を経て現在に至る永い年月の間、筆が同じであるわけがないではないか。 間違った理論は矯正されなければならない。このままでは書が絶えてしまうと思う。

 事務用に開発された水筆は書の学習や実用書道には適しているが、 作品となると線質が単純に出やすいために、書に面白さがない。 それに対して斜筆は扱いにくいが、線質が複雑に出やすいために、作品性のある書が書きやすい。 書の更なる発展のためにも、また書いても楽しい斜筆を復活させようと思う。

 斜筆を復活させることは、現在の書家の理論が間違いの上に成り立っている以上、容易ではない。 なぜならば「筆と書」の初版・改訂・再改訂と出すうちに、 書家の中には古筆が斜筆だとわかっても事実を無視して、水筆で酔ったような筆使いを教えているのである。 古典が最高の書であるならば、古典と同じ条件を整えるのが書道戦略ではないか。 水筆で古典の形臨をすることは、戦略的敗北のもとに戦術的勝利を積み重ねるようなもので、 すでに書く前に古典に敗北しているのである。 古筆が斜筆であると認めない以上、何のしがらみもない、後から追うものにとって見れば、 なんと都合のいい理論ではないか。斜筆で書けば簡単に「下剋上」が成立するのである。

 かつて鈴木翠軒は「李キョウ雑詠残巻」を八年勉強したと聞くが、 彼ほどの腕を持ち、斜筆で臨書をしたのであれば、おそらく一日で筆使いは理解できたと思う。

     一日を 八年のばす 書論なり

 斜筆を復活させることにより、悠久の螺旋から導き、 現在沈滞している書道界全体を活性化させるのも筆屋が生き残るためには必要なことだとも思う。

 今日英語ができなければ、国際人でないようなことを言われるが、 英語圏の人間でも国際人といわれる人は多くない。 自国の文化・伝統を正しく理解してこそ国際的に通用する人となれるのではないか。 国際人となるためにも、おおいに書を書こうではないか。

 昔から、狸は人を化かすというが、百年近くの間に多くの書家が化かされたのか、 あるいはただ単に、私が化かされているだけなのか、やがて歴史が証明するであろう。

     水筆で 古典の形臨 酔筆よ 調べてみれば 狸怪道


般若心経 斜筆にて半切に作成 (このリンクをクリックすると臨書の作品が表示されます)


 斜筆は、筆の表と裏、左右と四つの線が出る。 そのため、本紙(実際に臨書を行う紙)の横に別紙(線質確認用の紙)を置き、 筆の表裏左右のどの部分を使って書いているか、その向きと線質とを確認し、 書きたい線質に近い線が引けた際、筆の向きを変えないようにし、本紙に移り臨書を行った。 しかし、この様にして臨書を行っても、 斜筆は狙った位置から微妙にずれるし、狸は線質が変化しやすいため、随分苦労した。








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