最後の一片 第二章「季節風」その1

(2)

「真田さん、あの二人、そのまま結婚ってことになりませんか?」

「それは、それで、いいんじゃないか?」

 ヤマトのエンジンルームでは、真田志郎が、徳川太助と一つ一つチェックをしていた。定期的な、エンジンチェックは、大切なことだったが、太助にとっては、慣れたことの繰り返しである。つい、口の方がたくさん動いてしまう傾向があった。いつもなら、聞き流して、チェック作業の能率を気にする志郎だったが、今日は、太助のおしゃべりに参加した。

「長官も、粋なことしますね。長官からの命令なら、艦長も断われないし」

「それでも、ずいぶん渋っていたが」

 志郎は、思い出したのか、口元が上がった。

「ユキさんといっしょなのに、なんで、そんなにいやがるのか......。ぼくだったら、休暇付きの仕事で、恋人といっしょに行けるなんて、うれしいけどなぁ」

「はずかしいのさ、まわりに何言われるか、わかっているから」

 志郎は、メーターの動きを確認して、素早くチェックシートに書き込んだ。そして、何か思い出したのか、ぽそっと、呟いた。

「本人次第だからな、結婚問題は」

「そうですね。南十字島か......。相原さんも、いいことがあったし、ゲンのいいとこですね」

 二人が話しているのは、ヤマト艦長の古代進が、恋人の森ユキと、南十字島に空母建造のプロジェクト参加に出掛けたことであった。休暇も含め、数週間、進は、久々にヤマトから離れることになる。志郎は、普段から、進が、ヤマトだけでなく、もっと、いろいろな人と交わり、いろいろな世界を知る必要があると思っていた。しかし、ここ数年の多忙な日々は、それを不可能にしていた。地球防衛軍トップの藤堂が、多少強引にこの命を出したことは、志郎には、良いことに思えた。

「それだけじゃなくて、古代にも休暇も必要だし、いろんな人にもまれることはいいことだよ」

 すべて、チェックし終わると、志郎は、チェック事項をもう一度確認した。

「よし、今日も、合格だな」

「はあ〜、よかった。整備した甲斐があります......。ところで、真田さんは、科学局にまた戻るんですか?」

「ああ、ここに一応籍を残しておくけれど、人手不足だから、手伝わないとな」

「そうですか、他の乗組員も皆、兼業ですからね。ぼくも、他の仕事がまわってきそうだし」

「仕方がないさ。ヤマトは、普段は、どこの艦隊にも属してない特殊な艦だから。我々も、いつまでも、ここにはいられない......」

「なんか、さみしいですね」

「それでも、心のよりどころのヤマトはあるんだから、いつでも、集れるさ」

「そうですね」

 帰り際、太助は、ポンッと、ヤマトのエンジンに触れた。

「明日も来るから、いい子にしてろよ」

 

(3)

「三日間、お世話になります」

 ユキは、進の言葉を心地よい音楽の調べのように感じた。久しぶりに、二人で過ごせる......そのことが、ユキの気持ちを、高揚させていた。

 二人は、藤堂の古い友人であるバウルという人物に会っていた。二人の仲を気にした藤堂が、週末をプライベートのみに過ごせるように、紹介してくれた人物だった。

「いくつかのコテージがありますが、一番海に近いのを使ってください」

 ゆっくりとした口調だが、年令は、藤堂と同じくらいなのだろう。藤堂から、古くからの友人だと、ユキは聞いていた。バウルは、簡単に近辺が描かれた地図とカギを、進に渡した。

「たくさんのコテージができるのですね」

 地図に描かれた建物の数は、実際より多い。そして、その一番中心にあるバウルの住んでいる家は、かなり大きい建物である。進は、このコテージが個人の持ち物でないと思った。

「ははは、そうですね。藤堂は、何もあなた方には、説明してないようですね。ここは、一応、軍人の方の保養所にしようと思って造っているのです。精神科医を一度リタイヤした私に、精神的に疲れた方のケアをして欲しいと。まあ、藤堂にかつがれた次第です」

 進は、まばたきをした。

「実は、まだ、建物も造っている最中だし、スタッフの方も、なかなか集らなくて。だから、まだ、ここは、正式に開業している訳じゃないんですよ」
 バウルは、にっこりと、進に答えた。

「外部の人は、めったに来ませんから、気兼ねなく使って下さい」

 二人のホッとした顔を見て、バウルは、また、ニコリとした。

 

 荷物を持つと、二人は、バウルの家から、目的地まで歩いた。柔らかい海の風が、頬にあたって心地よい。 仕事が予定より早く終わり、翌日からの休暇を、変更して来た甲斐があった。ユキは、早く二人っきりになれたことが嬉しくて、進の少し早い歩調も気にならなかった。

 

「すてきなところね」

 バウルがこまめに風通しをしているのだろう、新しい家の匂いは、さほど気にならなかった。海からの風は、やさしい。すっと、通っていく風に振り向いたユキは、進が窓辺に立っていることを知った。

「ああ」

 海が好きな進は、うれしいはずなのに、あまり昔のように、感情をあらわにしない。この間の旅がよっぽど辛かったのだろうか。目をかけていた土門竜介や揚羽武など、何人かの部下を失ったことがこたえたのだろうか。 
 進は、ずっと、海の方を眺めていた。

 

(4)

 窓辺の進を何回も見ながら、ユキは、部屋をチェックし始めた。家族と住めるようになっているのだろうか、寝室は、二部屋あり、台所もあって、自炊できるようになっていた。ユキは、ゆっくり、一部屋一部屋、隅々まで覗き込んで、楽しんだ。ユキは、台所の片隅の棚に、ビーチボールの箱を見つけた。誰かが忘れていったものだろうか。それとも、コテージの備品なのだろうか。ユキは、箱から出すと、ボールのへそに同梱のピンを刺し、膨らませた。数色が交互にならんだボール。それは、子どもの頃に遊んでから、何年ぶりかわからないほどであった。

「古代君」

 振り向いた進に、ユキは、ボールを投げた。
 パッと、反射的に、ボールを受けた進に、

「海の方にいきましょ」
と、声をかける。ユキは、先に一人で家から出た。

 『古代君は、来るだろうか?』

 ユキは、ドアが開くのを待った。一分程経ったのか、ユキが諦めて、背を向けた時、ドアが開く音がした。

 ボールを持って出て来た進の姿を見て、ユキは、微笑んだ。
 進が近くに来て、ボールをユキに渡した。

「行こうか」

「ええ」

 ユキは、急に、少し進から離れると、ビーチボールを進の方に、投げた。

「ずるいぞ」

 くすくすくす......。進の声を聞いて、ユキは、走り出した。進の投げたボールは、ユキの足元をかすった。

「やったわね」

 今度は、ユキがボールを持って、進を追いかけた。
 二人は、浜辺まで、何度も、キャッチボールを繰り返した。いつしか、進も声を立てて笑い始めた。

「待てよ、ユキ」

「ダメよ、古代君の方が、足が早いんだから」

 海からの風で、進の投げるボールは、流されてしまう。進は、何度も戻されるボールを拾っては、風上のユキへ投げた。

 ユキは、だんだん、無邪気にボールを拾う進を見て嬉しくなった。そのうち、ユキは、波打ち際まで、追い詰められた。

「古代君、あんまり真剣にならないで」

「君だって、さっき、かなり真剣に投げてたぜ」

 スカートの裾を濡らしながら、ユキは、波の端を駈けていた。

 進が投げたボールが風に乗って浜に戻されていった。進は、ボールを追いかけて砂浜を走っていった。

 ユキは、スカートの裾を絞りながら、その様子を見ていた。

 フッと、何か起こったのか、進の動きが止まった。そのまま進は、その場に立ち尽くしていた。

 

 

 

(5)

「三日間、お世話になります」

 進は、バウルという初めて会う老人に言った。

 ヤマトが地球に帰還した後、忙しい日々が続いた。---考える暇もない---それは、それで、進にとって、精神的に楽だった。考え出すとキリがないくらい悔いが残っていた。考えていると押しつぶされそうで、そして、逃げ出したくなってしまう。そんな気持ちをだれにも言えない自分の立場に負担を感じていた。

 まわりの人の行為も仇に思えた。この三日間どう過ごそうか。

「 ......ここは、一応、軍人の方の保養所にしようと思って造っているのです。精神科医を一度リタイヤした私に、精神的に疲れた方のケアをして欲しいと。......」

 バウルの言葉に進は、藤堂が自分のことを心配して、ここに来るようにしむけたのかと、一瞬考えた。バウルの笑みは、自分を見すかしているようで、いい感じがしなかった。

 ユキのうれしそうな顔に対して、どんな顔をしたらいいのかも、進にはわからなかった。まわりの人たちの結婚を期待する姿は、進をさらに憂鬱にさせた。

『自分すら、支えていけないのに、家族など......』

 結婚の話を他人の口から聞くのは、不愉快であるし、人に会う限り、その話題は、必ず出るので、進は、とにかく、軍の施設から遠ざかりたかった。進の理由がどうであれ、ユキにとって、早く二人っきりになれたことが嬉しいようだ。だから、進は、本当の理由をユキには言えなかった。

 

「古代君」

 パシっとボールを受け止めたものの、どうしたらいいのかわからない。たぶん、ユキの方も戸惑っているのだろう。進は、ユキの出ていったドアをずっと眺めていた。

 愛しいけれど、その表現の為に、『結婚』という儀式をすべきなのだろうか。自分だけのものでいて欲しいという束縛は、彼女の輝きを失わせるのではないだろうか。

 ボールを見つめ、進は、ユキからの選択の答えを考えた。

 進は、ドアを開けた。いつでも、ユキは、進を待ってくれている。ユキの笑顔が見たい。今は、それだけで......

「行こうか」

 ユキが微笑んだ。進の心は和んだ。彼女の笑顔を見ることだけで、進は幸せだと思った。

 ボールは、二人の心を結ぶ糸のように、二人の間を行き来する。

「古代君、あんまり真剣にならないで」

 子どもの時のようについ、真剣になってしまう。ユキと二人っきりなら、こういう気持ちになれるのだ......進は、現実から離れた『今』を楽しんだ。

 進が投げたボールが、海からの風で、浜に戻されてきた。うまく受け取れず、転がっていくボールを進は追っていった。

『風が出てきたな』

 ボールを掴み、体を起こした時、木の間から見える建物で、隣のコテージの側に来ていたことに気づいた。そして、そのドアに誰かが入っていくのが見えた。

 進は、胸が痛くなる程驚いた。
 その後ろ姿は、忘れもしない、懐かしい人とそっくりであった。

 

(6)

 海からの風が少し冷たくなってきた。初老の男は、本を読むのを止め、体を起こした。つい、うとうととしてしまったようだ。時計は三時近くを指していた。

 一人、海を見ながら、本を読む......こんな、ゆっくりとした人生が自分に来るとは、考えることすらなかった。このゆっくりと流れる時間を手にしたことは、果たして、自分にとって、幸せなのだろうか。一枚一枚、ゆっくりとめくっていくページに書かれていることは、ただの記号の羅列としか目に映らなかった。

 男は、願いもしなかった、神からの時間を、ただ、ぼんやりと過ごしていた。

 

 突然、この男の耳に、二つの声が飛び込んできた。普段なら、聞きそびれていた程、小さい声だったが、どきりとした。悪いことをしたわけではないのに、人に見られてはまずいと思った。

「待てよ、ユキ」

 心臓が一瞬止まるかと思った。懐かしい声。最後に聞いた言葉は、悲しい声だったが、昔、聞き慣れた元気な声であった。

 無意識に、声のする方に顔を向けた。一組のカップルの笑い声。男は目を細めた。

「ダメよ、古代君の方が、足が早いんだから」

『古代......?』

 波打ち際で、じゃれあうカップル。男は、しばし、二人の様子を眺めていた。

『やはり、そうだったか......』

 目を閉じ、二人の姿を思い出す。二人の幸せそうな姿を見れたのは、偶然ではないだろう。

『藤堂か......』

 男は、合点が出来、イスから立ち上がった。

『今は、まだ、早い......』

 読みかけの本をそのまま閉じ、さっと、立ち上がる。もしかして、自分の姿を見られてしまったかもしれない。それでも、会う訳にはいかない......

 ばたんっ

 ドアを閉めた後も、ドアの側に立ち続けた。

『もし、このドアをノックしてきたら、私は、開けるべきなのだろうか......』

 目を閉じ、外から聞こえる音に、耳を傾けた。

 何分も立っていた。しかし、誰もドアには、近づいてこなかった。

 自分は、ホッとしているのだろうか、それとも、会ってすべてを話したかったのだろうか。さっき聞いた、懐かしい声と姿を、何度も思い出していた。

 

(7)

 波は、単調な動きを繰り返し、風は、何度も頬を撫でるのに、進だけが止まっていた。二人の距離は、変わらないのに、風や波にどんどん流され、離れていくように、ユキは感じた。
 ユキは、まっすぐ、進の立っている場所に進んでいった。砂に足を取られているせいか、重い。

「古代君」
 ユキの声は届いていないようであった。進は、一点を見つめている。進だけが、見えない壁に覆われて、周りの世界から遮断されているような気がした。

「古代君」
 ユキは、進の袖を掴んで、もう一度声をかけた。

「あ、ああ。ごめん......人を見たものだから......」

「人......、誰?外部の人?」
 ユキは、ここまで、誰かがついてきたのかと思った。

「いや、隣のコテージに住んでいる人のようだったよ」
 進の言葉とは裏腹で、ただの住人ではないことがユキにも察知できた。進の言葉には、抑揚がない。

「隣?バウル氏は何も言ってなかったわ」
「ああ......」

 進は、そのことに疑問を持った。『なぜ、バウルは、何も言わなかったのだろう。単純に言う必要がなかったからなのだろうか。もしかしたら、もしかしたら、自分たちには、言えない理由があったからではないのか......』

 進は、進の様子をしきりにうかがっている、ユキの瞳に気づいた。心配そうな顔。進は、目が合うと笑みを返した。
「僕達に言う必要がなかったのさ、きっと」

 ユキのスカートの裾が濡れているのを見て、進は、さっきまでのユキとの楽しいひとときを思い出した。我に返った進は、今日の夕方に予定があったことに気づいた。

「着替えに戻ろうか、時間もせまって来たし」
 そう言うと、進は、ユキにビーチボールをそっと渡した。進の声は、いつもと変わらず、やさしい声だった。ユキは、そのボールを受け止めると、顔を上げた。

「さあ」
 進のやさしい笑顔につられ、差し伸ばされた手を、ユキは掴んだ。

 ユキは、進に手を引かれながら歩いた。進の顔を見ようとした。しかし、進は、もう、帰る方向を見つめていた。進の背中を見ながら、ユキは思った。
『古代君は、今、どんな顔をしているのだろう?』

 進は、ドアに吸い込まれていった背中を思い出していた。
『ただの見間違い?それとも......』
 風を受けながら、さっきユキへ向けた、穏やかな顔とは違い、心の中は、一つの疑念がとぐろを巻いていた。進は、それを振払うように、風をきって、前に進んでいた。

(8)

「少し早くない?」
 ユキは、運転席の進に声をかけた。

「いや、デュ−イ司令は、この時間って言っていたよ」
 ユキは、進の答えに不満だった。

 浜から、コテージに戻ってから、進にまくしたてられ、化粧もそこそこで、車に乗るはめになったからだ。
 機嫌が悪いユキを尻目に、進は上機嫌だった。

「少しは、お洒落したかったな......」
 ユキは独り言のようにぼそっと呟いた。しかし、進は、何も答えを返してくれない。
 ユキは、そういうことをちっとも理解してくれない進に、これ以上何も言いたくなくて、窓の外の海を見ていた。
 軍からの招待客は、皆、夫人連れで来るはずである。仕事ではないのに、制服で行くのに前向きになれなかった。

「司令は、制服で来て欲しいと言っていただろう」
 進の言葉に返事もせず、きらきら光る水面を見ていた。
 進の言うことは、確かだが、いつの間にか、着飾ることから縁遠くなってしまったことが、余計、ユキの焦りを招いていた。

 南十字島基地司令、デュ−イの夫人は、有名なデザイナーであった。延期になっていたショーを、急きょ、縮小した形で、この南十字島で行なうことになり、宣伝を兼ねてか、進達は招待された。
 情報の風通しをよくすることを、近年、力を入れてきた防衛軍も、この企画に好意的であり、依頼があると、進達の出席を許可した。
 ユキも、一度でもいいから、彼女の繊細なシルエットの服を間近で見たいと思っていたので、この機会を楽しみにしていた。しかし、どこでどう歯車がずれてしまったのか、ユキの気持ちは、暗くなっていた。

 人前にでることを好んでない進も、今回は、不平を言わず出席をすぐ決めた。

『仕事だと割り切っているのかしら......』
 ユキは、進の横顔をちらっと見て、思った。

 左手の親指の先を右の指でなでた。マニキュアが少し禿げている。ユキは、窓の外の空を見上げた。

『私がもう少しわがままを言ったら、古代君は、どうしただろう』

 部下でいる時と、恋人としている時と、そんなにきっちり分けることができなくなっている。ヤマトに乗っている時や勤務時間中なら、まだしも、こうして、二人でいる時にさえ、進に従ってばかりでは、気が滅入る。

 ユキは、ため息をついた。

 

(9)

 閑散とした会場にユキは驚いた。
 多少の人が行き交うが、服装から、ショーのスタッフらしい。

「予定より、遅れたか」
 進の言葉の意味するところがわからず、ただ、進の後をついていった。

「おい、こっちだ」
 良く通る声が、左の方から聞こえてきた。
 振り向くと、背の高い男が、手を大きく振っている。

「デュ−イ司令だ」

 進は、手を上げて、気づいたことをデュ−イに告げ、少し早足で近づいていった。
 ユキは、進についていくのが精一杯だった。

「すみません。少し遅れましたね」
 進は、にこやかにデュ−イに話しかけた。

「いや、このぐらいなら、大丈夫さ。サラも、準備に追われて、少し遅れていたから」
 デュ−イは、ユキの方を見て、ニコリと歯を見せて笑った。

「約束通り、制服で来てくれてありがとう」

「いいえ、そんなこと......」
 ユキは、言葉を濁した。できるなら、制服は嫌だったことは、この場では言えない。

「奥様のショーを間近で見るのを楽しみにしてました」

「ありがとう。私の妻サラも、あなたが来るのを楽しみにしてましたよ」
 デュ−イは、話をしながら、視線は、ユキの肩のむこうを見ていた。

 デュ−イの目がくるりと輝いた。ユキが振り向くと、一人の女性が近づいていた
「ユキ、彼女が私の妻のサラだ」
 さっぱりとしたシャツに黒いパンツの姿は、シンプルながら、彼女のセンスの良さがうかがえた。

「今日は、ユキさん。うわさ通り、きれいな方だわ。会えてうれしい」
 そっと差し出された手を握り、ユキも答えた。
「私も、有名なデザイナー、サラ・オースティンとこんな近くで会えるなんて、幸せです」

 サラは、二人の男にニコリと微笑むと、ユキの手を引いた。
「それじゃあ、ちょっと、こっちに来ていただきたいんだけど、いいかしら、ユキさん」

『えっ』
 ユキは、進の顔を見た。進は頷いて、サラの言葉に従うよう合図をした。

「女性は、女性同士、話があるみたいだから、こっちは、男同士の話でも、しましょうか?」
 デュ−イの言葉に進は、再度、ユキに行くように促した。

「行きましょう、ユキさん。ほんのちょっとだけだから」

 驚くユキを、進とデュ−イは、笑顔で見送った。

 

(10)

「あの、わたし.....」
 ショーのモデルたちの部屋を抜け、奥の部屋に連れられたユキは、事情がつかめず、戸惑っていた。

「大丈夫よ、何もしないから。ここの部屋よ」
 サラは、奥の部屋のドアを開けた。
 何着か置かれている服は、まだ、直しの途中なのだろうか。数人の縫子たちが忙しそうに縫っている。

「ごめんなさいね、せわしい部屋で」
 部屋に入っても、縫子たちは、顔をあげる訳でもなく、仕事を続けていた。

「もう、すべて直しが縫えたら、私の仕事も完了なの」
 サラは、縫っている途中の服を眺めながら、ユキに声をかけた。

「じゃ、ちょっと、服を脱いで」
「えっ」

 そう言うと、サラは、ユキの上着のボタンに手をかけた。ボタンを手で押さえようとしたユキは、サラの微笑みを見ると、それ以上抵抗できなかった。
「だいじょうぶよ」
 サラの手は、魔法をかけていくように、さらさらと、服を脱がしていった。いつの間にか、他の女性も、手伝って、ユキは、違う服を着せられていた。

「少し、ウエストがだぶついているわね」
 ウエストのあたりをつまみ、サラは、服に待ち針をつけた。

「脱いでもらいましょう。ウエストを直したいわ。お願いね」
 サラにそう言われた女性は、ユキの体からそっと服を剥がした。その間、サラは別の女性と何か話をしていた。
 ユキが周りを見渡すと、皆黙々と、自分の仕事をこなしている。時間ぎりぎりまで、最善を尽くそうという雰囲気が部屋に満ちていた。

 そうこうしていると、男性が一人、部屋に入ってきた。そして、下着姿のユキの側に近づいてきた。

「あ、あの......」
 ユキは、からだの前面を隠そうと、手でからだを押さえた。それに気づいたサラは、手に持っていた服を脇の女性に渡し、近くのイスにかかっていた薄いガウンをユキにかけた。
「ごめんなさいね、こんな仕事していると、下着姿や裸の姿を見なれてしまっているから......」

「いえ、あっ、すみません......」
 状況がわからないユキは、ただ、人形のように立っているだけだった。

「髪は、アップがいいわ。服を直している間に、メイクとヘアお願い......」
 サラは、そう男に言うと、さっきユキが着ていた服を広げて、縫子に説明し出した。

 着ている時は、だいたいの色しか気づかなかったが、深い青色の服であった。光の加減で、鮮やかにみえたり、黒っぽく見えたりする。

 服を見ていたユキは、突然男に腕を掴まれると、思いっきり手を引いた。
「あっ、ごめんなさい」
「いえ、驚かしてすみません。あそこの鏡の前に座ってもらえませんか」
 男は恐縮してしまったようである。

 ユキは、首を軽く振り、男の指示通り、鏡の前のイスに座った。

 

(11)

 鏡に映る自分の姿は、テレビか何かの映像を見ているようであった。

 自分では、使ったことのない色が肌の上にのり、ブラシが走る。そして、見事なほどの手さばきで、髪がまとめられていった。
 医局勤めのくせが残っているせいか、今までは、こざっぱりなメイクしかしてなかった。鏡の前に、所せましと並べられた化粧の道具が、特別なものに見える程、ユキは、自分の変化に驚いていた。

 鏡の中には、見慣れない自分がいた。

 

「きれいだわ、長官の秘書でなければ、モデルにスカウトしたいわ」
 いつの間にか、サラが近くに立っていて、ユキの姿を眺めていた。

「こっちの方は、いいかしら。服の方の直しは出来上がってきたけど」
 サラは、男に声をかけた。
「ええ。これで終りです」

 ユキの唇の口紅を、ティッシュで押さえていた男は、立ち上がった。息をするのも、迷惑ではないかと思う程、真剣だった男の顔は、満足げな笑みを浮かべていた。

 さっと、サラが広げたドレスにユキの身は包まれていった。ユキは、自分の姿を見るのが少し恐くなった。

「すてきよ。鏡を見てごらんなさい」
 ユキの様子に気づいたサラが、ユキの手を取った。ほっそりとしたラインのドレスのせいか、からだがいつものように動かない。サラは、全身が映る鏡の前にユキを立たせた。

「?」

 ユキは、シンプルだが、体に沿った柔らかなラインのドレスに包まれていた。歩くと、深く入ったスリットから、足が見える。ユキは、少し不安になった
『この姿で、人前に出るのだろうか』

「良く似合うわ。この服は、古代艦長が選んだのよ。あなたのこと、よくわかっているのね」
「えっ」
 目をぱちっと開けて驚くユキに、サラはくすっと笑った。

「ごめんなさいね。あなただけに秘密にしてたから。これは、古代艦長から頼まれてたの」
「古代君から?」
「そう」
 ユキは、鏡の中の自分の姿を見た。

「今日は、皆、夫人同伴でしょう。古代艦長も、あなたを同じように連れて行きたかったらしいの。だから、今日は、制服じゃない服を着せたいって」

 鏡に映るサラを見ていたユキは、再び、自分の全身を見渡した。

『本当に古代君が?』

(12)

「......戦いは、人々を無知にさせます。私たちは、今までのラッキーな結果に踊らされてはならないんです。......必要以上の戦闘は、戦場にいる者を生け贄に差し出しているようなものなのです。機械は、設計図があれば、何度でも作ることはできます。しかし、人は、違う。我々は、いかに死者を減らすかということに、もっと、心を砕くべきだと思います」

 デュ−イは、ユキを見送る進を見ながら、進の会議での発言を思い出していた。
 進以上、地球の防衛に心砕いている者はいないだろうと、デュ−イは思った。今まで、彼ほど、戦場で、人の生き死にを見たものはいないのだから。

『あの男は、一生、自分の人生と生活を地球と人類の為にすり減らしていくのだろう』

 デュ−イは、若い進を不憫に思った。甘い生活は、彼自身許さないだろう。
 こうして、仕事から離れれば、ただの一人の青年なのに。

「どうしたんですか?」
 進の言葉にデュ−イは、ニコリと微笑みを浮かべた。

「そうだなあ、彼女との馴れ初めは、どうだったのかとちょっと、考えていたのだが」

 とん

 デュ−イの大きな手が進の肩に乗った。
 がっちりした腕に、進の体は、完全につかまった。

「待っている間、あっちの方で、少し、男同士の親ぼくを深めようじゃないか、古代艦長」
 進は、少しあっけに取られたが、デュ−イの喋り方に思わず吹き出してしまった。
 デュ−イは、再度GOサインを出すと、二人は、いくつかのアルコールのボトルがのっているテーブルに向かった。

「あんまり、深酒にならない程度にして下さいね」
 ボトルのラベルを確認しながら、物色しているデュ−イに、進は声をかけた。デュ−イは、手を上げ、その言葉に答えた。

 デュ−イは、盃を重ねるごとに、益々大きな笑い声を発していった。しかし、進は、その笑い声を心地よく感じていた。
 心がほぐれる......デュ−イの豪快さなのだろう。
 やがて、デュ−イは、自分とサラの話をし始めた。

「......彼女は、遊星爆弾の後遺症でね、子どもが産めなくなったんだが、ああやって、作品を産んでいくのさ。今は、結構、二人とも納得できて、うまくいっているけれど、大変だったよ、子どもが産めないと医者から言われた時は」
 いつの間にか進は、完全に、早口にまくしたてるように話すデュ−イの聞き役になっていた。だが、デュ−イは、話ながら、笑いながら、さりがなく進の反応を確認していた。

「『君だけがいてくれればいい』って、何度言ったことか。信じてもらえなくてね。こっちも、彼女がどれだけ苦しんでいたかってことに気づけなくて......」

「どうしたんですか?」
「それは......」
 進が乗り出して聞いてきたため、デュ−イは、わざと勿体ぶって、言葉を止めた。

「それは、偶然......おっと、お出ましだ」
 進は、その言葉に、振り向いて、後ろを見た。デュ−イは、進の刻々と変わっていく横顔に満足していた。

『そうさ、あんたには、あんな女神が側にいるんだ。地球のことなんか、二の次でいい』

 サラに連れられたユキが、ドレスの裾を気にしつつ、進達に近づいてきた。

 

(13)

 ユキは、鏡の前で、自分の手を握りしめた。きれいに塗られたマニキュアは、今日のことが夢ではなかったと実感させてくれた。

 たくさんの視線の中、ずっと、自分だけを見つめてくれた。久々に見る、人前でのにこやかな進の姿だけで、ユキは、満足であった。まわりの風景は、映像のように、ただ流れていただけだったが、進の顔だけは、細かく憶えていた。

「シャワー、先に浴びたから」
 バスローブを羽織った進が、ドアの向こうから声をかけた。

 化粧を落としているユキは、目を閉じた。
『この魔法が解けませんように』
 ユキは、心の中で呟いた。そっと、目を開けてみる。髪を止めていたピンを外すと、髪がばさっと落ちた。鏡に映っていたのは、いつもの見なれた自分であった。

 シャワーを浴びていてもユキの不安は募るばかりだった。
 突然夢から醒めて、さっきのできごとがすべて夢だったら......。こんなことばかり考えている自分は、どうかしているのだろうか。
 ユキは、再び進の笑顔を思い出した。それだけで、ホッとすることができる。ユキの心の中に、不安と喜びが交互にやってきていた。

 ユキは、シャワーの水を顔に受けながら、髪を洗った。シャンプーの泡が、髪の毛の先から、背中へ流れていく......

 せっけんの流れる感触を感じながら、ユキはふと、浜辺でひとり佇んでいた進の姿を思い出した。どこかへ行ってしまいそうな、遠い目をしていた。風が、波が、規則正しく繰り返す中に、つっ立っていた進は、あの時、何を見、何を思っていたのだろうか。

 そのまま、風景にとけていく進の姿が 、ユキの脳裏に浮かんだ。進のすべてが、海の波に消されていく。砂でできた、幻のように。

『行かないで!』

 ユキは、シャワーの水を止めると、バスタオルを巻き付けた。
 

 ばっ

 ユキは、ドアを思いっきりひっぱり、部屋の中を見た。窓から、満月に近い月が、西の空におりていくのが見える。電気が消されていたが、柔らかな光が、進のいる窓辺を照らしていた。

 その光を受けていた進は、じっと、外を見つめていた。普段なら、物音にも敏感なのに、今は、何かに取り付かれたように、からだの神経を一点に集中させていた。進のその姿は、海辺で見た姿と同じだった。
 ユキは、胸が閉められる程、苦しくなった。

「古代君!」

 ユキは、思いっきり、叫んだ
『どうか、古代君が振り向きますように......』

 ユキは、進がこのまま、振り向いてくれなかったらと、考えるのが恐くて、もう一度叫んだ。

「古代君!」

 

(14)

 深い海の色を彷佛とさせるドレスは、ユキの肌の白さを際立たせていた。進は、ユキの美しさを自慢したい気持ちが、こんな形で表れるとは、不思議でならなかった。自分だけの宝石を皆に見せびらかしているような、そんな子どもっぽい気持ちがあったことを、自覚した。
 ヤマト艦内での、抑圧された気持ちが吹き出たのか......進は、自己分析を始めた。

『焼きがまわったかな』
 解答の言葉とは裏腹に、進の頭の中はスッキリしていた。

 

「シャワー、先に浴びたから」
 ユキの部屋の前で言うと、頭をタオルで拭きながら、自分の部屋にむかった。

 窓からは、レースのカーテンの隙間をぬって、柔らかな光が、部屋に差し込んでいた。 
 進は、窓に近づき、窓を開けた。やさしい風と波の音と、そして海の香りが進のところに流れ込んできた。

 進は、ほっと、息を吐いた。
 今日は、満月を少し過ぎた月のようだ。
 背伸びをしながら、大きく息をすった。その時、ちらりと、木々の隙間から明かりがのぞいた。

『背中、そっくりだった......』
 進は、その明かりの家に入っていった後ろ姿を思い出していた。

 ヤマトから運ばれていく遺体を見送ったのは、自分ではなかったか。それなのに、どうしても、あの後ろ姿を否定できない。

 ふっと、明かりが消え、林は闇になった。
 あの背中の人は、眠ったのであろうか。進は、確実に人が住んでいるだろうその家に、心が釘付けになっていた。

『今からでは、失礼だろうか』
 進は、さっき、時計を見た時、12時近かったことを思い出した。

『明日、偶然を装って、訪ねて行くのは、変だろうか』
 そう思っても、今すぐにでも、確認したい気持ちを押さえることができない。

 進は、明かりの消えた隣のコテージを、ずっと見つめていた。
 目の奥には、昼間見た、ドアに隠れていく背中の映像が、生々しい程鮮明に残っていた。

 

「古代君!」

 進の意識は、完全に、外に注がれていた。

「古代君!」

 今度は、進の心の中で、何かが弾けるように、その声が届いた。
 振り向くと、そこには、ユキが立っていた。

 

(15)

 髪から落ちる雫が微かな光を受けて、輝いていた。ユキは、ほとんど濡れたままで、タオルを巻いてきたらしい。

 進は、幼い頃、母に読んでもらった『人魚姫』の話を思い出した。
 ユキの姿は、人魚姫が、人となり、海から上がってきた時の姿を彷佛させた。---悲し気で、不安に満ちた瞳---
 ドレスを着ていたユキも美しかったが、月夜の人魚姫の美しさも人知を超えた美しさがあった。

 進は、傍らのタオルを掴むと、ドアの入り口に立ったまま動かないユキに歩み寄った。

「どうした?」

 進がタオルをそっと、頭にかけても、ユキは動かない。
 進は、うつむいているユキの顔を覗き込んだ。

 頬に雫が流れ落ちていく。その雫が月の光に照らされ、宝石が流れていくように見えた。

 進の動作に気づいたのか、ユキが顔を上げた。その時、進は、雫が水滴でなく、涙だと気づいた。ユキの瞳は、一杯にたまった涙で、輝いていた。

「どうしたの?」

 今にも目からこぼれ落ちそうな涙を指先でそっと拭いながら、進は、やさしい声で、もう一度声をかけた。

「.......恐いの......」

 ユキのくちびるが開き、小さな声を発した。進は、意外な言葉を聞いて驚いた。

 さっきまで、あんなに、幸せそうな笑顔をし、恥ずかしさもあってなのか、普段より紅潮させた肌をしていたユキの顔や身体は、月明かりのせいか、青白かった。

「あなたがどこかに行ってしまいそうで......」

 進は、何を言われているのか、わからなかった。ユキもその反応に、理解をされてないと判断したのか、声を荒くし、体ごと進にぶつかってきた。

「すごく幸せなのに、すごく嬉しいのに、恐いの。時々、あなたが何を考えているのか、わからなくて。どこかに消えて行ってしまいそうで、恐いの」

 そっと、抱き締めたユキの肩は揺れていた。きっと、泣いているのだろう。進は、自分が抱えている、不安定な心がユキにまで伝わっていたことを知った。
 たくさんの不安や悲しみや衝動を知らず知らずのうちに、 抱え込んでいたのだろう。ユキに言えなかったのは、艦長として、不安な材料を部下に感じさせたくなかったという気持ちがあったからだったかもしれない。
 進は、うまく愛情を表現できなかった自分に腹を立てた。目を閉じ、ユキの体を受け止めてあげることしかできない......。

 満たされない二人の心は、同じ思いであった。今は、心が満たされなくても、何かで埋めたい......。二つの身体は、重なりあい、そして、闇の中に沈んでいった。

 波の音だけが、同じようなリズムで、二人の頭の中に反響していた。

 

 

(16)

『つぅっ』

 進は、腕の違和感で目が醒めた。どうやら、しびれたらしい。
 ユキの身体を抱き締めていた腕が、いつの間にか、腕まくら代わりになっていたらしい。
 ユキを起こさないように、そっと、腕を抜いた。ユキは、何ごともなかったのかのように、眠り続けていた。 

 進は、しびれた右腕をさすりながら、ユキの細い肩から腰への曲線を眺めた。柔らかな乳房、引き締まったウエスト......。うっすら汗が出てくると、さらに密着感が感じられた、極め細やかな肌、柔らかな唇、すらっと細い指。進は、昨晩の感触を思い出していた。

 進は、そっと、乱れて頬にかかった髪の毛を耳もとに戻した。安心しているのか、目を醒ますことなく、静かな寝息を立てている。ユキをジッと見ていた進に、心の底まで満たしてくれるやさしい気持ちが涌いてきた。それが、何なのか、よくわからなかったが、何年ぶりかで感じる、深い安堵感でもあった。

 

 さら......

 カーテンが揺れ、すーっと涼しい風が進の肌に流れてきた。

『窓が開いている?』

 ちらっと、見た時計は、6時を過ぎていた。もう、外は明るい光に満ちていた。
 窓を閉めようと枠に手をかけた時、窓から見えた隣のコテージの窓が、急に暗くなった。

『電気を消したのか......』

 そのまま、手をかけたまま、進は、何か見えないか目をこらした。

 進は、また、昨日、浜辺で見た後ろ姿を思い出した。進の頭の中でスローモーションのように映像が流れていく。

『もう、起きているのか?』

 さらさら......

 カーテンが揺れる音で、進は、止めていた手を動かし始めた。窓を閉めた後も、窓から離れることができない。
 振り向いて、ユキの寝顔を見ても、進は、頭の中の考えを捨てることができなかった。

『訪ねていったら......』

 目を細めて、隣のコテージの窓を見つめた。

『それで、諦めることができる?』

 進は、着替え始めた。

『気がすめば、自分さえ納得できれば.......』

 進の気持ちは、もう、一つだった。

<散歩に行ってきます。 進>

 簡単な走り書きをテーブルに残し、進は、ドアに向かった。

 

(17)

 進は、隣のコテージのドアの前に立ち、深呼吸をした。海の薫り、草木の薫り......。
 幾つもの死線を越えてきたきたはずなのに、『こんなこと』---ただ、人の家に訪ねること---に対して、心と身体の動揺を押さえることができなかった。呼び鈴を鳴らすことにさえ、戸惑い、幾呼吸かの間、気持ちを整えていた。

『これで終わるのだ』
 進は、手を伸ばした。

『反応がない。留守なのだろうか』
 もう一度鳴らすべきなのか、迷った。腕を伸ばそうとした瞬間、

 がった、がちゃ

 扉の鍵がはずされ、ドアの隙間が広がった。
 進は、隙間から現れた人物を見て、驚いた。

「古代さんでしたか」

 進に声をかけたのは、バウルだった。
 進は、思ってもみない展開に、言葉が詰まった。

「どうしたのですか?」

 バウルの目は、進の動揺した目を捕えていた。進は、いたずらをみつけられた子どもの様に、動揺した
『何か言わなければ......』

「あ、あの、昨日、この家に、人が入って行くのを見たので、少し気になってしまって......」

 しどろもどろに話す進に、バウルは、にっこり微笑んだ。

「すみませんね。お話ししなくて。ここには、わたしの古くからの友が、療養で、長く滞在していたんです」

「あ、あの......」

 ここで、話が終わってしまったら、何もかも、うやむやになってしまう。進は、焦った。しかし、バウルの笑顔に対して、どうしても言葉が浮かばなかった。

「どうですか、ここではなんですから、部屋に入って、コーヒーを飲みませんか」

 すべてを見すかされている......進は、バウルの顔を再度見た。
『ここで帰った方がいいのかもしれない』
 進の気持ちは揺らいでいた。しかし、部屋に入るように手招きしているバウルに断わることはできなかった。

「では、おじゃまします」

 重い一歩だった。

 がちゃっ

 進の後ろから、ドアが閉まる音が響いてきた。

 

(18)

 部屋の中は、コーヒーの香りが染み付いていた。そして、進は気づいた。

「片付けずに、すみませんね」

「いえ......」

 自分たち以外には、誰もいない。片付けられた部屋。 飲みっぱなしになっている二客のコーヒーカップ。
 部屋を見渡している進を横目に、バウルは、新しいカップに、コーヒーをいれていた。

「ここにいた私の友は、さき程、帰っていきました」

「えっ」
 進は、その言葉で、バウルに視線を向けた。
 バウルはゆっくりうなづいた。進は、言葉を飲み込んだ。

『さっきまで、いた?』

 バウルは、ネルの袋にさっと、お湯を注いだ。それは、まるで、手品のように、大きな動きだった。ネルの袋からは、柔らかいブラウンの滝がカップに流れ込んでいた。しかし、進の気持ちはそこにはなかった。

「あなた方の声を聞いて、日本の家族の元に帰って行きました」

「日本の家族?」
 バウルは、小さくうなづいた。

「彼も日本人でした。あなた方の日本語を聞いて、懐かしくなったとか......」

「そうですか......」
 進の肩が、下がった。バウルは、皿の上にカップを乗せ、進の方に歩み寄った。

「何か、ありましたか?」
 バウルの差し出すカップを皿ごと受け取ると、進は、カップの中の液体を眺めていた。息を吸うと、香ばしい香りが胸にいっぱいになった。
「いえ、昨日は、浜辺で騒いでしまったので、御迷惑だったのではと、心配でした」
 進は、バウルに笑顔で答えた。口をつけたコーヒーは、苦く感じた。

 あまりにもあっけない結末に、進は、落胆していた。バウルは、そんな進の様子を見ながら、先ほどの友との会話を思い出していた。

『若いのだ、まだ』
 バウルの心は、ざらざらとしてきた。それは、罪悪感......進の落胆は、自分の言葉に起因している。

 進の姿を見送りながら、バウルは、未だ、迷っていた。
『本当のことを、言わなくてもよかったのか?』

 小屋を囲んだ木々に、進の背中が見隠れしていた。

 

(19)

 戸を開け、中の様子を伺いながら、進は、ベッドルームの方へ歩いていた。
家の中は、物音ひとつせず、誰も起きている様子はなかった。進はホッとしながら、部屋のドアをゆっくり開けた。

ユキは、出かけたときと同じように、小さな寝息を立てていた。
 進は、ベッドの隅に、そっと、腰をおろすと、ため息をついた。

 

 バウルは、カップを片付けながら、欠伸をした。ゆっくり眠りたい......。バウルは、昨晩から、ほとんど寝てなかったことに気付いた。

 

 夜中、深い眠りの中、電話が鳴り響いた。朦朧としながら、

電話の話を聞いたバウルは、あせった。

 

「こんな、夜中に?」

『電話で何か言っても、彼の気持ちは、変わらないだろう』

 バウルは、簡単に着替えると、外へ飛び出した。

「なぜ、今、行くのか?」

 開口一番飛び出した言葉に、相手は、動じることなく、荷物の片付けから、手を放さなかった。

「明日では、ダメなのか?」

 バウルは、わかっていた。明日で良かったら、こんな夜中に電話などしてこない男である。

「今、会うわけにはいかない......」
 小さく答えた言葉を、バウルは、聞き逃しはしなかった。

「いつかは、いつかは、わかることだ。君が生きていることは」

 バウルの言葉に男の動きは止まった。男は、振り向き、視線だけバウルに向けた。

「とにかく、今は、まだ、早い」

「なぜ?」

「早いのだ」
 男は、答えると、また、手を動かし始めた。

「騙していて、すまなかった......」

 ぽつりと出た言葉。しかし、バウルは、心の支えがとれた気がした。どこか、後ろめたさを感じていた。二人の再会を取り持ったことに。あの青年が、あんな顔をしてなければ、幸せいっぱいな恋人 同士であれば、こんな思いをしなかっただろう。『早い』と言うのが、何を表しているのかわからなかったが、バウルも、今でない方が、いいのかも知れないと思った。

 

 バタッと鞄のしまる音がした後、男は振り向き、ひげの中の 口元が、にやりとした。

「最後に、コーヒーを入れてくれないか」

「ああ」

 二人は、長い時間語り合った。昔の、そして、今の話を。

 

(20)につづく

 

  

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