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近況報告



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西暦 エ ピ ソ ー ド 
2023年   01/29 第167回 ISC・21例会  02/19 第168回 ISC・21例会  03/01
    向山緑地梅林園の春まつり  
04/23 第169回 ISC・21例会
   
2022年     02/11 今年の梅林  03/06 第158回ISC・21例会  04/16 第159回ISC・21例会  05/29 第160回ISC・21例会
 06/26 161回ISC・21例会   07/30 フリーデンスファートをめぐって
    2023/03/05に内容を補足しました
 07/31第162回ISC・21例会  09/23 第164回ISC・21月例会
 2021年 02/28 ISC・21第150回例会   07/18 ISC・21第151回例会  10/17ISC・21第151回例会  11/17 ISC・21第154回例会
 2020年   01/25-26 ISC・21第145回例会
  02/22ISC・21第146回例会
      豊橋市民センター(カリオンビル)
  09/26 ISC・21第147回例会  11/15 ISC・21第148回例会
 12/11 SC・21第149回例会      
 2019年   04/20
ISC・21第136回例会
(神戸市外語大)
 05/18
ISC・21第137回例会
(奈良教育大)
  06/22 
ISC・21第138回例会(大阪学院大)
 07/20
ISC・21第139回例会(椙山女学園大) 
09/20
クリムト展と中村敏夫文庫
  12/07-08
      スポーツ史学会第33回大会
   
2018年     01/27
ISC・21第137回例会(奈良教育大) 
  02/27
ISC・21第123回例会
(椙山女学園大)
 03/29
ISC・21第124回例会(大阪学院大)
 05/25古文書講座に参加しました
05/27
素晴らしい本が誕生しました
 06/10 グループ展を観てきました  06/19 柳田国男『山の背比べ』  07/12 暑中お見舞い
 07/24 大相撲名古屋場所 09/07 Buehrle Collection   11/15 第131回ISC・21月例会
(椙山女学園大)
 
 2017年   01/28
ISC・21第112回例会(奈良教育大) 
03/05
ISC・21第113回例会
(大阪学院大)
04/22
ISC・21第114回例会
(椙山女学園大)
 05/27
ISC・21第115回例会(神戸市外語大)
 2016年  04/16
 ISC・21第103回例会(大阪学院大) 
 07/02 
 稲垣先生追悼シンポ(青山学院大)
 07/18 
      大相撲名古屋場所
 9/24 
 ISC・21第108回例会(神戸市外語大)





2023年4月23日

第169回 ISC・21月例 (REMOTE: 松浪 稔 世話人 (東海大学)    
 プログラム

           13:00~    情報交換(近況報告)

           14:00ごろ~  嘉戸一将 著 『法の近代  権力と暴力をわかつもの』(岩波新書 2023年2月)を読む

                                         ① 瀧元さんによる話題提供
                                         ② 嘉戸さんによる応答・
                                         ③ 西谷さんによるコメント
                                         ④ フリートーク
 本日話題になった書籍・動画など  
 ・ 篠田謙一 著 『人類の起源-古代DNAが語るホモ・サピエンスの「大いなる旅」』 中公新書 2022年  
 ・ 織田淳太郎 著 『審判は見た!』 新潮新書 2003年 
 ・ 野原耕栄、『沖縄伝統空手「手」TIYの変容 「手」(TIY)を知らずして「空手」をかたることなかれ』 球陽出版 2007年
 ・ 仲宗根源和編 『空手道大観』 緑林堂書店 1938年初版 1991年復刻版
  ・ 『琉球サウダーヂ 尚巴志第1話「鉄」』 https://www.youtube.com/watch?v=9si2_lO8hHE
 ・ 『日本人の知らない日本へ「沖縄 隠された武道」』 https://www.youtube.com/watch?v=Rjgjq7Dv0rE 
 ・ 『2012年世界空手選手権決勝 宇佐美里香』 https://www.youtube.com/watch?v=iiiznDpoapQ
 ・ 法の近代 https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784004319603
 ・ 主権論史 https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784007312359 
 ・ 法の力 https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784588099397
 ・ 世界化を再考する http://repository.tufs.ac.jp/handle/10108/24057  
 ・ 不死のワンダーランド https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784061592407


2023年3月1日

  向山緑地公園内 梅林園の春まつり
   
   
   

2023年2月19日

第168回 ISC・21月例研究会 (REMOTE: 瀧元誠樹世話人 (札幌大学)  
 瀧元誠樹世話人による「第168回月例会(Zoomミーティング)報告」
 プログラム

    1.田里千代先生  (天理大学)   「台湾・台南の塩水蜂炮:躍動する神と躍動させられる人」
 
      台湾・台南の「塩水蜂炮」を、①スポーツと暴力性:エクストリームスポーツ、②スポーツと空間:祝祭空間と生活空間との観点から、    フィールドワークのご報告していただきました。疫病が流行ったなかで悪霊退散祈願祭として起こったとされる、無数のロケット花火    や爆竹が見舞う奇祭性に興味関心を惹きました。

     2.アレクセイ・ゴルビリョフ先生  (モスクワ国立大学付属アジア・アフリカ諸国大学)
    「ロシア帝国・ソ連での柔道の伝播とサンボの成立。オシチェープコフの「国立中央体育大学式柔道」を中心に」

      ワーシリー・オシチェープコフの生涯と、第一次世界大戦とソ連の誕生を背景に、講道館柔道が実戦的な徒手格闘術へ変容し、か    つ、各民族格闘技を集約しつつフリーレスリングへ近代スポーツ化していく模様をご報告していただきました。ゴルビリョフ先生は、流    暢な日本語で、多岐にわたる質問や意見にも丁寧に応答していただき、非常に刺激的で有益な内容となりました。
  3.本日話題になった文献

・ 和良コウイチ    『ロシアとサンボ ―国家権力に魅入られた格闘技秘史―』    普遊舎  2010年

・ 藪耕太郎    『柔術狂時代 20世紀初頭アメリカにおける柔術ブームとその周辺』    朝日選書  2021年

・ 笠井潔、他    『対論1968』    集英社新書  2022年

・ 山本義隆    『近代日本一五〇年 ―科学技術総力戦体制の破綻』    岩波新書  2018年

・ 竹内敏晴    『セレクション竹内敏晴の「からだと思想」』    全4巻    藤原書店  2013~14年 

2023年1月29日 

第167回 ISC・21月例研究会 (REMOTE: 竹村匡弥世話人 (ISC・21 特別研究員)  
 瀧元誠樹世話人による「第167回月例会の要点と話題に上がった書誌情報」
13時からの近況報告を経て、14時から船井先生によるご発表「トレーニング・ウェアの外交官 ―東ドイツ建国期の一人のアスリートについて」がありました。
その内容は、自転車ロードレース選手グスタフ=アドルフ・シューア(以下、テーヴェ)の1950 年代から 60 年代末にかけての活躍と、東ドイツの人民議会や再統一後の連邦議会議員としての心情について、東ドイツの歴史や社会状況と自伝に描かれているテーヴェの言葉をもとに解説してくださいました。

15時過ぎからは、スポーツ史学会第36回大会シンポジウム「『生きる』から問うスポーツ ―感染症の時代の身体―」を振り返りました。
シンポジウム設定趣旨にあったキーワードの一つ「全能の身体」について、「不可能な身体」「有能感」「有用性」「全能と勘違いしている身体」「看板としている身体」などの言葉をもとに理解を深めました。
また、「個と個を結びつける界面に生命がある」をもとに意見交換しました。
そして、シンポジウムで西谷先生の言葉にありました「問われもしないのに大きな問いにするのがスポーツ」を月例会の通底するテーマにしていきましょう! と話題になりました。

  話題に上った書誌情報
  Gustav-Adolf Schur, Der Ruhm und ich, Berlin, Spotless im Verlag Das Neue Berlin, 2011
 Gustav-Adolf Schur, TÄVE Die Autobiografie Berlin, neues leben, 2011(2001)
  P.Kuehnst, Der missbrauchte Sport, Koeln Verlag Wissenschaft und Politik, 1982
  河合信晴 『物語 東ドイツの歴史 分断国家の挑戦と挫折』 中公新書 2020
  西谷公明 『ウクライナ通貨誕生』 岩波現代文庫 2023
  和良コウイチ 『ロシアとサンボ』 晋遊舎 2010
  安井眞奈美、他編『想像する身体』(上下巻)臨川書店 2023
  安井眞奈美『狙われた身体』平凡社 2022
  甲野善紀・林久仁則『『古武術に学ぶ体の使い方』NHKテキスト趣味どきっ! 2022年2‐3月NHK番組『明鏡止水 ~武の
 KAMIWAZA~』
  西村清和『遊びの現象学』勁草書房1989KAMIWAZA
  中井久夫『戦争と平和』人文書院 2022
  竹内敏晴ほか『からだが生きる瞬間』藤原書店 2018
  竹内敏晴「情報以前 ―聞くことの倫理」学芸総合誌・季刊『環 ―歴史・環境・文明 vol.20  「情報」とは何か』藤原書店 2005
21世紀スポーツ文化研究所 第168回研究会開催のご案内
  2月例会第168回研究会を次のように開催いたします。
  なお、田里千代先生(天理大学)に話題提供していただけるかどうか調整中です。

 日時:2月19日(日)13時~17時
 形式:Zoomミーティング
    13時~13時40分 近況報告・情報交換
    13時45分~14時45分
       ※調整中
    15時~17時
       アレクセイ・ゴルビリョフ先生(モスクワ国立大学付属アジア・アフリカ諸国大学)
       「ロシア帝国・ソ連での柔道の伝播とサンボの成立。オシチェープコフの「国立中央体育大学式柔道」を中心に」
       ゴルビリョフ先生は、大学では日本史(中世史・武道史)の研究・講義をされるとともに、空手や居合道を日本にて修行され  現在モスクワ支部長としてご活躍の方です。発表は、日本語で行っていただけます。
   
 Zoomアカウント等は改めてお送りします。
船井廣則 口頭発表「トレーニング・ウエアの外交官 ―東ドイツ建国期のひとりのアスリートについて―」全文

はじめに   
 今回は1950~60年代、21世紀の現在からは半世紀を超える過去である、ドイツ民主共和国(以下東ドイツ)建国期の国民とそのスポーツにフォーカスを宛てようと思います。
 1990年10月3日に東西ドイツの「統一条約」が発効しました。これによって、東西分断国家の一方であった東ドイツは、その建国からわずか41年でその歴史に終止符が打たれました。もう一方の西ドイツはといえば、東ドイツの旧5州と東ベルリンを併呑して、憲法も従来の「基本法」のまま国名もそのまま「連邦共和国」を名乗り続けることになりました。「統一条約」発効時点から数えても、32年3ヵ月の歳月、すなわち当時生まれた人たちが一人前の大人になるのに十分な時間がすでに経過しています。

 1993年10月3日の再統一後しばらくして、「オスタルギー:Ost東+Nostalgieノスタルギー郷愁」という造語とともに、東ドイツ国民であった人々を中心に、東ドイツ時代を懐かしむ気分が生じたといわれました。たとえば、2002に公開され、その翌年第53回ベルリン国際映画祭で最優秀ヨーロッパ映画賞を受賞した、あのドイツ映画「グッバイ、レーニン」などは、そうした時代の「気分」を背景にしていました。
 「われわれはひとつの国民だ Wir sind ein Volk」といったスローガンに夢見たドイツの再統一は、ふたを開けてみれば西ドイツによる東の吸収・統合であったという現実に失望した人びとが旧東ドイツに多かったこともあるでしょうが、41年の歳月によって築き上げられてきた東ドイツ国民としてのアイデンティティの喪失感も、この「オスタルギー」を呼び起こした大きな要因だったのではないでしょうか。それは、旧東ドイツ国民にとって「ドイツ再統一」以後が、敗戦直後から10数年間の過酷なソ連の占領政策によって苦汁をなめさせられたことに次ぐ、二度目の辛い時代を経験することだったといえるかもしれません。

 今回のこの報告では、今から7年前に出版された、井上・松浪・竹村・瀧元編著『スポーツ学の射程』(黎明書房2015)掲載の「スポーツと国家」や、昨年8月第162回の月例会で配布した私的研究ノート「フリーデンスファートをめぐって」で取り上げた問題関心を引き継いだものでもあることを付け加えておきたいと思います。

1.東ドイツ建国期の国際情勢
 1945年の敗戦後、ソビエト占領地区を基盤に建国した東ドイツの戦後復興の歩みは、西ドイツと比較したときに、決して順調とは言えませんでした。戦中からみられた東西両陣営の対立がここにきてあからさまになり、いわゆる「冷戦」の時代を迎えることになりました。東西に分断されたドイツは、ともに最前線国家としての悲劇を味わったのですが、その内容は戦勝国が採用した東西の占領統治政策によって大きな違いがありました。

 とりわけ、第一次大戦の戦後処理を定めたヴェルサイユ条約で、当時の連合国のドイツに課した非常に多額の賠償が、結果的にヒトラー政権を生み出したことを教訓として、第二次大戦の戦勝国、米・英・仏はその額を手控えました。そしてそれどころか、米・英・仏占領地区(のちの西ドイツ)には、当時の米国務長官ジョージ・マーシャルによるMarshall Plan (正式名称は欧州復興計画 European Recovery Program、ERP)のお金が流れ込みました。一部(11億7400万ドル)が1948~50年の間にほぼ贈与(借款はそのうち200万ドル)されたこれによって西ドイツの戦後復興は大きく促進されたのです。

 これに対して、レニングラード(現サンクトペテルブルグ)包囲戦などにみられるように、多大な被害を被ったソ連はそれを取り戻そうとして、過大な懲罰的賠償を要求しました。その取り立ては、占領下の工場の生産設備を解体して本国に持ち去るというもので、これはデモンタージュと呼ばれました。これによって1948年までに解体された生産財は61億ライヒスマルクにのぼりました。そのうえさらに、デモンタージュのために使用した線路までもソ連に持ち去さられるという過酷で徹底したものでした。

 そうした賠償に加えて、旧ドイツ東部領からの被追放避難民450万人を東ドイツが受け入れたこと(これはソ連占領地区人口のおよそ4分の1に相当)や、西側と違って徹底した非ナチ化(公民=参政権のある人々の半数以上が旧ナチ党員だったが、1947年までにそれらのうちの30万人以上の旧ナチ党員が追放された)と、土地改革(100ヘクタール以上の土地を接収し、小農民・小作農や被追放難民に分配された)を実行したことで大農場が解体され農業経営の基盤は崩壊していました。さらに、占領地区全体の企業のうちの40%近くがナチ活動と戦争犯罪人の財産として1948年までに没収されてしまったことなどもあったのです。

 ソ連駐留軍の経費負担と、今述べたような賠償の支払いが完全に終了したのは1953年で、ここまででその総費用は約540億ライヒスマルクになったといわれています。しかし、これに対してソ連が戦争被害で失ったという生産設備の総額は120億7000ライヒスマルクと推定されています。これは東ドイツが負担した賠償額の20数%でしかありませんでした。このように、西ドイツに比べて4分の1の人口の東ドイツが負わされた賠償がいかに巨額であったかが分かります。これによって東ドイツの戦後復興は後退せざるを得なかったのです。

 戦後の復興過程で東西の差を見せつけられた東側住民たちの感情は、大きく揺さぶられました。それは1949年以降の東から西への逃亡する人びとの急激な増加に現れています。
図ー1】は1949年からベルリンの壁建設の1961年を挟んで、国家崩壊までの東側住民の西への逃亡・移住者数の推移を示したグラフです。
 これを見ると1953年(331,390人)が最も突出した数値を示しているのが分かります。
 1952年7月にドイツ社会主義統一党(以下SED)による農業や私企業の集団化政策が始まるとともに、翌1953年5月には建築労働者のノルマ10%引き上げが決定されたことで、東ドイツ民衆の不満は爆発して、大規模な反ソ暴動(現代史では東ベルリン暴動とか、6月17日事件とも呼ばれます)が発生しました。
 この暴動はソ連のドイツ駐留軍の武力によって鎮圧されましたが、この事件で社会主義の将来に夢を持てなくなった東ドイツ民衆は、ソビエト占領地区に見切りをつけて西ドイツへと大量に逃亡しました。この図ー1のグラフにはそうした背景があったのです。
 西ドイツへの人口流失はその後も続き、1961年にベルリンの壁が建設されるまでに、総計で268万以上の人びとが東ドイツの地を後にしました。しかもその多くは技術者や25歳以下の若者が多かったことは、その後の東ドイツ国家建設に大きな影響をもたらしたのです。

2.東ドイツの外交政策とスポーツ
 国民のあいだに発生して、蓄積していった不満が東から西への逃亡者数を押し上げていたのですが、いろいろな事情から逃亡することもできずソビエト占領地区に取り残された人々の間には、新しい国家を独裁的に支配するドイツ社会主義統一党(以下SED)とそれを背後から支えるソ連を目にするにつけ、東ドイツへの帰属意識はしだいに希薄にならざるを得ませんでした。

 当時の東ドイツ政府=SEDにとっては、敗戦の苦しみに打ちひしがれた人びとに対して、自らの祖国として誇るに足る新国家建設の目標を示すことが急務でした。
 それはまた、東ドイツがヨーロッパ全土に災いをもたらしたヒトラー政権のドイツに決別し、平和を愛する文化的新国家を目指すことを広く国際社会に訴えることでもありました。それはまた、敵対することになった西ドイツに対して、社会主義国としての東ドイツの優位性を、なんとしても示さなければないということにも繋がっていました。

 こうした状況を受けて、東ドイツ政府=SEDは諸外国との友好関係を築くことに力を注ぎました。さしあたっては、ソ連の影響下にあった社会主義陣営に含まれる東側諸国との国交を開くことが行われました。

 それに次いで、1971年末に西ドイツが1955年来のハルシュタイン・ドクトリンを放棄して以後は、1978年までには第三世界や西側諸国を含む123政府から、主権国家として東ドイツが承認されるまでになりました(今回の報告ではそこまで触れませんが・・・)。

 こうした東ドイツの外交政策を推進するにあたって、大きな役割を担ったのが競技スポーツでした。そもそも、競技スポーツを外交政策の手掛かりとして利用するというアイデアは、1950年から53年にかけてSED中央委員であり、党の日刊紙「ノイエス・ドイチュランド」【写真―1】編集長であったルドルフ・ヘルシュタットの発案で、これがSED第一書記ワルター・ウルブリヒトによって取り上げられたのだ(1950年のSED中央委員会において)といわれています。
 急速な社会主義化に対する人びとの反発を避けるためには、政府は一時的にしろ大衆に譲歩する「新コース」政策を採用せざるを得なかったのですが、それは競技スポーツを外交の手がかりとするアイデアを実践に移すにはうってつけのタイミングだったのです。
 チェコスロバキアとポーランドによってすでに1948年から始められていた国際平和自転車ロードレース(以下:フリーデンスファート ドイツ語圏ではInternationale Radfernfahrt für den Frieden 直訳すれば「平和を求める国際自転車長距離ロードレース」ですが、一般には「東側諸国のツール・ド・フランス」とも言われていました)の第3回大会(1953年5月1-14日)への東ドイツチームの出場は、SEDによるスポーツ外交方針の一端がすぐさま実行されたことの典型的な例でした。

 こうした競技スポーツを梃子にして政治目的を実現する東ドイツ政府=SEDによる姿勢は、党の大衆組織である自由ドイツ青年(Freie Deutsche Jugend以下FDJ)、やドイツ体育スポーツ連盟(DeutscherTurn- und Sportbund 以下DTSB)の活動によって支えられていたのは言うまでもありません。

3.国際舞台での東ドイツアスリートの活躍
 東ドイツ政府のスポーツが持つ力を最大限利用するヒントは、戦時中亡命していたドイツ共産党のヴァルター・ウルブリヒトらがソ連を参照したものでした。
 ソ連では、1935年以降運動労働者の生産意欲を高めるために、ノルマを超過達成した労働者を英雄として称揚するスタハノフ運動を展開していたのですが、これのスポーツ版がSEDによって採用されたのです。政府ににしてみれば、賃金や生産管理に限定された領域に比べれば、スポーツ・ヒーローが持っている人々の興味・関心を引き付ける力の方が、その広告塔としての効果を発揮するに違いない、という計算があったのだと思われます。

 主に1950年代から60年代末までをピークに政府の狙い通り、多くのスポーツを愛好する東ドイツ国民を魅了したアスリートに、「テーヴェ」の愛称で呼ばれたメクレンブルク出身の自転車ロードレース選手グスタフ=アドルフ・シューア Gustav=Adolf Schur(以下テーヴェ Taeve)がいます。彼については、すでに昨年7月31日の第162回月例会で配布した研究ノート「フリーデンスファート」でも取り上げています。
 今回は、彼の自転車競技の世界での活躍と、東ドイツ政府の外交政策(国内も含む)との関連に注目してみようと思います。
 テーヴェの自転車競技選手としてのデビューは比較的遅く、1951年9月23日のベルリン周回1日レース(das DDR-Eintagesrennen Rund um Berlin)で優勝した19歳の時でした。 その後、先ほど「2.東ドイツの外交政策とスポーツ」でも触れた、彼の活躍の主要な舞台となる「フリーデンスファート」に1952年4-5月(21歳)に初出場(以後1961年にリタイアする第17回大会まで計12回出場)して10位の成績を収めると、たちまち自転車ロードレース界で頭角を現します。その競技成績は【表ー1】のとおりです。
 この表の中で驚くべきことは、すでに1953年末に東ドイツアスリート・オブ・ザ・イヤーに選出されるまでになっていることです。これは特定の審査員による選出ではなく、一般スポーツファンの投票によって決定される人気投票でした。そしてその人気が決して一時的なものでなかったことは、他のアスリートに類例のない、連続9回(1961年まで)選出されたことにも示されています。東ドイツにおける「スポーツ・ヒーロー、スポーツ・アイドル」の誕生! です。

 性急な社会主義化に対する国民の離反や、西側諸国からの圧力によって国際的にも孤立を深めていた東ドイツ政府=SEDは、こうしたテーヴェの国内外での華々しい活躍を見逃すわけもなく、その成果を積極的に利用していきます。先ほども述べたように、SEDのプロパガンダ・メディアである「ノイエス・ドイチュラント」に彼の活躍が頻繁に取り上げられるようになります。余談ですが、このノイエス・ドイチュラントの当時の発行部数は100万部ありました。しかも、「フリーデンスファート」の開催を資金的にバックアップしてもいました。ただ、1993年10月3日の再統一以降には、その発行部数は47,000部に減少していきました。

 そうこうするうちに、1956年にドイツ身体文化・スポーツ大学(Deutsche Hochschule für Körperkultur und Sport 設立1950年:以下DHfK)への入学の道が開かれたテーヴェは、学内のスポーツクラブに籍を置いて、国内外の競技会に出場するようになります。【写真―2】・【写真―3】 いわゆるステート・アマチュアの身分を得たわけですが、この身分は競技生活をリタイアしてコーチとなる1961年(33歳)まで続きました。そしてコーチの仕事は1973年に42歳になるまで続けました。
 この期間にテーヴェは「フリーデンスファート」や「UCIロードレース世界選手権」などでの活躍によって、自分自身の名前だけでなく、東ドイツの国際的な認知度を高めることに貢献したのです。

4.テーヴェ自身が語る国際的エピソード
 テーヴェがアマチュアのトップアスリートとして、諸外国を転戦する自転車競技をどのようにとらえていたかを、その自叙伝(末尾の【書籍:欧文】3) TÄVE Die Autobiografie, Berlin, Verlag Neues Leben, 2011(2001) から拾いだしてみましょう。

 先ほど述べたように、1952年の第5回がテーベ の「フリーデンスファート」初出場でしたが、この大会からレースは東ドイツを含め3か国間を走破する13ステージ2,146kmに拡大されていました。
 この時のレースのスタートはワルシャワで、それはポーランドを占領していたナチスドイツが敗戦により排除されてからまだ7年を経たばかりの時でした。スタート位置に着いたテーヴェが、沿道から自分を見つめるポーランド人の老婆の表情に「再びドイツ人がいる。彼らが引き起こした廃墟の真っただ中にいる。彼らはここで何を望んでいるのだろう?」という心情を読み取ったのは、彼自身が直接かかわったのではないにしても、ドイツ人の血を受け継ぐ一人としての贖罪の気持ちからであったからでしょう。そして、彼は「自分が彼女(沿道の老婆)とその同胞に苦しみを負わせた人間たちとは異なるドイツ人になる」ことを誓ったといいます。これは、のちに東方外交を展開したブラント首相Willy Brandtが「ゲットー英雄記念碑」の前で跪いて贖罪の姿勢を示す18年も前のことでした。

 さらに翌1953年の8月に、ルーマアニアのブカレストで開催された、「社会主義諸国のユニバーシアード」とも呼ばれる第4回世界青年学生平和友好祭(独)Weltfestspiele der Jugend und Studenten (英)World Festival of Youth and Studentsで開催されるロードレースに参加して、次のような体験をしています。

 テーヴェたちがトレーニングで訪れたブカレスト郊外の墓地で、イギリスから参加していたチームに出会い、彼らがそこに花を手向けたいという話を聞きます。その墓地は第二次大戦中にヒトラーのガソリン工場に供給していたルーマニアの油田の爆撃に参加して命を落としたイギリス人パイロットたちを葬ったものでした。そしてその墓地は、現地の人々によってよく手入れがされていたといいます。
 これを見たテーヴェは「この若者の集まりが、今日でもどれほど有用であるかが明らかになるかもしれないので、私は他のことはさておき、この経験についてだけは言及します」と自伝に綴っています。

 この二つのエピソードは、ナチス・ドイツの過去を断ち切って、新たな理想国家の建設を目指そうとするテーヴェの心情を示す一方で、冷戦のさなか、しかも東ベルリン暴動の対応に窮していた東ドイツ政府=SEDの外交・国内政策にも合致していたので、そのプロパガンダにも有用であったと思われます。

 テーヴェがその競技人生の中でもっともその存在感を示したのは、「フリーデンスファート」とともに、「UCIロードレース世界選手権大会」がありました。そのハイライトは1958年に、東ドイツ人で最初のチャンピオンになったことでした。競技終了直後には、ランス(フランス北東部パリから130kmの都市)の宿舎に、当時の東ドイツ大統領ヴィルヘルム・ピークからの「社会主義の故郷の働く人々はあなた方の戦闘的なパフォーマンスを誇りに思っております」という文面の電報を受け取っています。
 また翌1959年にはテーヴェはディフェンディング・チャンピオンとして同じ選手権を手にしたのですが、これはそれまで誰ひとり成しえなかった偉業でした。
 加えて、その翌年の世界選手権1960大会では、ライバルのベルギー・チームの自分に対するマークが厳しいのを感じると、自身の3度目の優勝を諦めてベルギー選手を自分に引き付け、逆に自分を守る役割だったチームメートを先行させる、という作戦を用いて見事にワン・ツーフィニッシュを飾るという場面も創り出しました。【図―2】
 これは「個」よりも「全体の利益」を重視するというSEDの「教義」にも適った行動であったことから、党のテーヴェへの信頼と期待はさらに一層高まったというわけです。      

まとめにかえて
 テーヴェは1964年の第17回「フリーデンスファート」を最後に、33歳で現役を引退したのですが、その後は、一般的なアスリートとは少し異なった道をたどりました。自転車から降りた「トレーニングウエアを着た外交官」は、つぎに政治の世界に進んだのです。

 もっとも、「UCIロードレース世界選手権大会」で世界チャンピオンのタイトルを防衛した1959年に、人民議会 Vilkskammer の議席【写真ー5】を得てはいるのですが(1990年まで32年間)、その2年前の1957年4月にはドイツ体育・スポーツ連盟 DTSB の設立総会に、スポーツ大臣でDTSB会長のマンフレッド・エヴァルトManfred Ewaldや当時中央委員会書記局員であったエーリッヒ・ホネッカーErich Honeckerらとともに幹部として出席しているのですから、すでに現役時代から政治家への道を歩み始めていたといえるでしょう。ちなみに、この画像には、国家保安省 Stasi 長官 エーリッヒ・ミールケ Erich Mielke (前列右から4人目) も出席しています。赤矢印で示したのがテーヴェで【写真ー4】、この3ヵ月後の7月にはSEDの党員にもなっています。
 
 彼の人生の信条・モットーも自叙伝の複数個所に表明されています。たとえば、「私はスポーツのロールモデルと言われたが、自分自身でもそうなるように努めた」とか、「人生においては自分の信念に忠実な人間は、そうでない人間よりも尊敬されている」、また、「何かを伝えたいなら、自分がそのお手本にならなければいけない」(前掲書 S.126)などに彼の「信条・信念」を垣間見ることができます。人びとのお手本 Vorbild になることは、テーヴェ自身が望んでいたことですが、それはまたSEDの望むところでもあったのです。

 東ドイツ政権=SED が崩壊し、東ドイツが西ドイツに併合された後にも、社会主義の未来を信じてSEDの後継政党である民主社会党PDS(1998-2002)、次いで左翼党Linkeに所属して、再統一後の連邦議会 Deutscher Bundestag に議席を持ったその行動には、社会の激変の中でも揺るがなかった彼の信念・意志の強さを感じ取ることができます。

 テーヴェは「自転車競技界のレジェンド」とか「アイコン」などと呼ばれ、91歳(本年2月23日に92歳)になる今日においても根強い人気を保っていると言われますが、その一方で、1970年代頃より批判の高まった東ドイツ競技スポーツ界のドーピング問題について、テーヴェがそれを問題視しない態度でいることに、今日では批判が集中しています。
 そのひとつの例として挙げるとすれば、これまでドイツスポーツ支援財団 Deutschen Sporthilfe が設立したドイツスポーツ殿堂 Die Hall of Fame des deutschen Sports (2006年)への受け入れが、二度もノミネートされながらも審査員の過半数の賛成が得られず実現していないことに象徴的に示されています。彼のこれまでの業績に見合う扱いがなされているか否かは、この後も議論が尽きないと思われます。
最後に、Taeveなる人物をごく手短に表現するとすれば、「戦後の東ドイツの貧困がテーヴェを必要とした、いわば時代の子でもあるし、競技スポーツと政治を「信仰」の対象とした「求道者」である」とも言えるのではないでしょうか。 

注釈と主な参考文献

【注釈】
注ー1.すでに研究ノート「フリーデンスファート」(第162回にて配布)でも取り上げた。
注ー2.P.Kuehnst, Der missbrauchte Sport Koeln Verlag Wissenschaft und Politik 1982 S.70 
注ー3.以後1961年まで連続出場し、リタイアする第17回まで計12回出場した。
注ー4.審査員ではなく一般のスポーツファンによる人気投票
注ー5.Wende以前の発行部数は100万部、Wende以後は4万5000部に激減
注ー6.Gustav-Adolf Schur, TÄVE Die Autobiografie Berlin, neues leben, 2001 S.70
注ー7.P.Kuehnst, ebd. S.91

【書籍・雑誌記事和文】
1)ロベルト・ハーベマン『私は亡命しない』朝日新聞社 1980
2)長谷川公之・山本茂『衝撃 東独スポーツ王国の秘密』1990
3)高野俊雄『ガラスの金メダル』マガジンハウス 1991
4)ハラルド・ポルスター「東独スポーツは何を残したのか」「体育科教育」9月号p.67-68 大修館書店 1993
5)カタリーナ・ビット 『メダルと恋と秘密警察』文藝春秋 1994
6)三島 憲一 (編集, 翻訳)『戦後ドイツを生きて―知識人は語る』 岩波書店 1994
7)藤井正則『スポーツの崩壊』不昧堂出版 1998
8)寶學淳郎 「旧東ドイツスポーツ関係者が語る東ドイツスポーツ:自叙伝的著作(1990-1998年)の分析を中心に」スポーツ史研究
 巻21 p.43-55. 2008
9)寶學淳郎 「旧東ドイツスポーツ関係者の言説 : Helmut Recknagel の自伝を中心に」金沢大学人間社会学学校教育類紀要 巻2 p.101-111 2010
10)寶學淳郎 「旧東ドイツスポーツ関係者の言説 : 自叙伝的著作(2001-2007年)の分析を中心に」体育史研究 巻29 p.19-30 2012
11)寶學淳郎 「旧東ドイツスポーツ関係者の言説 : インタビュー調査を中心に」科学研究助成事業 研究成果報告書 2014
12)河合信晴 『物語 東ドイツの歴史 分断国家の挑戦と挫折』中公新書 2020
13)船井廣則 「スポーツと国家」 井上・松浪・竹村・瀧元編著 『スポーツ学の射程』黎明書房 2015所収 
14)船井廣則 「ドイツスポーツ殿堂 Hall of Fame des deutschen Sports について」第154回ISC・21月例研究会報告 2021年10月17日
15)船井廣則 「フリーデンスファートをめぐって ― ウッジ Łódź とグスタフーアドルフ・シューア Gustav-Adolf Schur ― 2022年07月   30日

【書籍欧文】
1)Peter Kuehnst, Der missbrauchte Sport: Die politische Instrumentalisierung des Sports in der SBZ und DDR 1945-1957, Koeln
  Verlag Wissenschaft und Politik, 1982
2)The GDR Academy of Sciences, Information GDR, Berlin, PERGAMON PRESS, 1989
3)Gustav-Adolf Schur, Taeve :Die Autobiografie, Berlin, Verlag Neues Leben, 2011(2001)
4)Gustav-Adolf Schur, Der Ruhm und ich, Berlin, Spotless im Verlag Das Neue Berlin, 2011

【Web記事】
1)"Diplomaten im Trainingsanzug" in: https://olympiagiessen.wordpress.com/montreal-1976/ ?/?/?
2)"Diplomat im Trainingsanzug" in:
 https://www.spiegel.de/politik/diplomat-im-trainingsanzug-a-68366d6f-0002-0001-0000-000045424854 15/01/2006
3)"Diplomaten im Trainingsanzug? Sportler im Visier des MfS" in: https://www.bisp-surf.de/Record/PU201010008073 ?/?/2009
4)"Diplomaten im Trainingsanzug" in:https://www.dw.com/de/diplomaten-im-trainingsanzug/a-5614253
  01/06/2010
5)"DDR-Sportler waren Diplomaten im Trainingsanzug" in:https://ga.de/sport/mehr-sport/ddr-sportler-waren-diplomaten-
  im-trainingsanzug_aid-53035255 29/08/2020
6)"The GDR Objectified" in: https://gdrobjectified.wordpress.com/2021/01/01/tave-schur/2/?_
  x_tr_sl=en&_x_tr_tl=ja&_x_tr_hl=ja&_x_tr_pto=sc 01/01/2021
7)"DDR-Spitzensportler berichten von ihrer Flucht in den Westen" in: https://www.elbe-wochenblatt.de/2021/08/26/diplomaten-im-trainingsanzug/ 26/08/2021

【図・表と写真
 図― 1 :東から西への逃亡(と移住の推移)
写真―1 :Neues Deutschland SEDの機関紙(日刊) 1958 年 5 月 29 日号の 1 面、賃上げと配給カードの廃止を報じている
      (https://www.google.com/search?q=Neues+Deutschland&source=lnms&tbm=isch&sa=X&ved=2ahUKEwjT5seDqfb8AhW
      UQN4KHcxHCv8Q_AUoAnoECAEQBA&biw=1208&bih=557&dpr=1.5#imgrc=aI0YdNjB25FyqM)
 表― 1 :Taeveの競技成績年表(自叙伝などより筆者作成)。
写真―2 :Israel 教授とTaeve (Gustav-Adolf Schur, TÄVE Die Autobiografie Berlin, neues leben, 2001 II/2)
写真―3 :レースの準備をするTaeve(Gustav-Adolf Schur, TÄVE Die Autobiografie Berlin, neues leben, 2001 II/4)
  図―2 :東ドイツ発行のTaeveを描いた1960年UCIロード世界選手権記念切手         
      https://en.wikipedia.org/wiki/1960_UCI_Road_World_Championships
写真―4 :1957年4月のDTSB設立総会に出席した幹部たち。矢印がTaeve。P.Kuehnst, Der missbrauchte Sport Koeln Verlag           Wissenschaft und Politik 1982 S.91.  
写真―5 :1988年の人民議会に出席したTaeve https://de.wikipedia.org/wiki/Taeve_Schur
 図・表と写真
 
   
 
   
 
   
 


2022年09月23日

第164回ISC・21月例会 (REMOTE: 井上邦子世話人 (奈良教育大学)  
Timetable  13:00~
① 東郷祐三子さん(ロシア語通訳・翻訳者)
     テーマ「モスクワのスポーツ・武術事情」

② 川上雅弘先生(京都産業大学)
     テーマ「福岡伸一、西田哲学を読む」を通読して
    ③ 話題となった書籍:
  
     アレクセイ・ゴルビリョフ・ミハイロビチ  『 秘伝 』
     Горбылёв Алексей Михайлович『ХиДэн』

     福岡伸一・池田善昭  『福岡伸一、西田哲学を読む -生命をめぐる思索の旅 動的平衡と絶対矛盾的自己同一』
     明石書店 2020/11/26

     小川幸司・成田龍一  『世界史の考え方』 岩波新書 2022/6/23

     成田龍一  『歴史像を伝える ─「 歴史叙述」と「歴史実践」』 岩波新書 2022/8/25

     良知力  『青きドナウの乱痴気 ウィーン1848年』 平凡社ライブラリー 1993/10/15

     海堂尊  『コロナ黙示録』 宝島社 2022/7/6『コロナ狂騒録』 宝島社 2021/9/3  

     白井聡  『長期腐敗体制』 角川新書 2022/6/10

     福岡伸一  『最後の講義』主婦の友社 『ゆく川の流れは、動的平衡』 朝日新聞出版  2020/2/29



2022年07月31日

第162回ISC・21月例会 (REMOTE: 松浪 稔世話人 (東海大学) 
Timetable  14:30~
① 情報交換・近況報告:

② 話題提供: 松浪 稔先生 「IOC公式映画「東京2020オリンピックSIDE:A/SIDE:B」批評」
 
話題となった書籍 
  鵤木千加子 著 『バドミントンの歴史—スポーツの国際化・グローバル化の軌跡』 大修館書店 2022年8月2日

 竹内敏晴 著 『「からだ」と「ことば」のレッスン  自分に気づき・他者に出会う 』 講談社現代新書 1990年11月16日 


2022年07月30日

 【研究ノート】 フリーデンスファートをめぐって  
                                 
(下のリンクをクリックするとPDF版本文や資料ァイルがダウンロードされます。PDFリーダーが必要です。)
 
        フリーデンスファートをめぐって 
               ― ウッジŁódźとグスタフ=アドルフ・シューアGustav-Adolf Schur ―

                                                                 船井 廣則 (ISC・21研究員)

(1)フリーデンスファートとは

 第二次大戦後に誕生し、中東欧諸国を中心に多くのファンを持ち、社会主義の崩壊以降もしばらくの間実施されていた自転車ロードレースの「フリーデンスファート」について興味を引かれて調べています。このレースはドイツ語圏ではInternationale Radfernfahrt für den Friedenと標記されます。直訳すれば「平和を求める国際自転車長距離ロードレース」となるでしょうか。国際レースですから、参加各国それぞれの言語での名称がありました。

 例えば、このレース発祥の地であるポーランドとチェコスロバキア(1993年1月1日にチェコとスロバキアに分離)では、ヴィシチク・ポコヨWyścig Pokoju(ポーランド)、ザヴォド・ミーロZávod Míru(チェコスロバキア)と呼ばれていました。また、国際的にはフランス語のクース・デ・ラ・ペCourse de la Paixと呼ばれることもあったようです。ちなみに、英語圏ではピース・レースPeace Raceと標記されました。いずれも「平和(のための)レース」を意味することから分かるように、第2次大戦後の中東欧諸国に残る緊張を緩和することを目的としてこのフリーデンスファートが開催されていました。以下競技の名称については、この小論では用いた史料の制約もありドイツ語の略称であるフリーデンスファートを用いることにします。

 最初のフリーデンスファートが開催されたのは、第二次大戦終結後間もない1948年5月でした。これはワルシャワとプラハをそれぞれスタートとゴールにするというパラレルコースで同時日に開始されました。この変則的な開催の理由には、すでに前年の1947年に、ポーランドとチェコスロバキアが全く別個に自転車ロードレースを計画していたことが分かり、両者話し合いのうえでそれらを統合して開催することにしたという経緯があったようです。

 レースの発案者として、ポーランド側はジグムント・ヴァイスZygmunt Weissとチェコスロバキア側はカレル・トクKarel Toclという二人のスポーツ・ジャーナリストの名があげられています。彼らが、1903年に始められ1930年頃にはヨーロッパにおけるスポーツイベントとしてのステ-タスを確立していたツール・ド・フランスをお手本としたことは、その規模と走行距離(開催期間23日間、総走行距離3000km超、21ステージ、ヨーロッパ以外の国籍を持つ選手も含め160名ほどが出場)を別にすれば、各ステージごとのポイントレースであったり、参加チームの順位などを示すジャージ着用などにも伺われますが、新聞社がこのイベントを後援したこと(ツール・ド・フランス=スポーツ新聞社ロト(L'Auto)、ポーランド=日刊紙(Trybuna Ludu:護民官)、チェコスロバキア=共産党機関紙(Rudéprávo:赤い法則)も共通していました。

( 2 )レースの拡大

 第2回から1951年(第4回)までは、年ごとにスタート地点のプラハとワルシャワとを交互に替えて実施されていました。1952年(第5回)からルートを東ドイツ国内をも含めるようになったのを契機として、ポーランド・東ドイツ・チェコスロバキアそれぞれの首都をスタート地点として年ごとに入れ替えながら、全長2000kmを超える長距離ロードレースへと拡大されました。 参加チームも、当初の東欧各国を中心とする6か国から、1958年(第11回)までにはイングランド・デンマーク・ベルギーなど西欧の国々も参加するようになり、一時期は東欧のツール・ド・フランス(Tour de France of the East)とも呼ばれて、本家と肩を並べるほどの人気を誇りました。ツール・ド・フランスと異なっていたのは、1980年代まではフリーデンスファートがアマチュアのロードレースであったことでした。

 フリーデンスファートをもう少し詳しく知るための手立てとして、第1回(1948年)から第10回(1957年)までの、スタートからゴールまでのルートを結ぶ各ステージの都市名を、以下のように一覧表にしてみました。また、末尾に付録として【史料ー1】フリーデンスファートの中継都市.xlsxと【史料ー2】フリーデンスファート年表(1948-57).xlsxも添付しておきましたので、こちらも併せて参照して頂ければと思います。
1948年第1回】(2ルートパラレル同時開催) 
   ①WARSCHAU・Łódź・Breslau・Jelenia Góra・Liberec・PRAG                  5ステージ  872 km
   ②PRAG・Pardubice・Brünn・Gottwaldov・Zilina・Kattowitz・Krakau・Kielce・WARSCHAU  8ステージ 1104 km
1949年第2回】8ステージ 1259 km
   PRAG・Pardubice・Brünn・Gottwaldov ・Ostrava ・Kattowitz ・Breslau ・Łódź ・WARSCHAU 
1950年第3回】9ステージ 1539 km
   WARSCHAU・Łódź・Breslau・Chorzów・Cieszyn・Gottwaldov・Brünn・Pardubice・PRAG  
1951年第4回】8ステージ 1539 km
   PRAG・Budejovice・Brünn・Gottwaldov・Ostrava・Kattowitz・Breslau・Łódź・WARSCHAU 
1952年第5回】12ステージ 2146 km
   WARSCHAU・Łódź・Chorzów・Katowice・Wroclaw・Görlitz・Bautzen・Ost-BERLIN・Leipzig・K.-M.-Stadt・BadSchandau・Hřensko・      Plzeň・České Budějovice・Prag
1953年第6回】12ステージ 2232 km               
   Bratislava・Brünn・PRAG・Karlsbad・Děčín・BadSchandau・K.-M.-Schtadt・Leipzich・Ost-BERLIN・Görlitz・Zgorzelec・Breslau・       Kattowiz・Łódź・WARSCHAU
1954年第7回】13ステージ 2033 km
   WARSCHAU・Łódź・Kattowiz・Breslau・Zgorzelec・Cottbus・Ost-BERLIN・Leipzich・K.-M.-Schtadt・BadSchandau・Děčín・Pardubice・    Brünn・Tábor・PRAG
1955年第8回】13ステージ 2214 km
   PRAG・Kolín・Brünn・Tábor・Karlsbad・Dresden・K.-M.-Schtadt・Leipzich・Ost-BERLIN・Cottbus・Zgorzelec・Breslau・Kattowiz・Łódź・   WARSCHAU
1956年第9回】12ステージ2214 km                                     
   WARSCHAU・Łódź・Kattowiz・Breslau・Görlitz・Ost-BERLIN・Leipzich・K.-M.-Schtadt(Chemnitz)・Karlsbad・Tábor・Brünn・PRAG   
1957年第10回】12ステージ 2192 km
   PRAG・Brünn・Tábor・PRAG・Karlsbad・K.-M.-Schtadt・Leipzich・Ost-BERLIN・Görlitz・Breslau・Kattowiz・Łódź・WARSCHAU  

 上記の表に続く1958年第11回以降も、1980年代末に始まる中東欧諸国における社会主義の崩壊と、それに続く市場経済導入による混乱の時期を経て、2006年の最後のレースでその幕を閉じるまでフリーデンスファートは計58回にわたって(2005年を例外として)毎年継続して開催されてきました。

( 3 )ウッジŁódźという街

 1948年(第1回)から1957年(第10回)までのレース・コースを見ると、初回1948年のパラレルコースの片方を例外として、スタートやゴールとなったポーランドの首都ワルシャワWARSCHAUの前後に表示されている都市名が全てウッジŁódźであったという特徴に気づきます。しかも、第1回から第10回までに限れば、そのすべてに登場する都市はワルシャワとプラハを除くとこのウッジだけです(資料-1参照)。ポーランドのほぼ中央部に位置するウッジは、現代ではワルシャワ、クラクフに次ぐポーランド第三番目の人口(約70万)有する都市ですが、第二次大戦当時のドイツ占領期には、首都ワルシャワ同様にユダヤ人らを隔離収容する区域であるゲットーが市郊外に建設されました。その上ゲットー内での労働に寄与できなくなった、つまり労働不能と判定された住民をアウシュヴィッツ(オシフィエンチムOświęcim)やヘウムノ(Chełmno)の絶滅収容所へと移送する拠点となっていました。

 このようにフリーデンスファートの発展をたどる中で知ることになった都市名ウッジは、当然のことながら過去の戦争の傷跡を再確認する作業を伴いました。

 そうこうしているうちに、偶然、中日新聞2022年5月27日付夕刊(【資料ー3】参照)に、普段の日常生活ではめったに目にしないウッジの名を見つけました。シンクロニシティとでもいうのでしょうか、「流転を生きる 消された出自 生涯問う ― ポーランド ナチスに連れ去られた子どもたち ―」の見出しの右横にはドイツとポーランドの地図が掲載されていて、その地図にはワルシャワの西南西あたりに ウッジ と示されていました。

 Łódźの日本語カナ表記は「ウッジ」、「ウッヂ」、「ウーチ」、「ウッチ」、「ウゥチ」など様々で、グーグルマップやウィキペディアでは「ウッチ」を用いています。中には「ルージ」とか「ロッジ」などもあるようで、これらの表記だったら見過ごしてしまうこともあったかも知れません。
 ナチズム=国民社会主義の人種イデオロギーは、社会ダーウィニズムとアーリアン学説の影響を受けたものと言われていますが、1939年9月1日にポーランドに侵攻したドイツ軍は、占領政策としてそのイデオロギーを実践に移しました。それは親衛隊と警察権力を手中にし、ヒトラーから「忠臣ハインリヒ」と呼ばれていたハインリッヒ・ルイトポルト・ヒムラー Heinrich Luitpold Himmlerによって命じられました。
 ヒムラ―の占領政策のひとつは、ユダヤ人たちをそれまでの居住地から移住させ・隔離するための強制居住区域ゲットーを復活し、ワルシャワ(38万人でヨーロッパ最大)に次ぐ規模のもの(16万人)をウッジに建設することでした。こちらをナチズムに特徴的なクセノフォビアを象徴するコインの一面だとすれば、そのもう一つの面は、ヒムラ―も信じていた似非科学的妄想であるアーリア人種(金髪・碧眼の北方人種)の優秀なドイツ人を増やす計画の実行でした。第二次大戦中のポーランドのレーベンスボルン「生命の泉」協会の施設はそれを目的としたもので、これもヒムラ―の命によってウッジに建設(1942秋)されたのです。

上述の中日新聞の記事では、「孤児やドイツに抵抗したポーランド市民の子ども、(占領軍の)意に従わなかった現地のドイツ系住民の子どもたち」が、ヒムラ―指揮下の親衛隊によって集められたこと。そして、「髪や瞳の色、頭の形など20項目以上の検査に合格した子どもたち」を、将来の「優秀なドイツ人に作り変える」ためにレーベンスボルン協会の施設に送り込んでいたというその事実を、「ヘルマン」と呼ばれた自分の本名も両親の存在も知らない、現在80代半ばになる人物に焦点を当てて報じています。

 記事に添えて掲載されていた右の写真(ワルシャワ公文書館)は、ウッジのレーベンスボルンで撮影されたもので、「ヘルマン」もこの中に映っているといいます。

( 4 )シューアGustav-Adolf Schurとポーランド

 東ドイツチームがフリーデンスファートに出場するようになったのは1950年の第3回からでした。当時はアウシュビッツ(オシフィエンチム)などの絶滅収容所が解放されてからわずか5年しかたっておらず、ポーランド国内には同じ社会主義国の一員になったとはいえ、東ドイツチームの参加を歓迎しない人々がまだたくさんいました。
 そんな戦後の空気の中で、東ドイツの伝説的自転車競技選手グスタフーアドルフ・シューア(以下シューア)がフリーデンスファートにデビューしたのは1952年の第5回でした。なお、この1952年のレースからはポーランドの提案で、それまでの2か国を巡るコースが、東ドイツ国内を含めた3か国、総走行距離が2000km超へと拡大されることになっています。

 デビュー戦でもあったからでしょうか、シューアはこの1952年のレースについて自伝(参考文献-4)の中でひときわ詳しく叙述しています。興味深いのは、彼の観察の目はレースの展開に関することだけでなく、レースを見守る沿道の人びとにまで及んでいたことです。少し長くなりますが、以下にワルシャワのスタート地点に立つシューアが、当時持った印象を自伝から引用してみましょう。


「 (ワルシャワで)スタートを待つとき、私は群衆の中に立っているポーランドの老婆を彼女に気づかれないように見ました。 彼女は道路の脇にいたので、私は彼女の顔から次のようなことが読みとれたように思いました。再びドイツ人たちがいる。彼らが引き起こした廃墟の真っ只中にいる。 彼らはここで何を望んでいるのだろう? 栄養満点の身体を包む黒、赤、金のチェストリングの入った、白いジャージ。
 私は心配になりました。彼女はこの荒廃したワルシャワで何を経験したのでしょうか? 彼女は家族から誰を失ったでしょうか。息子。娘。それとも孫? 私はそのシーンを決して忘れていません。その時、私は次のことを自分自身に誓いました。「お前は彼女とその同胞にこの苦しみを負わせた人々とは異なるドイツ人になるのだ」ということを(参考文献ー3 S.56 筆者訳)。


 シューアは1931年生まれですから、ヒトラーがドイツ系住民が虐待されていることを口実にポーランド侵攻を開始した1939年9月1日当時はまだ8歳でした。ましてや、今では自明となっているグライヴィッツ事件が、実はヒムラー麾下のドイツ親衛隊謀略部隊による自作自演の偽旗作戦であったことなど、まだ幼児であったシューアが知る由もないことだったに違いありません。しかし、第5回フリーデンスファートに初参加した年には21歳の若者になっていて、自分がポーランドを蹂躙した人びととは「異なるドイツ人になる」ことを誓っているのです。

 また、このエピソードはこれで終わりではなく、それから48年後の2000年第53回フリーデンスファート第4ステージの中継都市となったライプツィヒでも、ドイツ第2TV放送=ZDFの記者を相手にシューアによって再び語られています。そしてそれはZDFの雑誌『Kennzeichen D』の記事となり、シューアがポーランドの老婆の表情から読み取った言葉は、次のような「流ちょうなドイツ語」に置き換えられて掲載されます。「ドイツ人がやってきて、土地や家を購入し、いつか戻って来るのではないかと心配しています」。

 シューアは、この2000年第53回フリーデンスファートのプログラム冊子をパラパラとめくった時、ポーランド・チェコ間に置かれた各ステージの中継都市名に、かつてのドイツ語の地名が表示されているのを見て自分の目を疑います。 そして自伝に彼は次のように書いています。


  ・・・そして、誰かがドイツ再統一後にフリーデンスファートを「脱イデオロギー化」 すべきだったと私に伝える時 ―それは本当に何度も起こったことなのですが― 私はただ次のことを確認するだけです。今日的なイデオロギーの問題にすり替えることに愕然とすること。そしてテレビのインタビューで私が答えたあのポーランドの女性の懸念 を理解できることを告白しなければなりません。1952年には、適切に行動するために誰も私たちを「訓練」する必要はありませんでした。 私たちはポーランドでのドイツの犯罪について知っていました、そして私たちは東西ドイツの人々の間の正常な関係を回復するのを助けなければならなかったことを知っていました。(参考文献-3 S.56 筆者訳)


( 5 )まとめと今後の課題

 上述のように、「今日的なイデオロギーの問題にすり替えることに愕然とする」とシューアが言うとき、1990年10月3日のドイツ再統一後においてもなお、旧西ドイツ側では、例えば映画『顔のないヒトラーたち』に見られたような、過去の戦争犯罪に対してそれがなかったかのように口をつぐむ人びとの罪深さについて確認しているように思えます。

 シューアは1950年代を中心に、フリーデンスファート以外にもワールドカップやオリンピックで幾多の成果と名声を獲得し、東ドイツを代表する人気アスリートとなりました。ちょうどそれは1954年のゼップ・ベルガー監督率いる西ドイツチームのサッカ―ワールドカップ優勝が、敗戦に打ちしおれていた西ドイツ国民に自信を取り戻させたように、シューアの活躍は確実に東ドイツの国民を勇気づけ、新生の自国に誇りを持つきっかけを与えたことでしょう。そしてシューアは東ドイツ国民のロールモデルとなるとともに、当時の東ドイツ政府がアスリートに求めた「トレーニングウエアを着た外交官」の任務をも誠心誠意全力で遂行しました。

 アスリートとして果たしたシューアの役割と、現役を退いてからの政治家としての活動については、次の機会を待って詳しく述べることとしたいと思います。

参考文献と資料

 1. Kleine Enzyklopaedie Koerperkultur und Sport Hersg. DHFK Leipzig Verlag Enzyklopaedie Leipzig 1960
 2. Geschichte der Koerperkultur in Deurschland von 1945 bis 1961 (Band IV) Sportverlag Berlin 1967
 3. Gustav-Adolf Schur TAVE Die Autobiografie (3.Auflage) Verlag Neues Leben Berlin 2011
 4. Gustav-Adolf Schur Der Ruhm und ich spotless im Verlag Das Neue Berlin Berlin 2011
 5. https://de.wikipedia.org/wiki/Internationale_Friedensfahrt_1948
 6. https://de.wikipedia.org/wiki/Internationale_Friedensfahrt_1949
 7. https://de.wikipedia.org/wiki/Internationale_Friedensfahrt_1950
 8. https://de.wikipedia.org/wiki/Internationale_Friedensfahrt_1951
 9. https://de.wikipedia.org/wiki/Internationale_Friedensfahrt_1952
10. https://de.wikipedia.org/wiki/Internationale_Friedensfahrt_1953
11. https://de.wikipedia.org/wiki/Internationale_Friedensfahrt_1954
12. https://de.wikipedia.org/wiki/Internationale_Friedensfahrt_1955
13. https://de.wikipedia.org/wiki/Internationale_Friedensfahrt_1956
14. https://de.wikipedia.org/wiki/Internationale_Friedensfahrt_1957
15. https://en.wikipedia.org/wiki/Peace_Race
16. 映画 『顔のないヒトラーたち Im Labyrinth des Schweigens』 監督 ジュリオ・リッチャレッリ2014年 製作 123分/PG12/ドイツ   劇場公開日 2015年10月3日
 PDF版 「フリーデンスファートをめぐって」   UmFriedensfahrt.pdf へのリンク
 【資料-1】フリーデンスファート中継都市   Material-1FriedensfahrtStaedte.pdf へのリンク 
 【資料-2】フリーデンスファート年表   Material-2FriedensfahrtZeittafel.pdf へのリンク
  【資料-3】中日新聞2022年5月27日付夕刊  UmFriedensfahrt.pdf へのリンク

2022年06月26日

第161回ISC・21月例会 (REMOTE: 竹村匡弥世話人 ISC・21特別研究員) 
Timetable 
    14時00分~ 『穂国幻史考』(柴田晴廣著)を読む
    コメンテーター
             ① 船井廣則 (ISC・21特別研究員)
             ② 瀧元誠樹 (札幌大学)
             ③ 竹村匡弥 (ISC・21特別研究員)

    16時20分~  林 郁子(関西大学など非常勤講師) 
             スポーツ史学会第36回大会シンポジウムに向けて「ナチュラリストについて」       
話題となった図書や情報 など 
・竹倉史人 『土偶を読む―130年間解かれなかった縄文神話の謎 』 晶文社 2021/4/24 
・福岡伸一 『ドリトル先生航海記』 新潮文庫 2019/6/26
・福岡伸一 『ナチュラリスト』 新潮文庫  2021/9/29 
上記①船井コメントの内容 
穂国幻史考コメント
 はじめに
(1)穂の国の住人?
これまで研究領域としては、1990 年に崩壊した東ドイツのスポーツの歴史を中心に取り組んできました。そんな私としては、柴田晴廣さんが今回のテクストである『穂国幻史考』で扱われておられる領域、しかも学際的な幅広い対象は、その内容を十分理解するのに必要な素地を欠いていると、読ませてもらいながら思いました。

しかしながら、稲垣先生が柴田さんの著書の『牛窪考』の紹介文の中で、「『穂の国』文化圏で育った」と語っていますが、私も豊橋生まれですし、稲垣先生の高校と大学の後輩です。そして、大学時代を過ごした宿舎も、一般の下宿ではなく、「三河郷友会学生寮」という東西三河の各自治体が共同出資で運営する、明治時代(明治18 年1885)に建てられた東京近郊の大学に在学する学生のための寮に入りましたから、その後輩でもありました。また、当時の寮監が稲垣先生だったので、そうしたことから言えば、私も『穂の国』の住人の一人と言っても良いかもしれません。

もっとも、卒業後の就職先は、愛知県とはいっても北のはずれの犬山市にある「天下の奇祭」で有名な田県神社の間近にある短大でしたから、そこで40 年間ほど過ごした後に再び豊橋に戻って、現在7 年しか経っていせんので、『穂の国』の住人と言ってもあまり大きな顔はできません。

(2)身近な地名
私の来歴はそんなことですが、柴田さんの『穂国幻史考』に登場する地名や社寺名の多くは、私のこれまでのパーソナル・ヒストリーのどこかで耳にしているようで、身近に感じるものが多かったです。例えば、第三話牛窪考の冒頭(ページの表示はないが1091 相当)の地図、目次の前の頁です。
この地図の北東のはずれ、マル付き数字の①で示されているのが三河一宮の砥鹿神社(祭神:大己貴命オオナムチ(大国主命=大黒様)創建:(伝)大宝年間(701 年-704 年)東海地方全体の鎮守ですが、この砥鹿神社についてのエピソードをひとつお話しします。

まだ私が幼いころ、もうかれこれ60 年ほど前ですが、父親に連れられて初めてこの神社に行って、文字ではなく、耳から聞いて「トガジンジャ」の名称を覚えました。しかし、今でも鮮明に記憶しているのは神社そのものやお祭りではなく、屋台のスズメの串焼きを食べて、スズメの頭蓋骨を奥歯でかんだ時のコリっとした感触です。

もうひとつの例としては、牛窪考の中S.1526 で、「まとい」のような「トウフ=万度まんどう」の説明の際に出てくる地名の「御馬オンマ」です。これは豊川市御津町の地名で、ここは三河湾の海苔の生産地のひとつでした。私の母親が一時期「海苔」の生産に携わっていたので、しばしばこの「オンマ=御馬」の地名を幼い時期の家庭内で耳にしていました。

そのようなわけで、この『穂国幻史考』を読み進めていくにつれて、文字として紙面に登場する地名が、記憶の中の音の響きに結びついてくるのを面白く感じていました。

(3)拾い読み
ところで、著者の柴田さんは第三話の「はしがき」S.1108 で、「長編小説を途中から読み始めても、筋が理解出来ないのと同樣、この論考集も、興味ある部分のみを拾い読みしたところで、私が読み手に伝えたいことはろくに伝わらないに違いない。そうした拾い読みは、筆者の私の意に沿わないもの」と書かれていました。

たしかに、柴田さんの意図は理解できるのですが、今回は諸般の事情があり、「拾い読み」をしてしまいました。つまり、目次を一覧してその中から最も興味深かった部分について集中して読んだことをここで告白しておきたいと思います。もし、柴田さんが「読み手に伝えたいこと」がろくに伝わっていないと思われたとしたなら、私の読解力とともに、そうした読み方が原因なのかも知れません。

(4)うなごうじ祭
さて、私が最も興味を引かれたのは「第三話牛窪考」で、とりわけ第5章牛窪と八尻の(拾遺一)「若葉祭(うなごうじ祭)」の起源と豊川流域の「笹踊」(補遺一)「うなごうじ祭」名稱考でした。

先ほどの「砥鹿神社」や「御馬」の話とは違って、私が幼少のころに「うなごうじ」も「うなごうじ祭」という言葉を耳にした記憶はありませんので、興味を引かれた理由としては、生前の稲垣先生を通して「うなごうじ祭」の話を聞いていたことと、新型コロナ・ウイルスがこのように持続的にまん延する以前には、4 月上旬には地元のTV 局が季節ネタとして毎年「うなごうじ祭」のようすをニュースで取り上げていたのを目にしていたということがあるかも知れません。

そうした意味では、うなごうじ祭は私個人のなかでは毎年3 月中頃に行われていた犬山市にある田県神社の「豊年まつり」や5 月上旬の三重県多度大社の「上げ馬神事」などと同じ行事のひとつにすぎませんでした。したがって、今回のように柴田さんの『穂国幻史考』を読む機会を与えてもらわなければ、「うなごうじ祭」を深く・詳しく知ることはなかっただろうと思います。

その「うなごうじ」ですが、一般には今日でも「若葉祭の行列の最後尾で、囃子ながら数人が寝転ぶ『ヤンヨウ神』の動作をウジ虫に似ているとして『うなごうじ祭』と呼ぶ(ともいわれる)」といった説明が行われていますが、これを柴田さんは根拠のない俗説であると退けています。

柴田さんはその根拠として、次のようなことがらを挙げています。

1.この「うなごうじ」の名称が付けられた遠因は、国学者平田篤胤の弟子の羽田野敬雄が平田篤胤の著作『仙境異聞(せんきょういぶん)』に見える「うなこうじ(尾長蛆)」と「若葉祭」の通稱「うなごうじ」は同じ意ではないか云々と周圍に口にした可能性S.1340 があること。

2.平田學派の復古神道を東三河に廣めた中心人物であった羽田野が、牛久保の祭禮と土地柄をどう見ていたのかを、羽田野の業績や人となり、東三河の知識人に對する影響力の强さといった面をも押さえて考察した結果、少なくともその状況證據といえるものは擧げることに成功したS.1387 こと。

3.若葉祭(通稱・うなごうじ祭)」の「うなごうじ」=尾長蛆→蛆蟲由來説の淵源は、羽田野敬雄の發言にあったという結論が導かれること。柴田さんは、この3点をあくまでも推論であり、状況證據と考えられるに過ぎないーとしています。

4..柴田踏葉氏(本名及び生没年等不明)が寄稿した『三河うながうじ祭』において初めて、「うなごうじ」を蛆と關聯附けた描寫が登場し鄕土趣味社發行の機關誌『鄕土趣味』※大正十三年六月號(通號第五十四號)S.1336 この俗説が大正期には人口に膾炙していたS.1341 としています。また、田中緑紅(りょっこう) 鄕土趣味社發行の機關誌『鄕土趣味』主宰や『牛久保私談』1937-41(S12-16)年牛久保会がこの尾長蛆→蛆蟲由來説を強化。

5.そして、伊那森太郎(もりたろう)著『三河のお祭』1953 で尾長蛆→蛆蟲由來説が不動のものとなった、と言います。S.1365 S.1492 S.1634 S.1758 S.1775

6.その後、梅村則義が『奇祭牛久保のうなごうじまつり』2008 で『和訓栞わくんのしおり』倭訓栞後編1887 を取り上げて「古文書から四月八日は、昔は便所の戸に逆さまに『うなごうじ』と書いた紙を貼り蛆虫が上に這い上がらないようにしていた風習があったようで、その風習の四月八日が、当地の祭りの日であったため、やんよう神の寝転ぶ姿を見物人が見て『うなごうじのようだ』とか言ったのがうなごうじ祭りというようになってついに天下の奇祭とまでいわれるようになったと推察する」と書いていることも引用されています。

(5)俗説に対する柴田さんの反論
上で挙げたような俗説に対して柴田さんは以下のように反論しています。
1.大正13 年当時神幸祭の行列で地面に寝転ぶ特徴は、牛久保だけでなく御馬の引馬神社の祭礼にもあること。

2.このことは旧宝飯郡には「うなごうじ」という方言はなかったし、地面に寝転ぶことを「うなごうじ」といったことの否定になる。

3.若葉祭の起源に関連する話として、一色城を居城にしていた牧野成時(しげとき)古白(法名)が四月八日に詠じた連歌の發句を結んだ若葉の具灰を「灰塚野」に流す祭り=左義長を牧野氏は、「ウナクタウシの祭」あるいはそれが訛化(がか)した「うなごうじの祭」と呼んでいても不思議はないと柴田さんは言います。アイヌ語由來の"husko・bet・kus"(古い・川・通る)を新たな廣域地名「牛窪」として採用する牧野氏であったなら、「灰塚野の祭」(灰塚野」は「灰捨場(una・kuta・usi)」に由來)とすることから、アイヌ語の「ウナクタウシuna・kuta・usi」の祭、あるいは「うなごうじ」を祭りの名稱とする可能性が高いというわけです。

4.領主の振る舞い酒に酩酊した牛久保の民衆が、領主への感謝のしるしとして、よろめいて倒れる様子を後世に伝えるのがヤンヨウ神の寝転ぶ姿だとすれば、民衆がそれをウジ虫に例えるはずはない。

5.「若葉祭」で「ヤンヨウ神」が道路に寢轉ぶのを始めるのは、マグニチュード8.6 という稀にみる大地震(本文は寛永1628、宝永1707 の大地震か)の翌年からのことであり、大地を固めるといった意味合いはあっても、蛆虫の眞似をしているわけではないS.1362 S.1382
このように、尾長蛆→蛆蟲由來説に対して丁寧に反論しています。

(6)アイヌ語由来の地名
ここで、牧野氏が新しい牛窪の広域名を、アイヌ語=縄文由來の"husko・bet・kus"(古い・川・通る)を採用したことから、先ほど挙げたウナクタウシ"una・kuta・usi"にしたということに関連して、最初にこの『穂国幻史考』を送ってもらってダウンロードした時、奥付に発行所として「常左府文庫」とされているのを見て珍しい名前だなと思いましたが、これは牧野氏の支配以前は牛窪がトコサブ(表記は常寒・常荒・常左府)と呼ばれていたことに由来することが本文S.1238 を読んでから分かりました。
これもアイヌ語から来ていたのですね。S.3350ff.まで読んでアイヌ語の"tok・o・sap"(①群をなして山から浜へ出る、②群をなして後ろから前へ出る。に漢字を當てたものだということが分かりました(知里真志保著『地名アイヌ語小辞典』)。また、ずっと後のS.4218 でも、「"tok"は、①凸出物、②凸起物を意味し、"o"は、ある動作がそこで行われた場所を示し、「そこで」というような意味になる。"sap"は、"san"の複数形で、①群をなして山から浜へ出る、②群をなして後ろから前へ出るという意味だとあり、だから、"tok・o・sap"は、凸起物(堆積物等)が、そこで群をなして浜(河岸)へせり出しているという意味になり、現在の牛久保城跡邊りが、"tok・o・sap"に當てはまる地形だということもわかりました。

話は変わりますが、私たちISC・21 のメンバーは2017 年の7 月初めに東京外語大の今福龍太先生企画の(稲垣先生没後1 年を追悼する)「津軽巡礼行」で津軽半島をめぐりましたが、その時、私は周辺の地名にアイヌ語由来のものが多いこと、そしてそれは津軽半島に限らず日本の広い範囲で見られることも教えられました。それが、今回『穂国幻史考』を読むことで再確認ができました。日本の古代史を学ぶときにはアイヌ語辞典が必携であることに気づかせてもらいました。

ですから、ヤンヨウ神の命名由来を検討する場合にも、アイヌ語が力を貸してくれることもあるのかと素人ながら勝手な想像してしまいました。
浅い読み込みで全くお恥ずかしい限りですが、以上で『穂国幻史考』を読んで気づかせて頂いたことの報告を終えます。

以下は付録です。
東京で見た「テンテコ祭」
冒頭で学生時代は東京の文京区にある「三河郷友会学生寮」というところで当時寮監をされていた稲垣先生にお世話になっていたことをお話しましたが、この寮には東三河だけでなく、西三河出身の学生も多く入っていました。いわゆる大学付属の寮ではないので、主に都内の各大学に通学する学生が共同生活してしていたわけで、西尾市出身の学生もいました。
『穂国幻史考』では、S.1538 に岩崎美術社『復刻版鄕土趣味』第五分冊の内容を紹介して、「三河熱池(にいけ)のテンテコ祭」について次のように書かれています。「西尾市熱池町神田鎭座の熱池にいけ八幡社の祭禮をいい、この「テンテコ祭」では、厄男が大根で作った男根に模した作り物を腰に附け、その作り物をテンテコテンテコという太鼓の音に合わせて振りながら練り歩く。「テンテコ祭」の名稱は、この「テンテコテンテコ」という太鼓の音による」というものですが、私が入寮した1968 年の春に、この寮で新入生歓迎コンパが催されたとき、西尾出身の先輩学生がこれを見せてくれました。当時純朴な田舎の少年だった私は、先輩たちの強要する一気飲みの洗礼を浴びながら、テンテコ祭をこのときそれがテンテコ祭と知らずに、ただおもしろがって観ていたものでした。  (以上)


2022年05月29日

 第160回ISC・21月例会 (REMOTE: 瀧元誠樹世話人 札幌大学)
Timetable 
           13~14時   参加者からの近況報告

           14時10分~ 「全能の身体」を考える          井上邦子先生(奈良教育大学)

           15時30分~ 「宇宙でのスポーツ」を考える      瀧元誠樹先生(札幌大学)
話題となった図書や情報 など
書籍
・ 北島順子 『近代日本の植民地教育と「満洲」の運動会』《植民地教育史ブックレット》(風響社)

・ 大保木輝雄 『剣道その歴史と技法』日本武道館 ベースボール・マガジン社 2022/03/30

・ 柴田晴廣 『牛窪考』 常左府文庫 2014/10

・ 福岡伸一、他 『ポストコロナの生命哲学』 集英社新書 2021/09/17

・ 西谷修 『理性の探求』 岩波書店 2009/10/29

・ ピーター・スコット=モーガン 『NEO HUMAN 究極の自由を得る未来』 東洋経済新報社 2021

・ 小林武彦 『生物はなぜ死ぬのか』 講談社現代新書 2021/04

画像アーカイブ
・ 『UNESCO WORLD DIGTAL LIBRALY』 商業利用も可!

・ フィンランド 文化遺産庁画像コレクション『The Finnish Heritage Agency』

・ アメリカ議会図書館

2022年04月16日

 第159回ISC・21月例会 (REMOTE: 井上邦子世話人 奈良教育大学)
  Timetable  14:00~
① 情報交換・近況報告

② 話題提供:松井良明先生
  19世紀ブリテン諸島におけるバドミントンの普及に関する基礎的研究
  ― 1873~1875年の新聞広告とその概要について ―

③  シンポジウム話題提供:井上邦子先生
  スポーツ史学会第36回大会シンポジウムに向けて話題提供(第4弾)
  テーマ主旨 タイトル: (仮)「生きる」から問うスポーツ ―感染症の時代の身体―
図書紹介 (記録の都合により、紹介された書籍の全てではありません)
 グレゴワール・シャマユー 著 渡名喜 庸哲 訳
  『ドローンの哲学』 遠隔テクノロジーと<無人化>する戦争  明石書店 2018 

 萩尾 生 編著 吉田 浩美 編著
  『現代バスクを知るための50章』 明石書店 2012

 伊藤亜紗著 
  『手の倫理』 講談社選書メチエ 2020

 吉田文久著
  『ノー・ルール!:英国における民俗フットボールの歴史と文化』  春風社  2022

 CDアルバム
  『ラヂオ体操のすべて』 KINGRECORDS 2003

  『世界』5月号 緊急特集ウクライナ―平和への道標と課題 p.80-92
   西谷修 「新たな「正義の戦争」のリアリティーショー」  岩波書店 2022
 近況報告に代えて(雑感)
 オデッサの階段
 昨年から一人のアスリートの自叙伝の翻訳を試みていて、もうあと少しで完了するところまで来ています。 この作業の中での悩みのひとつは、地名・人名の日本語表記です。彼は東ドイツ出身にもかかわらず、世界中で活躍したアスリートということもあって、登場する人物の出身国も、ドイツ国内に留まらず英・仏・伊・ベルギー・デンマーク・ポーランド・オーストラリアなどに広がっています。 これらには基本的に母国語での発音に近いカタカナ表記にすることを基本にしていますが、状況によってそれが適切なのかどうかは難しいところもあります。

 最近、ロシアとウクライナの戦争報道の中で、地名が「キエフ」から「キーウ」や「チェルノブイリ」が「チョルノービリ」などに変更されるようになりました。 当分の間はロシア語・ウクライナ語発音の両方を併記していくようですが、しばらくして併記がされなくなると、「リビィウ」が「リボフ」だったことは高齢者にはピンとこないかも知れません。

 同じように「オデッサ」が「オデーサ」となってしまうのも、学生時代にエイゼンシュテインの『戦艦ポチョムキン』(1925公開、日本では1967年)を観た私たちの世代には、一抹の寂しさを感じさせます。

 というのは皇帝の軍隊に多くの民衆が撃たれて倒れる中を、赤ちゃんを乗せた乳母車だけが階段を下っていくあの有名な階段のシーン...は、この「オデッサ」の地名を目にしたり、耳にすることによって半世紀以上前に観た『戦艦ポチョムキン』を鮮やかに甦えらせてくれていたからです。 果たして「オデーサ」によってもこのシーンは甦るでしょうか。

 ちなみに、戦艦ポチョムキンの水兵の反乱は1905年に起こった実際の事件で、第1次ロシア革命の中の出来事でした。 おりしも、数日前にロシアのミサイル巡洋艦「モスクワ」がオデッサの近くで沈没 (撃沈?) とのニュースが流れたところですが、これを契機に、誰にとっても悲惨な戦争が終結に向かう、といった都合のいいシナリオは現状ではどこにも見出せないようです。(04/16)

2022年03月06日

第158回ISC・21月例会 (REMOTE: 松浪 稔世話人 東海大学)
・今回世話人の松浪先生から 示されたテーマは以下の通りです。

テーマ①:フリートーク 東京オリンピック2020の総括を試みる

テーマ②:福岡伸一さんや西谷修さんの著作等について(前回研究会からの継続) 
  テーマ②船井報告

・ 以下は当日参加の皆さんにダウンロードしていただいた資料です。
これは2019年の第136回神戸市外国語大学で報告した内容の続きで、今回はスポーツ史を叙述するうえで、踏まえておいた方が良いと思われる現代思想の流れを素描してみました。
 
 

参加人数:若干途中で出入りがありましたが16~19名でした。東京オリンピック2020の総括は話題満載で盛り上がりました。
 






2022年02月11日

今年の向山緑地 梅林園 満開までにはもう少しでした
   
梅林の入り口には真新しい幟が  例年と同じ場所に茶店 
   
 梅に「鶯」・・・ではなく「メジロ」  紅乙女

2021年10月17日

第154回 ISC・21月例研究会(REMOTE:井上世話人=奈良教育大)報告 
   Timetable
 
 内容; 14時~14時50分 近況報告、ブックレビュー等

       15時~16時 船井廣則
         テーマ;「ドイツスポーツ殿堂
Hall of Fame des deutschen Sports について」

       16時10分~17時10分 松本彰之先生
         テーマ;「鶴岡八幡宮における相撲組織に関する一考察
-相撲奉行の「格」に着目して-」

 報告原稿
 
 
 
 
 
 
 
資料 表-1 表-2 表-3 
 


2020年02月22日

第146回 ISC・21月例研究会(豊橋)報告   
開催 日時:2020年02月22日(土)

開催 場所:豊橋市民センター (カリオンビル) 第 1 ミーティングルーム

プログラム
13:00~13:50 第1部では以下の情報と書籍が紹介されました
 〈情報
1)先月の山焼き例会とバッティングしたため、ほとんどのISC・21メンバーが参加できなかったので、菅井京子さん代表派遣(!?)の「早稲田文化人類学会 第21回総会・シンポジウム」プログラムのコピー(下)と、シンポ(“身体の零度”を超えて:ドーピング・パラリンピック・呪術)の雰囲気が三井悦子さんを通して伝えられました。
プログラムのコピーはここをクリック→
 2)竹谷和之さんから、3月20日に東京外国語大学プロメテウスホールにて、今福龍太さんが東京外国語大学「最終講義」に代えて、映像・音楽・詩の朗読・語り・対話・パフォーマンスのすべての要素を織り交ぜ、30年にわたる思考と著作の軌跡を舞台上で演出・上演するまったく新しい表現世界としての《オペラ・サウダージ》を開催されるとの情報をいただきました。
http://www.tufs.ac.jp/common/fs/ics/events/event20200320/poster20200320%201.pdf へのリンク
 3)竹谷和之さんから、ジャック・マイヨールの映画『ドルフィン・マン~ジャック・マイヨール、蒼く深い海へ』が神戸元町映画館で2020年2月1日(土)~2月14日(金)に上映されたことが報告されました。  
 <ブックレビュー
 1)ジョルジュ・バタイユ 『ヒロシマの人々の物語』 景文館書店  2015/2/28     (三井悦子さん)
 2)ヴォルフガング・ベーリンガー 『スポーツの文化史 古代オリンピックから21世紀まで』 法政大学出版局  2019/3/25   (林 郁子さん)
 3)志田陽子編 『映画で学ぶ憲法』 法律文化社 2014/3/20 (林 郁子さん)
14:00~16:50 第2部: 個別発表 
 (1)植村美奈都さん 「私が見たインドの人々の生活」
  資料1・2 (
  (2)船井廣則 「スポーツ史叙述における主観と客観」―「私」とは何なのか ― 
  ハンドアウト・PPT画像一覧 (  )   



2020年01月25ー26日


若草山の山焼きにあわせて、毎年の恒例となっているISC・21「山焼き」月例会(奈良教育大学を会場に開催)に
行きました。
新幹線で遠方に出かける機会も、退職後はめっきり少なくなってきました。
JR「ジパング」の利用も、昨年末のスポーツ史学会(中央大学多摩キャンパス)以来でした。

 
 第145回 ISC・21山焼き月例会のプログラムを、今回担当の世話人竹村匡弥さんの告知から紹介します。

 奈良若草山山焼きに合わせて月例会を開催いたします。元旦に叢文社より上梓された『現代スボーツ批評』の合評会を行います。
 稲垣正浩先生監修、松浪稔先生、井上邦子先生編著による本著は、サブタイトルとして、スポーツの「あたりまえ」を問い直すとあるように、ドーピング、勝利至上主義、採点、審判の問題など、現代、私たちが目にするスポーツの「あたりまえ」を問い直す極めて興味深い内容になっています。
奮ってご参加のほどよろしくお願いいたします。

                       【 記 】

     開催日時:2020年1月25日(土)午後1時~5時半
     開催場所:奈良教育大学 R2 理科2号棟 保健体育演習室

  プログラム予定:
     ○第1部(13:00~14:00) 情報交換、近況報告
     ○第2部(14:30~17:30) 『現代スポーツ批評』を読む

  <コメンテイター>
     瀧元誠樹先生
     川上雅弘先生
     松本芳明先生
   *特別コメンテイター:西谷修先生  
    
会場の奈良教育大学 R2 理科2号棟 保健体育演習室  山焼き点火直前に打ち上げられた夜空を彩る花火 
   
 今年の花火は例年よりも華やかで、色彩にあふれていました。 ライトアップされ、夜空に浮かび上がる興福寺五重塔 
   
昨年5月にも訪れた法隆寺。今回はちょうど文化財防火デーに当たっており、大規模な消防訓練を見学することができました。  1949年世界最古の木造建築法隆寺金堂で火災。貴重な壁画(国宝)が損傷したのをきっかけに文化財保護法が制定され、1950年1月26日以来左の写真のような消防訓練が行われるようになったということです。上は焼損前の壁画の一部(Wikiより)。



2019年12月07ー8日
中央大学多摩キャンパスにて開催された第33回スポーツ史学会大会に行ってきました。
初めて訪れたキャンパスの「広大」さに圧倒されました。会場の教室にたどり着くまでが長かった・・・。

   
 どうやらあの建物が3号館らしい。会場の5号館と8号館
はさらにその先。
 モノレールから降り、守衛さんのいる案内所を過ぎて振り
向くとこの景色。
   
3号館に向かう階段。アップ・ダウンに富むキャンパス。   マイクを持ち演壇に立つのはミヒャエル・クリューガー教授
左は大会組織委員長の市場俊之教授。 

2019年9月20日
豊田市美術館で「クリムト展を観てきました。

   芸術の秋ということで、豊田市美術館で開催中の
 GUSTAV KLIMT Vienna-Japan 1900
を観てきました。  
 会場はそれほど混雑しておらず、ゆっくり鑑賞することができました。
   
 美術館公式サイトの説明によれば、美術館は旧挙母藩のお城(七州城)があった場所に建てられたとのことで、豊田市の中心部を見下ろすことができる高台にあります。

 この近代的な建物は「世界で最も美しい美術館をつくる建築家」と呼ばれ、 ニューヨーク近代美術館(MoMA)の新館も手がけた建築家 谷口吉生氏の設計によるもので、1995年(平成7年)に開館されました。 
   
 名鉄豊田市駅近くの梅の花にて昼食   初めて「タピオカティー」なるモノを試してみました
   
 松坂屋豊田店では 10月12日豊田スタジアムでの対戦に合わせて、「イタリア・ニュージーランド ラグビー博物館」特別展を開催していました(残念ながらこの試合は19号台風により中止となり「引き分け」の結果に
 
 
  なんとこの特別展の展示のひとつに、 NPO法人「体育とスポーツの図書館」のコーナがありました。この図書館
 の存在は以前から新聞報道を通して知っていましたが、ここに学生時代に教育実習でお世話になった中村敏雄先
 生の文庫が設置されていることは不覚にも知りませんでした(会場に置かれていた三つ折りのパンフレットです)。
  会場に展示された中村先生の直筆原稿などを見て、かつて学会などでお見かけした生前のお姿を懐かしく思い出
 しました。たまたま立ち寄ったデパートでこのような出会いがあるとは! 思いもよらぬ幸運に感謝。

2019年7月20日
第139回の月例会は、三井悦子世話人の所属する椙山女学園大学日進キャンパスにて開催されました。

◯開催日時: 2019年7月20日(土)午後1時半~5時半

◯開催場所: 椙山女学園大学 日進キャンパス 5-206室

◯プログラム:
(第1部)午後1時半~2時半 : 情報交換、近況報告

ブックレヴューで取り上げられた書籍の主なもの(順不同):
 池井戸潤『ノーサイド・ゲーム』ダイヤモンド社 2019/06
 今福龍太『小さな夜を越えて:対話集成』水声社 2019/04
 石堂典秀 大友昌子 木村華織 來田享子(編著)『知の饗宴としてのオリンピック』エイデル研究所 2016/12
 アンディ・ミア, 稲見 昌彦他『スポーツ2.0:進化するeスポーツ、変容するオリンピック』NTT出版 2018/08
 伊藤昌亮『フラッシュモブズ』NTT出版 2016/01
 柄谷行人『世界史の実験』岩波新書 2019/02

(第2部)午後2時半~5時半 : 個別発表

 ①脇田泰子(椙山女学園大学)フランスの視点から考える「記憶の1964年東京オリンピック」
  
本年5月24日に inalco(Institut national des langues et civilisations orientales: フランス国立東洋言語文化学院)において上記の統一テーマのもとに発表された"La diffusion de la culture japonaise a travers les Jeux olympiques de 1964"をご紹介いただきました。

 ②松本芳明(大阪学院大学)「とび箱運動は日本にどのようにして入ってきたか」

  時間がなくて前回持ち越しとなっていましたが、今回ももう少しじっくり拝聴したい発表でした。現在の日本の学校体育における「器械運動」(器械体操)の明治期における導入から、大正末の定着までの過程を、国立国会図書館のデジタルコレクションの資料を駆使して追究されたもので、木馬や跳び箱の形態の変化に大変興味を覚えました。





2019年6月22日
松本芳明世話人の呼びかけで、第138回 ISC・21月例会が大阪学院大学で開催されました。

◯開催日時: 2019年6月22日(土)午後1時~5時半

◯場所:大阪学院大学5号館B2-02教室

◯プログラム:
(第1部)午後1時~2時15分:情報交換、近況報告

(第2部)午後2時30分~5時30分:個別発表

 ①石村広明(天理大学)「マンガで描かれる高校野球投手の『投球観』」
  
 高校野球において 投手の投球過多が問題となっているが、それは「選手自身が投げることを望んでいる」ことが原因としてあげられるとし、そこに幼い頃から親しんできた野球漫画の影響がありはしないか? との観点から高校球児の「投球観」を考察、高校野球経験者からの聞き取りをもとに丁寧に分析されていました。

 ②松本芳明(大阪学院大学)「とび箱運動は日本にどのようにして入ってきたか」           
・・・前半が盛上がってタイムオーバーとなり松本先生の報告は次回に持ち越しとなりました。




2019年05月18日

第137回 ISC・21月例会は、竹村匡弥世話人の呼びかけで奈良教育大学を会場に開催されました。今回私自身は発表しませんでしたが、下記の案内にあるように、中房敏朗さんと井上邦子さんの大変興味深いご発表を聴くことができました

 
 ・開催日時: 2019年5月18日(土)13:30~18:00

 ・開催場所:奈良教育大学 保健体育演習室(理科2号棟2F)


 プログラム:

 ・第1部 13:30~  近況報告、ブックレビューなど


 ・第2部 15:00~18:00 個別発表

  中房敏朗先生 「スポーツの概念史: 再論

  井上邦子先生 「モンゴルフィールドワーク報告 モンゴル民族舞踊ビー・ビルゲーについて」
 
   
  井上邦子先生が大型連休中にモンゴルにフィールドワーク行かれ、まだ帰国後間もなくで「湯気が立っている」状態の民族舞踊「ビー・ビルゲー」報告のようす。ゲルの中で演じられる舞踊など貴重な動画を見せていただいた。   インターネットなど近年における研究環境の充実を武器に、従来のスポーツ概念を再検討した成果(「スポーツ(sport)の語源および語史を再検討する」大阪体育大学紀要第50巻(2019))をもとに発表する中房敏朗先生。

2019年04月20日

竹谷和之世話人の呼びかけで開催された第136回ISC・21神戸月例会に参加した報告です。
今回は2月大阪の第134回例会の折りに、ブックレビューで取り上げたマルクス・ガブリエル著『なぜ世界は存在しないのか』を詳しく紹介する形で報告しました。

・開催日時: 2019年4月20日(土)13:00~17:30

・開催場所:神戸市外国語大学 楠ヶ丘会館1F会議室(神戸市外大キャンパス内)

プログラム:
・第1部 13:00~14:30 近況報告、ブックレビューなど

・第2部 14:45~17:30 個別発表
   船井廣則 「『マルクス・ガブリエルの世界観』―本当に世界は存在しないのか―」

   竹谷和之先生 「ルイス・ビベス『ラテン語練習帳』(1538)にみるぺロタ球戯」
 
 今回はレジュメを用意せず、PPTを使った口頭での発表でしたので、以下にいくつかのスライドを取り上げ、それを並べることで概要を紹介しようと思います。 
   
   
   
 
 ・・・ということで、まだじゅうぶん内容を咀嚼できておらず、不完全燃焼の報告になりました。
 
私の後で報告された竹谷和之さんの 「ルイス・ビベス『ラテン語練習帳』(1538)にみる ぺロタ球
戯」は、ドイツのテニス史家(本業は比較言語学)H.ギルマイスターのテニス起源説に真っ向から異
を唱えるスリリングな内容でした。
 竹谷先生の語学力を駆使した史料の読込みが素晴らしく、勉強させていただきました。
 

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2018年11月15日
   2018年11月15日      第131回ISC・21月例会(名古屋)の簡略な報告

 ISC・21名古屋例会は、2018年11月3日(土)、椙山女学園大学日進キャンパスを会場に開催されました。
 11月3日は曇り空でしたが、風もなく穏やかな「文化の日」でした。前回、東京の20名超の参加者と比べると、名古屋は小ぶりな例会となりましたが、入試をはじめとする校務が目白押しの時期でもあるので、そんな中でもよくお集まりいただけたと思います。

 第一部(13:30~14:40)では、フリージャーナリストの安田純平氏が解放され、帰国してまだ10日足らずでもあったので、政府の姿勢やメディアの報道のあり方、そして「自己責任論」などに話題が広がりました。

 休憩を挟んでからの第二部は15:00ころにスタートしました。


 最初に、9月30日の第130回月例会(東京)で開催された『からだが生きる瞬間』合評会の「反芻」として、船井が「となりのKさん」というタイトルで報告を行いました。

 冒頭、Kさんが『からだが生きる瞬間』の誕生秘話にどのように関わっておられたのかが紹介されました。また、Kさんの竹内敏晴さんとの最初の出会いが、ちょうど世界的な若者の反乱の焔が「モラトリアム人間」という冷や水を浴びせられ消えゆくタイミングであったことも、船井の目を引きました。

 1970年前後の時期に東京で同じ空気を吸っていた船井の記憶から、Kさんとの「となり」性(=Nachbarschaftt)についての言及がありました。この「となり性」は、実は竹内さんの敗戦による価値観のドラスティックな転倒体験と、Kさんの「戦後民主主義体制の崩壊=既成左翼に対する幻滅」の体験が共鳴(miteinabder Klingen)していることとも繋がっていると船井は想像しています。

 
 
 続いて2題の個別発表が行われました。

 最初の発表は、S.Kさんの「1970年代のメダウの学校における方向転換について ---『ある体操学校のポートレート』を手掛かりにして---」でした。 Sさんはすでに皆さんご承知のように、これまでにF. HilkerやR. Bode、H. Medauらの体操改革運動の流れ、さらには「動きのゲシュタルトゥングの意味と方法」について詳細に追究してこられました。

 今回は1970年代において生じた、それまでのMedauの体操とは異なる変化について着目されました。その変化は、従来の「動きづくり」から転じて、「生理学的な正しさを最優先」におく考え方に「方向転換」したことによって生じた結果であることが明らかにされました。

 続いての、W.Mさんによる発表は「1964年東京オリンピックの文化発信と海外の受け止め」でした。Wさんは1964年の東京オリンピックがフランスではどのように報じられていたかを、おもにパリの古書店に残る当時の新聞や雑誌のバックナンバーを資料として調査されました。

 その様子はPPTの90枚におよぶ画像によって詳細に報告されました。なかでも日刊紙「ル・フィガロ」の東京オリンピック報道には、他紙にみられない特徴、すなわちオリンピック以外の日本文化に関する秀逸な囲み記事が掲載されていたことに着目されました。 こうした視点から、2020年においてもまた「伝統的なものの持つ価値と最先端のカルチャーとが自由に往き来して共存できるオープンな場」、すなわち文化発信の場、となることが重要なポイントであるとされました。



2018年09月07日
   2018年09月07日       Buehrle Collectionを観てきました

  Buehrle Collection はすでに7月末から始まっていましたが、思いがけず「痛風」を患ってしまい、激痛にさいなまれてなかなか出かけることができないでいました。本日ようやく名古屋市美術館で「美少女」に逢うことができました。


 最終日より二週間以上も前なので、ゆっくり観賞することができるだろうと思っていましたが、またもや予想は外れて大混雑。比較的空いていたのは「ブラック」や「ゴッホ」、「ゴーギャン」のコーナーでした。
 「美少女」の前は黒山の人だかり。入り口に置かれた写真撮影用大ポスターのキャッチ・コピーは「絵画史上、最強の美少女。」とあり、「美少女」にはなんと「センター」のルビがふってあるではありませんか。「あ~ぁ、こういうノリなんだ」といささかげんなり。

写真撮影OKのコーナーには、大勢の人だかりが。

 
 
 スマホやカメラレンズの砲列の先には・・・。
 
 
 モネの睡蓮でした。20年近く前にオランジュリーで観た幾つかの作品よりもだいぶ小ぶりでしたが、この人混みさえ無ければずっと眺めていたいと思いました。もっとも、他の人たちもきっと同じ感想を持ったに違いありません。


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2018年07月24日
   2018年07月24日          大相撲名古屋場所 

 大相撲名古屋場所は、長野出身御嵩海の初優勝で幕を閉じたところです。
 先週金曜(20日)に「ドルフィンズアリーナ」で行われていた名古屋場所の13日目を観に行きました。

 ドルフィンズアリーナ? 昨年までは確か「愛知県体育館」だったはず。これは愛知県がネーミングライツ料 年額 2,700万円で、名古屋ダイヤモンドドルフィンズ株式会社に名称の使用権を売り、今年4月からこの名称が使われるようになったからだそうです(3年契約)。

 
 金曜(20日)の時点ではまだ御嵩海の優勝は決まっていませんでしたが、すでにご存じの通り翌14日目の21日に、千秋楽を待つことなく優勝が決定しました。3横綱・1大関が不在という絶好のチャンスを、関脇御嵩海がしっかりとものにしました。

 関脇の優勝は照の富士以来3年ぶり、初土俵から21場所目の優勝は歴代3位ということで、すばらしい数字です。

 下の写真は十枚目西の力士の土俵入りです。土俵左端でこちらに顔を見せているのは安美錦。ここのところ前頭と十両を行ったり来たりしていますが、9勝6敗の成績を残したことで来場所は前頭十?枚目あたりで取ることになるでしょう。
 安美錦は津島佑子『ジャッカ・ドフニ』にも、彼女の父親の太宰治『津軽』にも登場する西津軽郡深浦町の出身で、初土俵から今年で21年目の古参力士です。ちなみに、横綱貴乃花の現役最後の対戦相手でもありました。けがに苦しみながらも、朝青龍から4つの金星を得ているし、琴欧洲には通算で勝ち越す対戦成績を持っています。これから40歳過ぎても頑張って欲しい。

 

 けがといえば、テーピングやサポーターなどをしている力士の多さに、あらためて相撲が厳しい職業であることに気付かされました。
 というのは、幕下から結びまでの取組は51番ありましたが、その中でテーピングやサポーターなどを一切していない力士を数えてみたのです。すると、102人中、なんと9人しかいませんでした。

 年間6場所の興行は、やはり、けがを癒やす時間を充分与えていないのかも知れません。

 






2018年07月12日
   2018年07月12日         暑中お見舞い申し上げます。 
 
 西日本から岐阜までの広い範囲がこれまでに経験したことのないような豪雨に見舞われ、ここのところ毎日その被害の甚大さが報道されていて、心が痛みます。
 皆様の所はいかがでしたでしょうか。
 
 
 豪雨とはまったく無関係ですが、個人的に先週突然「痛風発作」に見舞われました。初めての経験です。左足第1中足骨に強烈な痛みが走り、昨日まで1週間ほどまったく家を出ることができませんでした。

 そんなわけで、腫れた足を冷やしつつ、豊橋ハリストス正教会を水彩で描いてみました。国の重要文化財に指定された建物だけに美しい造形で、いちど描いてみたいと思っていたのですが、やっとその機会が巡ってきました。

 下手の横好きです。



2018年06月19日

  2018年06月19日      柳田国男『山の背比べ』について

 調べたいことがあって、柳田国男の著作を何冊か読んでいたところ、その中の1冊で面白い記述に出あいました。
 その記述が掲載されている本は、初出が1929(昭和4)年とずいぶん昔にアルスという出版社から出た『日本神話伝説集』です。これは日本児童文庫シリーズの第8巻として刊行された本でした。幸いなことに、現在では新潮文庫から『日本の伝説』(昭和52年刊)としてその一部が取り出され刊行されているので、わざわざ図書館まで足を運ばなくても、その面白い記述を手軽に読むことができます。
 
 

 この『日本の伝説』には柳田国男によって採集された日本各地の伝説が、こどもにもわかりやすい語り口で紹介されています。掲載されている11の伝説の中で、特に目を引いたのは「山の背比べ」でした。ここには富士山 VS 白山のように、勝敗のはっきりしたものだけでも13の対戦(?)が取りあげられています。その中で私の目に止まった山の名前は2つの「本宮山」と「尾張小富士」、そして「石巻山」でした。

 これらの山の「背比べ」は柳田国男が採集した当時、すなわち昭和の初め頃の地名でいえば「愛知県丹羽郡池野村」と「愛知県八名郡石巻村」にそれぞれあった2つの山の間で行われています。まず、「愛知県丹羽郡池野村」の近くでは「本宮山」と「尾張小富士」の対戦。そして「愛知県八名郡石巻村」の周辺では「本宮山」と「石巻山」の対決です。いずれの対決でも「本宮山」が登場しますが、これは同じ山ではありません。
 
 

 数年前まで、40年近く勤務していた短大からは(そして、かつての自宅からも)、この二つの山はいつもよく見えていました。犬山に住み始めた1976(昭和51)年頃一方の山を「尾張小富士」とよぶ人はすでになく、誰に聞いてもその名は「尾張富士」でした。名古屋方面から車で国道41号線を北上してくると、直線距離で1.3kmしか離れていない二つの山は、ともにウインドシールドを通して右手前方に並んで視界に入ってきます。
 実際、当時の自分のテリトリーを示す、いわばランドマークのようなものでした。また、幼稚園の年長さん時代の息子にとっては、その山頂を征服しなければならない試練の山でもあったのです。

 ここで「山の背比べ」の該当箇所を少し引用してみましょう。
「尾張小富士という山は 尾張国の北の境、入鹿の池の近くにある小山ですが、山の姿が富士山とよく似ているので土地の人たちに尊敬せられています。それがお隣りの本宮山という山と高さ比べをして、やはり樋を掛け水を通して見たという話が伝わっております。」(『日本の伝説』新潮文庫 p.160)
 この背比べの結果は本宮山の勝ち(実際の標高も本宮山291m、尾張富士279mで12mほど本宮山が高い)で、この対戦をきっかけとして尾張富士浅間神社の氏子たちが山頂に石を奉納する「石上げ祭り」が始まったといわれています。


 さて次は、もう一つの「本宮山」と「石巻山」の対戦です。まず、「山の背比べ」の引用から見ていきましょう。「三河の本宮山と、石巻山とは、豊川の流れを隔てて西東に今でも大昔以来の丈くらべを続けていますが、この二つの峯は寸分も高さの差がないということであります。」(『日本の伝説』新潮文庫 p.161)
 
 
 小学校から高校卒業までの10年間を梅田川河口あたりの開けた低地で過ごしたので、本宮山と石巻山ともよく見えてなじみ深い山でした。ここで柳田が伝聞形式で語る「この二つの峯は寸分も高さの差がない」というのは、実際に眺めて比べてみても、実測値としても正しくありません。
 国土地理院の地図で確認すれば分かることですが、石巻山は358mで本宮山(789m)の半分にも届かず、二つの山の背丈は親子ほどの違いがあります。「背比べ」の相手としては、本宮山よりもむしろ石巻山から見て東北東に3kmあまり隔たった坊ヶ峰(446m)のほうが適当でしょう。まぁ、それにしたって石巻山の負けには変わりないのですが・・・。
 さらにまた、「本宮山と、石巻山とは、豊川の流れを隔てて西東に今でも大昔以来の丈くらべを続けて・・・」というのも正しくないように思います。上の地図をご覧になれば分かりますが、西東というより、位置関係は北南としたほうが適切なようです。


 退職して豊橋の町中に住んでいる今は、少し高い建物に登るか、豊川の堤防あたりの開けたところに出なければ二つの山を同時に眺めることはできなくなりました。
 「背比べ」はともかく、見慣れた山の姿や、聞き慣れなれたその名はいつの間にか私たちの身体の奥深くに住み着いていて、たとえ小さな活字であったとしても、それが目に入るや否や瞬時にさまざまな思い出を蘇らせるスイッチの働きをすることに気付かされたことでした。


 


  2018年06月10日

 2018年06月10日        グループ展を観てきました 
 
  短大時代の教え子の M さんからグループ展の案内を頂きました。昨年は5月の開催で したが、今年は
6月に なってグループ(したがって先生)も昨年とは替わったようです。
 どんな様子か観に行ってきました。
 
   会場のギャラリーは、ソフトバンクとの三連戦が行われているドームのすぐ前でした。絵を学ぶ
  グループが替わって、画風も少し変化したように感じましたし、腕前の方は着実にあがっている
  ように見受けました。少しの時間お話できましたが、絵に対しても保 育に対しても意欲を感じました。
   これからも頑張って欲しいと思います。

  2018年05月27日

 2018年05月27日         すばらしい本が誕生しました 
 
 一昨日、ISC・21の仲間で医療体操史、健康文化論などの研究者である三井悦子さんの編集になるできたての本が届きました。

 その本とは、稲垣正浩・三井悦子編『からだが生きる瞬間 ー竹内敏晴と語りあった四日間ー』藤原書店 2018年6月10日 です。

 以下のようなすてきな表紙カバーが付いています.
 
 先日、6月はじめにはこの書籍が全国の書店に並ぶ、ということを知らせていただいたメールには「自分でいうのもおかしいですが、とっても素晴らしい子が生まれてきてくれました」とありました。

  実際に手にしてその通りだと思いました。ですから、このブログを読んでいただいた皆さんには是非この「すばらしい子」にあってくださることを強くお勧めします。

 この書籍の編集に傾注された三井さんのエネルギーの量と質に心から敬意を表します


2018年5月25日

  2018年05月25日         古文書講座に参加しました 
 
  調べ物をしていても、江戸期の資料で翻刻されていないものに出合うと、これまでは全くお手上げでした。少しでもこの情けない状態を改善したいと思っていたのですが、これまでその機会に恵まれませんでした。

 ところが、つい先日、市の広報の中に「古文書講座」の文字を見つけたのです。そこで、さっそく申し込みました。

 この入門講座は5回構成で、第1回は以下の資料が用いられました。 
 
  講師の先生のお話はとても興味深く、90分間の講義は瞬く間に過ぎてしまいました。

 上の資料は新居(今切)の関所宛の通行手形でした。蛮社の獄で渡辺崋山たちを弾圧したあの鳥居耀蔵が、失脚後に讃岐の丸亀に護送される際に用いられたものということです。

 この講座では最初にいくつかの資料が配付されました。以下はその一枚(部分)ですが、いまのところまだ何が書いてあるのか全く分かりません。
 


2018年03月29日

松本芳明世話人の呼びかけで開催された第124回ISC・21大阪月例会に参加した報告です。

○開催日時:平成30年3月29日(木)13時~17時40分

○開催場所:大阪学院大学5号館B2-02会議室

◯プログラム:
 第1部 13時~14時 
近況報告・情報交換
 第2部 14時10分~17時40分
文献詳読: 『ドーピングの哲学』(新曜社)を読む
ジャン=ノエル・ミサ、パスカル・ヌーヴェル編、橋本一径訳 
・船井廣則: 島薗進『いのちを”つくって”もいいですか?』読後感と「エンハンスメント」について
・林 郁子 先生:『ドーピングの哲学』を読んで 

*ディスカッション:『ドーピングの哲学』に触発されて
 「ドーピング」問題を考えるキーワード
 司会; 松本芳明 先生
会場の大阪学院大学5号館B2-02会議室
 以下は当日船井が配布したハンドアウトです
 

2018年02月27日

三井悦子世話人の呼びかけで開催された第123回ISC・21名古屋月例会に参加した報告です。


   ・開催日時: 2018年2月27日(火)13時半より17時半まで

   ・開催場所: 椙山女学園大学 日進キャンパス 5号棟 207室

   ・プログラム
    第一部:情報交換(ブック・レヴュー、活動報告など、1時間ほど)
 
    第二部:文献詳読: 『ドーピングの哲学』(新曜社)を読む
     ジャン=ノエル・ミサ、パスカル・ヌーヴェル編、橋本一径訳
 
          コメンテーター : 

          竹村匡哉(ISC21特別研究員)
                    「Ⅸ章 スポーツ選手の身体の「自然」と「超自然」を読んで」

          船井廣則(ISC21特別研究員)今回の議論に補助線を提供する意図で
                    「ドーピング」の社会学的分析について

          井上邦子(奈良教育大学)
                    「Ⅹ章 ハイレベルのスポーツ選手の活動の理解における「指令」と「自律」
                     ― ドーピング倫理にとって必要な知とは ―」 を手掛かりに
以下は当日船井が配布したハンドアウトです 
 




2018年01月27日

竹村匡弥世話人の呼びかけで開催された第121回ISC・21奈良山焼き月例会(稲垣先生三回忌)に参加した報告です。

・ 開催日時:平成30127()午後1~6 

・ 開催場所
:奈良教育大学 L2号棟 206教室

プログラム

1(13:00~13:30) 文献紹介、情報交換、近況報告

2(14:00~18:00) 文献詳読・コメント

   ジャン=ノエル・ミサ、パスカル・ヌーヴェル編  橋本一径訳 ドーピングの哲学 (新曜社)を読む

<発表者>

    1)竹谷和之(神戸市外国語大学)
   アレクサンドル・モロン V章「ドーピングと(は)スポーツ精神(である?)

    2)川上雅弘(奈良先端科学技術大学院大学)
   生命科学から”ドーピングの哲学”を読む(最近の生命科学からの話題提供)

    3)松本芳明(大阪学院大学)
   『ドーピングの哲学』(ジャン=ノエル・ミサ、パスカル・ヌーヴェル編 橋本一径訳)を読む

 
 
打ち上げ花火が終わり、若草山の裾野から火が放たれたところ 
 
3(19:00~) 寧楽館での稲垣先生三回忌を兼ねた懇親会 
 

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2017年12月2~3日

スポーツ史学会の第31回大会が日本女子大学 目白キャンパス 百年館低層棟206・207教室で開催されたので参加してきました。

 
 上は公開シンポジウムに先だって挨拶される司会の大沼義彦先生。
 シンポジウムの内容は下のフライヤーのとおり 
 
 発表演題数が30と多く。第2日目は初めて2会場同時進行で発表が行われた。




2017年11月11日
竹谷和之世話人の呼びかけで開催された第120回ISC・21東京月例会に参加した報告です。

期 日:2017年11月11日(土) 13:00~18:00
場 所:青山学院大学 11号館7階 1172教室


スケジュール:
13:00~14:00 近況報告、ブックレビューなど
14:15~18:00 「津軽巡礼行(故稲垣正浩氏一周忌によせて)」

   司会挨拶 趣旨説明 三井悦子 椙山女学園大学教授 
                 竹谷和之 神戸市外国語大学教授
          
          巡礼路概略(写真・ビデオ) 

   個別発表
          1.船井廣則 21世紀スポーツ文化研究所主幹研究員
              「津軽巡礼行の余白で考えたこと」  
          2.河野文子 筑波大学附属桐が丘特別支援学校教諭
              「忘れられない旅…津軽巡礼-『あたま こころ からだ』より-」
          3.瀧元誠樹 札幌大学教授
              「聖地を巡ることから舞と武を再考する」
          4.竹村匡弥 21世紀スポーツ文化研究所特別研究員
              「モノ」の世界と『break on through to the other side』」         
                    

    応 答: 今福龍太 東京外国語大学大学院教授
   
    コーディネーター: 松本芳明 大阪学院大学教授
下は当日配布したPPT資料(「津軽巡礼行の余白で考えたこと」)。 
 
 
 
 会場のスナップ
   






2017年10月14日

三井悦子世話人の呼びかけで開催された第119回 ISC・21名古屋月例会のプログラムです。

・日時:平成291014日(土)午後130分より午後530分まで

・場所:椙山女学園大学 日進キャンパス 
2号棟303教室 

・プログラム (敬称略)

   第一部:情報交換(ブック・レヴュー、活動報告など、午後2時半頃まで)
   
   第二部:

      ①「津軽舞踏巡礼行から―それぞれの試み」

        話題提供者: 竹村匡弥 河野文子 三井悦子ほか 

      ② 一般研究発表

         菅井京子「1960年代の体操における動きのゲシュタルトゥングの意味と方法について」

  以下は当日の雰囲気を伝える、世話人三井悦子先生の報告です。 http://www.isc21.jp/isc212013051/201710061712.cgi

第一部では近況報告とブックレビューがなされました。

第2部①は、前回の大阪例会に続いて、7月のフィールドワーク「津軽舞踏巡礼行」から一歩<出る/深める>試みが企画されました。まず竹谷和之さんのヴィジョナリー・スポーツへの誘いとして津軽巡礼を振り返ってみる試み、つぎに河野文子さんの『ジェロニモたちの方舟』(今福龍太)の再読を含め、「あたま こころ からだ」で受信した津軽の旅の振り返り、そして、竹村匡弥さんからは、舞踏巡礼とルジャンドルのダンス論をクロスさせてみるという刺激的な発想の展開があり、これらの話題提供を皮切りに参加者がそれぞれ自由に意見を述べ合いました。

第2部②として、菅井京子さんから「1960年代の体操における動きのゲシュタルトゥングの意味と方法について」の発表がありました。難解な原典を丹念に読み解くことを続けてこられた菅井さんの研究によって、「動きのゲシュタルトゥング」の意味内容や意義がいよいよ明らかになってきたように思われました。




2017年9月16日

松本芳明世話人の呼びかけで開催された第118回ISC・21大阪月例会に参加した報告です。

◎日時:平成29年9月16日(土)午後1時~

◎場所:大阪学院大学5号館B2-02会議室

◎プログラム:「津軽舞踏巡礼行」の振り返り

  ①記録の映像(静止画・動画)の発表。
  ②巡礼における感想などをもとに意見交換。
 下は当日配布したPPT資料です。
 
 



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2017年05月27日

竹谷和之世話人の呼びかけで開催されたISC・21神戸月例会に参加しました。
その内容は次の通りでした。

 
  日 時:2017年5月27日(土) 13:30~18:10
 
  場 所:UNITY特別会議室 (大学共同利用施設2F)
    神戸市営地下鉄「学園都市」駅南隣

  プログラム
    13:30~ 近況報告、情報交換
    14:30~ 発表
      1.船井廣則(ISC・21主幹研究員)
       「洛中洛外図屏風余聞」
      2. 橋本敦史(神戸市外国語大学大学院修士課程2年)
       「“竹内敏晴”の生涯に見る、生の哲学に関する一考察」
      3.長沼美香子(神戸市外国語大学教授)
       「身体教育という近代 文部省『百科全書』の翻訳語から見えてくるもの」

 
下は当日わたしが持参したハンドアウトです。
 





2017年04月22日 

三井悦子世話人の呼びかけで開催されたISC・21名古屋月例会に参加しました。その内容は以下の通りです。

 「第114回 ISC・21月例研究会(名古屋)

○日 時: 平成29年4月22日(土) 13時30分~17時30分まで

○場 所: 椙山女学園大学 日進キャンパス 5号棟207教室

○プログラム:
   第1部(13時30分-):情報交換(ブック・レヴュー、研究活動など)
   第2部(14時15分-):研究発表
 ①河野文子さん:「<アメリカ>の自由について」
 ②船井廣則   :「信長の相撲好きについて」
 ③玉置通夫さん:「プロ野球の誕生-時代に翻弄されたスタルヒン」

下は当日配布したハンドアウトと資料です。

 
 
 
 

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2017年03月05日

松本芳明世話人の呼びかけで開催されたISC・21大阪月例会に参加しました。その内容は以下の通りです。

 「第113回 ISC・21月例研究会(大阪)

○開催日時:平成29年3月5日(日)13時~17時半

○開催場所:大阪学院大学5号館B2-02会議室

○プログラム:
13:00~14:15 近況報告・情報交換

14:30~17:30 『アメリカ 異形の制度空間』合評会②
①井上邦子先生: モンゴルの現状から考える
船井廣則 : 異形の制度空間の今後
③菅井京子先生: 20世紀中葉に世界的だった社会調整的思想(220頁)とは

*以上の3人の先生の話題提供の後、参加者によるディスカッション

下は当日配布した私のハンドアウトです。

 
 





2017年01月28日

井上邦子世話人・竹村匡弥世話人の呼びかけで開催されたISC・21「奈良山焼き」月例会に参加しました。
今回は西谷修さんの近著『アメリカ 異形の制度空間』の合評会でした。

下は当日配布した私のハンドアウトです。
翌日は竹村匡弥世話人に説明頂きつつ奈良(桜井市)のフィールドワークに出かけました。
フィールドワークの詳細はブログ「ふなひろメモランダム」(http://funahiro.seesaa.net/archives/20170204-1.html)にて公開中です。
 
当日は著者の西谷さんをお招きしていて、私が充分読み込むことのできなかった箇所についても直接質問することができました。もう一人のコメンテーター菅井京子さんの質問も含めて、それらの一つ一つに丁寧にお答えいただけました。それによってこの『アメリカ 異形の制度空間』という本の「奥行き」を感得することができました。と同時に、これまでその難解さゆえになかなか手に取ることができないでいたルジャンドルの著書に、今度こそ挑戦してみようという気にさせられました。
当日、「おみやげ」(!?)として、「「アメリカの世紀」の終わり」(現代思想1月号掲載)と「アメリカのない世界」(『世界』1月号掲載)のコピーを頂きました。これらも、そこいらの並みの評論家など足下にも及ばない、深い思想的基盤に立脚した論文でした。

下は当日の画像です。 
   
   左上:奈良教育大学 L206教室 
    休憩の後再集合しつつあるところ

 上 :山焼き開始前、花火の饗宴

 左下:山焼きも中盤。
    乾燥しきった草は勢い良く燃えま
    した。





2016年09月24日

ISC・21神戸月例会に参加しました。
下は国際セミナーの報告の際に配布したハンドアウト(PPT資料)です。
詳細な「滞在記」である『バスクの8日間』は、ブログ「ふなひろメモランダム」(http://funahiro.seesaa.net/)にても公開中。
 
 
 
 

懇親会は、Uさんご夫妻の「おめでとう会」を兼ねていて、コモドール・エステラというスペイン料理店で美味しいワインと料理を堪能しました。

   
 学園都市駅脇にあるユニティ大学共同利用施設内の1室での月例会風景 世話人T先生イチオシのスペイン料理店comodor ESTELAでの懇親会兼「おめでとう会」 




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2016年07月18日

名古屋場所を観戦しました。あいにく琴奨菊や豊ノ島が休場しており、彼らの活躍を見ることができず残念でした。   飯島和一『雷電本紀』小学館2005を先日読了。江戸大相撲が生き生きと描かれていました。
   



2016年07月16日

 豊橋市の夏の風物詩「祇園祭の打揚花火」がありました。豊川にかかる吉田大橋(国道1号線)あたり河川敷から12,000発の花火が打ち上げられました。打ち上げ会場から2kmほど離れた自宅から、2時間あまりの花火の饗宴を堪能しました。   
   
   
   


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2016年07月02日

 さる2月6日に逝去された稲垣正浩先生の追悼シンポジウムが7月2日(土)に、青山学院大学総研ビル10F第18会議室を会場に開催されました。

下は当日会場で配布されたシンポジウムのテーマ『「生存」と向き合うスポーツ学』の趣旨を掲げたリーフレットです。
 
続いて、プログラムをご紹介します。
 


 稲垣正浩先生には、私が大学に入学した1968年以来、48年間の長きにわたって学恩を受けてきました。先生は私の高校・大学を通じての大先輩であったこともあり、今日までずっとわたしの人生の目標でした。
 その先生が、今年2月6日、何の前触れもないまま有為の奥山を越えてゆかれました。私としては何か置き去りにされた気がして、なかなか気持ちの整理がつきませんでした。が、追悼シンポジウムの準備を21スポーツ文化研究所の皆さんと進めていくうちに、次第に「無縁」との「縁」を結ぶ用意ができてきました。
 おかげさまで、青山学院大学総研ビルで開催された追悼シンポジウムには多くの方々に参加頂くことができました。これも稲垣先生のご人徳と実感しました。
心よりご冥福をお祈りいたします。
                       合掌。
 

 

                                 シンポジウム開始直前のようす





2016年04月16日 

大阪学院大学で開催された「ISC・21月例研究会」で、「大相撲の来し方行く末 ―スポーツの
グローバル化と相撲―」を報告する機会をいただき、貴重なご意見・ご批判を頂戴することが
できました。

以下に発表時に用いたハンドアウトを掲載します。 
 
 

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