◆東三河の戦国時代◆

★★★時代の流れに翻弄された武将たち★★★

◆東三河の戦国時代◆
東三河の気風と戦国時代
長篠城の中堀  2001年 7月26日
今川氏の疑問? 2008年2月16日
戦国期の三河牧野氏


三河の歴史

【三河武士がゆく】
 

東三河の気風と戦国時代
 
◆影が薄い東三河
 
戦国時代から江戸時代にかけての、三英傑である、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康が、現在の愛知県出身であることは、よく知られています。信長と秀吉は尾張、家康が三河の出身です。私が住んでいる三河から、徳川家康という超有名人が出ているということだけで、なんだか誇らしげになってくるのですが、家康の出身は三河といっても西三河であり、歴史的には、東三河の武将に脚光が当たることはあまりありません。

歴史の大きな舞台には、織田・徳川連合軍が、武田勝頼を破った【長篠・設楽原の戦】が登場しますが、鉄砲を有効的に使ったということが、クローズアップされすぎて、地元の武将たちの意気使いなどは感じ取れません。「三河」と言えば「家康」というイメージが、全国的に強いばかりか、地元に住んでいるわたしにとっても、今ひとつ東三河の戦国時代というものがはっきりとイメージできませんでした。

この項では、自分自身はっきりとしないイメージを少しずつ説き明かしていきたいと思います。あまりかたくならないように、自分でもよくわかるように楽しく書いていこうと思います。途中、疑問や間違いなどありましたら、遠慮なく指摘してください。
 
◆統一されなかった東三河
 
わたしは、豊橋市(旧吉田)に住んでいます。「豊橋の代表的な戦国武将をひとり?」ときかれても、「誰かなあ?」「田原は戸田氏、豊川は牧野氏、奥三河は菅沼氏、え〜と・・・」となって、すぐにお答えできません。今でこそ豊橋市は、愛知県で人口が2番目か3番目で、東三河地方の中核的な都市となっていますが、戦国期に中核となるような武将は現れなかったのです。

応仁の乱以後、東三河でも下剋上による権力者の交代劇がみられ、小豪族が離合集散を繰り返していくわけですが、三河進出をもくろむ、駿河・遠州の大大名、《今川氏》と、三河の統一をめざす、西三河の《松平氏》や、松平氏と争い三河侵攻をねらう尾張の《織田氏》のと間で、複雑な動きを見せます。今川に属したり、松平と手を組んだりしながら、戦国生き残りをはかり、内通や裏切りなどの権謀術数も見られ、一族間の抗争も激しくなっていきました。

こうした状況下で、東三河では、全域を統一する大名が登場することなく、松平、今川の支配を受けながら、桶狭間の戦いの後、家康の三河統一を迎えます。家康の三河統一後も、甲斐の武田氏の侵攻により、武田氏に服属せざるを得ない奥三河の武将も現れました。この間、戸田氏や牧野氏の主流は滅亡します。菅沼氏は一族間の争いで疲弊し、奥平氏も長篠城を支えたとはいえ、一族の者を失います。これらの東三河の戦国武士団のうち、生き残った一族が、最終的に家康に従って、江戸時代の大名や旗本として活躍し、転封によって全国に広がっていくわけです。
 
◆のんびりしている気風
 
ここでは、三河を東と西に分けていますが、同じ三河でも、東と西、山間部・平野部・海岸部では、言葉・生活習慣・気候などが異なるようです。その影響かどうか、わかりませんが、気風・気質も違うと言われることがあります。現代でも、例えば学校の世界で、西三河から転勤してきた先生から「東三河は、教員も生徒ものんびりしている」という言葉をよく聞きました。裏返せば、競争力が弱いということであり、そうして考えてみると、勉強やスポーツでもどちらかというと、「西高東低」なのかなあと思ってしまいます。それでは、西三河のやり方をまねて、追いつけ追い越せとハッパをかければ、競争力が強まるかといえば、そうでもないのです。

これは、わたしが勝手に感じているだけで、何の根拠もありませんから、そんな人はいないでしょうが「データを出せ」とか言われたら困ります。

この、のんびりした気風が、直接、歴史にかかわってくるとは思いませんが、戦国時代だけではなく、他の時代の人々の動向を見ていると、やっぱり「のんびり」していたところがあったのではないかと思えてくるのはわたしだけでしょうか?
 
◆立ち向かい、心を揺さぶる人々
 
しかし、この、のんびりした気風のなかで、外野からみると「なんと無謀な」と思われる行動に出る武将たちもたくさん登場してきます。天下の大勢を見きわめて、おとなしく従っていれば、多くの犠牲者を出さずにすんだのに、みすみす滅ぼされなくてもよかったのにと、いう不可解な行動をとる人々に出くわすたびに、表面的にはのんびりしていても、ひとたびこうと決めたら動かない、意志の強さを感じます。

一族の長としてはゆるされない、政治的・戦略的には、無謀とも思えるような、間違った行動であったとしても、勢力を誇ったときの松平氏や今川氏、また、武田氏の向こうを張って、抵抗した武将たちの心意気にひかれてしまいます。さらに、一度は滅びたものの、落城寸前の城から脱出して、再び家を興した武将たちの生き様を見ていると、その不屈の執念とたくましさに勇気付けられたりもします。

戦国時代の表舞台にはあまり登場することがない一族や武将たちにスポットを当ててみようと思っています。

◆東三河の戦国時代◆
 

長篠城の中堀  2001年 7月26日
 
2度にわたって長篠城址試掘調査がおこなわれました。
500人そこそこの城兵が武田の大軍を向こうにまわして6日間も持ちこたえることができた理由の”ひとつ”が、ここにあります。

現在の駐車場から保存館方向にかけて中堀の存在が明らかになりました。この堀は薬研堀(V字型)であり、外堀と中堀の間の土塁を乗り越えてきた武田兵は、中堀にストンと落ちて、討ち取られてしまうというものです。

本丸から50メートルという幅の中に3つの堀が存在していたことになります。実際に駐車場に立って辺りを見回してみるとわかります。「狭い!」

幼い頃から訪れるたびに、「こんな小さな城が・・・」という疑問が湧いてきたものです。
信じられないことは、いくつかの偶然や必然などの条件が揃って、はじめておきるものです。

保存館で第1回目の調査報告書を求めたのですが、すでに完売とのことでした。残念!

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今川氏の疑問?
 

■桶狭間の戦い以後、東三河制圧まで 2008年2月16日


桶狭間の戦い以後、なぜ今川氏真は義元の弔い合戦をしなかったのか?簡単に(※簡単に見られている)今川氏が滅んでしまったのはなぜか?という疑問を持つ方も少なくないかもしれません。

さまざまな理由が考えられますが、私はまだ考えたことがありません。

桶狭間の戦いでは、総大将今川義元討死以外の損害にはあまりスポットは当たりませんが、有力な武将が討ち死にしたため、戦力的なダメージが大きく、反撃ができなかったという見方もあります。有力武将の多くが討ち死にしたときのダメージは長篠の戦いの武田勝頼もおなじようであったのかもしれません。私はこのところは知りませんのでまた機会があれば調べてみます。

今川氏が家臣団を統制する力、領国を支配する力はどの程度であったのでしょうか?とくに、東三河の武将に対する関係と遠江との関係はどうであったのかを調べていくといろいろと見えてくるのではないでしょうか。

松平元康が岡崎城に入り、今川と絶縁状態になり、東三河・遠江に侵攻してくるわけですが、あまり知られていないだけであって、今川対松平の戦いは何度もありました。調略と戦闘を繰り返しながら家康は東三河を支配していったのです。それまでにはいくつかの段階があると思いますし、そう簡単に今川方が退いていったわけでもありません。

上ノ郷城(鵜殿長照)、牛久保城(牧野保成)、吉田城(城代小原鎮実)の維持は東三河平野部を維持するためには不可欠です。しかし、上ノ郷城も吉田城も最終的には今川に見放されています。

吉田城を維持できなかったのか、しなかったのかわかりませんが、この段階にくるとあっけなく退いてしまうような弱さがあったようにも思えます。または、後詰めができるような状況になかったということでしょうか。東三河を維持する戦いの今川方の背景には遠江の武将たちの動向を考えなければならないでしょう。

氏真が本気でファイティングポーズをとり続けることが大事だったと思います。東三河の諸将たちにとっては、本気で今川氏真が家康と構えないのであれば、家康と最後まで戦う義理はないわけです。

家康に対抗する力と意気込みがなければ、最後まで今川に忠義を尽くしても一族滅亡がまっているだけですから、背信行為であると一方的に責めるわけにもいかないのです。よく言われることですが、近世の主従関係とは大いに異なった戦国時代の武士たちのバランス感覚のとり方、たくましさがあるわけです。

東三河の維持ができないということは、すなわち遠江への侵攻を容易くするといった意味があります。やはり東三河を守ることができなかった理由があったのでしょう。氏真が軟弱であったといわれますが、必ずしもそれだけではないと思います。東三河の武将たちと今川氏代々との関係や氏真との直接の関係などを見ていくことも大事だと思います。


◆東三河の戦国時代◆

 


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