三河に興りし牧野一族展にて思うこと
2009/11/01

■三河に興りし牧野一族(豊川市桜ヶ丘ミュージアム開館15周年記念特別展)2009/11/01
■田辺牧野家の祖は牧野成敏か? 2009/11/01
■牛久保城下古図と牧野田兵衛 2010/03/22

戦国期の三河牧野氏
戦国牧野氏をめぐる問題

【三河武士がゆく】
 
■三河に興りし牧野一族(豊川市桜ヶ丘ミュージアム開館15周年記念特別展)2009/11/01

平成21年10月24日におこなわれた講演会へ参加しました。演題は、「牧野一族が築いた三河の城」、講演者は学芸員の林弘之さんでした。

戦国時代に三河牧野氏が築いた城を、考古学の立場から説明していただきました。牧野城に虎口防御と思われる堀があった話は知りませんでした。1946年に米軍が撮影した航空写真を使っての説明では、戦国時代の河道と城の位置関係がよくわかりました。現在の豊川の流れとの違いを航空写真で見ると感覚として理解できるのです。

その他、牧野右馬允康成(やすなり)と牧野讃岐守康成(やすしげ)の二人の「康成」のお話しや、豊橋市賀茂町にある照山城主を、牧野讃岐守康成ではないかとするお話しなど、興味深いものでした。時間の関係で、発掘調査によって全容が明らかとなった八幡砦についてのお話を詳しくお聞きすることができなくて残念でした。講演後に質問に答えていただきました。存続期間は永禄四年(1561年)から翌五年にかけての短期間であり、生活の跡がほとんど見られないとのことでした。また砦では戦闘はおこなわれていないそうです。砦で防御するのではなく、砦から出てた闘ったということです。文献資料でも永禄年間にこの周辺である「鷺坂・片坂」での合戦が確認できます。

合戦場や照山城主については、「越後長岡と東三河」(私設電子図書館 新・佐奈川文庫)で詳しく考察されています。
私設電子図書館《新・佐奈川文庫》内

図録は完売間近のため、増刷したそうです。
特別展は11月8日まで。

■豊川市桜ヶ丘ミュージアム
http://www.city.toyokawa.lg.jp/shisetsu/bunkakyoiku/sakuragaokamuseum/index.html

 

■田辺牧野家の祖は牧野成敏か? 2009/11/01

講演会で、牧野田兵衛(伝兵衛)成敏が、田辺牧野氏(舞鶴藩)の祖ではないかというお話しがありました。

田兵衛成敏は、松平清康(家康の祖父)に通じて、吉田城攻めを助けた人物とされています。清康と戦った吉田城の牧野一族(田三の一族)は壊滅状態となりました。これが享禄二年(1529年)〜天文元年(1532年)のころです。清康の吉田攻めには諸説ありますので幅をもたせました。詳細はここでは省きます。

吉田城を落とした清康は、成敏を吉田城の城番として配置しました。成敏は守山崩れの後、戸田氏によって城を追われています。これが、天文六年(1537年)とされます。以後、成敏はどうなったのかわかりません。

成敏と田辺牧野家をつなぐ記述は、豊川市牧野町の牧野家に伝わる「牧野氏系図」にあります。この系図は、今回展示されています。問題の箇所には「成敏」について、「牧野田兵衛 傳兵共」「正岡住」とあり、朱書きで「舞鶴藩主之祖」とあります。

豊川市に伝わる牧野家の系譜は、このほかに熊野神社に伝わる系譜と辻村家に伝わる系譜の存在は知られていますが、わたしは牧野町に伝わる系譜もふくめて見たことがありません。引用されているものは見たことがありますが、原本がどのようになっているのかわからなかったので、たいへん貴重なものを見る機会を得たと思っています。

林氏によれば、牧野町に伝わる系譜は「牧野氏系図」の他に三本(三冊?)あるそうです。この三本をもとにしてまとめられたのが、「牧野氏系図」のようです。朱で書かれた部分は、他の三本にあったものではなく、「牧野氏系図」の筆者が考察して書き加えたとも考えられますが、その分量は何とも言えません。したがって、「舞鶴藩主之祖」は筆者の考察によるものであるようで、他の三本には「舞鶴藩主之祖」という記述はないそうです。では、何を論拠としているのかが問題になります。この三本を見ることができれば、「牧野氏系図」への道筋見えてくるかも知れないのですが、無い物ねだりはやめましょう。

成立時期は、田辺から舞鶴に改称されたのが明治二年だそうですので、それ以降であることは間違いなく、また系図中、朱で紀元(皇紀)が書き込まれていることから、紀元が一般的に用いられるようになってからと考えるのがよいのでしょうが、まったくわかりません。

牧野町に伝わる系譜と思われるものが、岡眞須徳氏による「弥彦神社末社「十柱神社」」(『長岡郷土史』第23号、昭和六十年)に一部掲載されています。これは、「三河牧野家系譜」としてあり、「牧野氏系図」と似ていますが、朱書きはなく、部分的にも違いがあります。これが、他の三本中の一本であるのかも知れません。また、『長岡の歴史』(昭和四十三年)の著者である今泉省三氏も「牧野町牧野家譜」の一部を引用しています。これについて、『三河に於ける牧野氏勢力の消長』(昭和三十八年)の著者である鈴木範一氏が今泉省三氏から資料の提供を受けていることを序に書いており、『三河に於ける牧野氏勢力の消長』所収の「豊川市牧野町牧野家系図」と『長岡の歴史』に引用された箇所を比べると、二ヶ所異なっているものの、両者の間で資料のやりとりがあったとも考えられます。「豊川市牧野町牧野家系図」は、「牧野町牧野家譜」のことをさすのか、家譜のなかに収められている系図であるか、あるいは家譜をもとに鈴木氏がつくったものであるかはわかりませんが、「牧野町牧野家譜」がベースになっていると思います。「三河牧野家系譜」と「牧野町牧野家譜」は別のものと思われます。

「牧野町牧野家譜」・「三河牧野家系譜」ともう一本(もしかすると「豊川市牧野町牧野家系図」にあたるものか?)をもとにして、明治以降まとめられたのが「牧野氏系図」ということになるのかも知れません。所有している方は当然わかっていることですが、想像するしかありません。あたっているでしょうか。

段々ややこしくなってきました。わたしも頭がボーッとしてきたのでここら辺で結論を。

『三河に於ける牧野氏勢力の消長』所収の「豊川市牧野町牧野家系図」に、「牧野田兵衛尉信成」「正岡ニ住ス 牛久保ヲ背 清康エ出ル」とあります。内容から考えて、この「信成」は「成敏」のことと思われます。そして、田兵衛につながるのが「牧野内匠」と「牧野八太夫」となります。田辺牧野の祖とされる牧野山城守定成(さだしげ)の通称は八太夫ということから、田辺牧野家、舞鶴藩主の祖を牧野田兵衛と考えたのではないでしょうか。

ただし、牧野田兵衛から牧野八太夫の親子関係がみられるのは、「豊川市牧野町牧野家系図」のみです。補強する資料が欲しいところです。また、「牧野氏系図」では、成敏の後には何も記していないのはどうしてでしょうか。かわりに、牧野出羽守保成の子に牧野成元をあげ、「山城守」としています。このためか、朱で書かれた法名は、田辺牧野家の祖とされる牧野山城守定成と同じです。どれが正しいのか確実なところはわかりませんが、成元と定成を混同しているように思います。

牧野田兵衛成敏は、三河牧野氏の動向に大きな影響を与えたにも関わらず、謎の多い人物です。もっとも戦国期の三河牧野氏については、わからないことが多く、成敏が特異ということではありません。しかし、牧野の系譜から意図的に切り離された様な感じを受けるのは私だけでしょうか。

 
■牛久保城下古図と牧野田兵衛 2010/03/22 
※2011/05/11改訂

豊川市光輝院(旧光輝庵)所蔵の牛久保城下の古図はよく知られています。

この古図に「牧野田兵衛」の屋敷が書き込まれています。牛久保城本丸の堀の外側に別の堀によって仕切られた地域があります。この地域を二の丸というのでしょうか、よくわかりませんが、ここに配置されているのは、牧野田兵衛、野瀬善八郎、榊原渋右衛門、真木又次郎、岩瀬林之助の屋敷で、城主牧野氏と関係が深い重臣的な位置にある武将の屋敷と考えられます。牧野田兵衛が、当時の牛久保牧野氏のなかで、重きを為していたことがうかがえます。

牧野成敏は、松平清康に通じて吉田城の牧野氏と対立し、清康が吉田牧野氏を下地合戦で滅ぼした後(この時の吉田落城年には諸説ある。享禄二年・1529年または、天文元年・1532年)、城番を命ぜられますが、守山崩れで清康が亡くなると(天文四年・1535年)、戸田氏により吉田城を追われています。

牛久保牧野氏は、下地合戦・吉田落城後、清康に従います。牛久保には牧野民部丞「成勝」がいたと思われ、成勝は天文五年(1536年)に八幡村八幡宮(豊川市)へ寄進をしています。同日、成敏も八幡宮へ寄進をしていることから、成敏と成勝は近い関係にあったと思われます。このことは、『豊川市史』(1973年)で述べられております。

天文五年には、清康は既になく、東の松平氏の支配力が弱まり、西の今川氏でも、同年今川氏輝が亡くなった後、家督争いがおこり、今川義元が家督を継ぐという不安定な時期でした。よって、東三河の武将たちは他国の制約を受けにくく、比較的自由に活動することができたと思われます。

松平清康と牧野成敏の関係、そして、牧野信成は清康によって滅んだことを考えますと、戦国時代では、昨日の敵は今日の友となることがよくあるとはいえ、この成敏と成勝の接近は不自然にみえます。

牛久保城下古図は、16世紀半ば頃、あるいは永禄年間の城下の様子をあらわしたものとされています。柴田晴廣氏は『牛窪考』でこの時期をさらに限定し、永禄八年(1565年)から永禄十二年(1569年)としています。

そこで、最初に戻りますが、どうして、牧野田兵衛の屋敷が牛久保城の重要な位置にあるのでしょうか?天文五年の牧野成敏と牧野成勝の関係と同様、どうしても不自然に感じるのです。

昨年、豊川市桜ヶ丘ミュージアムの特別展「三河に興りし牧野一族」を見て以来、しばらく離れていた牧野氏にまた興味が湧いてきました。

わたしのなかには、牧野田兵衛成敏以外にも、牧野貞成や天文元年の吉田城攻めなど多くの問題があります。

わたしの感じている多くの部分が仮定や推測ですので、答を出すのは難しいことです。

戦国牧野氏の同時代史料は限りがありますので、後世の資料を交えながら考えることが必要なのかもしれません。ただ、後世の資料のどの部分をどの程度評価するのかは、本当に難しいと思います。

 
戦国期の三河牧野氏
戦国牧野氏をめぐる問題
三河に興りし牧野一族展にて思うこと
■三河に興りし牧野一族 2009/11/01
■田辺牧野家の祖は牧野成敏か? 2009/11/01
■牛久保城下古図と牧野田兵衛 2010/03/22

 
★戦国牧野氏のことならココダ!

■越後長岡と東三河
私設電子図書館《新・佐奈川文庫》内 

戦国牧野氏のことが、多くの史料を基に考察されています。孫引きが多いなかで、信用できるサイトです。ここ数年もやもやしていた私の疑問が全て解けそうです。必見!(2002年08月13日)
 

★牧野氏や家臣団についての研究

■鈴木範一『三河に於ける牧野氏勢力の消長』1963年

■沢井耐三「『牧野古伯追悼連歌』考」1987年(『愛知大学綜合郷土研究所紀要』第32輯)

■松下伸「『牛窪密談記』に見られる牧野氏の出自に関する一考察−牧野氏と石清水八幡宮−」1995年(『三河地域史研究』第13号)

■柴田晴廣『穂の国幻史考』
 ※第三話 牛窪考

■伊東宏『山本勘助とその周辺』PBU出版部、2008年
 

 

【三河武士がゆく】