ミッドウェー海戦に思う

■ミッドウェー海戦に思う 四人の死  2012年01月04日
■ミッドウェー海戦に思う 山口少将の戦死の知らせ 2012/01/08
■ミッドウェー海戦に思う ミッドウェー海戦生還者の冷遇(1) 2012/01/09
■ミッドウェー海戦に思う もし勝っていたら 2012年1月16日
 
 
■ミッドウェー海戦に思う 四人の死  2012年01月04日

私と同年代なのだなあと。

二航戦司令官 山口多聞少将
加賀艦長 岡田次作大佐
飛龍艦長 加来止男大佐
蒼龍艦長 柳本柳作大佐

戦闘中戦死された方もいるが、同じ環境で、同じ教育を受け、同じ時代で、同じ立場であったなら、私も艦と運命をともにしていたのか?それとも、どうだったのか?けじめの付け方は人それぞれである。しかし、勇将・猛将・智将を失ったことが以後の戦いを大きく左右したのではないかと思う。
 
■ミッドウェー海戦に思う 山口少将の戦死の知らせ 2012/01/08

ご子息によれば、奥様が山口多聞少将の戦死を知ったのは、ミッドウェー海戦の年の暮れだったそうです。公表は翌年4月でしたが、奥様の遺品に二百通近い手紙があったように筆まめだった少将からの手紙が、何度出しても返ってこないことで海軍省に問い合わせてうすうす気付いたとのことです。(『歴史と旅』1999年9月号)
 
■ミッドウェー海戦に思う ミッドウェー海戦生還者の冷遇(1) 2012/01/09

内地に帰港した人たちには上陸が禁止され、部内秘という特別命令でミッドウェー海戦に関して海軍部内の者に対しても話すことができなかったそうです。また、その後の任地は南方の基地か艦隊勤務がほとんどで、内地にいくものは少なかったそうです。

扱いは、階級や部署によって様々だったようですが、実際にこのような扱いを受けた人たちがいたということは、まことに気の毒な話です。水木しげる氏のところでも書きましたが、当時の日本軍のなかには、命をかけて戦ってきた人に「よくぞ生きて返ってきた」と言えない人たちがいました。「どうして死んでこなかった」と言われたら、死ににいくか、やる気をなくすのではないでしょうか。自分ならどうなのだろう?
 
★「赤城」戦闘機隊・海軍上飛曹
「乗組員(筆者註:陸奥)から白い眼で見られ、柱島入港までいやな日々であった。柱島で駆逐艦に移乗した。ミッドウェー関係者は全員隔離され、敗残兵あつかいを受け、鹿屋基地の敗残兵収容所に入れられた。監禁生活すること一ヵ月、仕事もなく、運動や演芸会で毎日を過ごした。一ヵ月後、大分航空隊転勤を命ぜられ、皆から羨ましがられながら転勤した」
『丸別冊 運命の海戦 ミッドウェー敗残記』
 
★「赤城」雷爆兵器員・海軍兵長 
「六月十八日、われわれの便乗艦陸奥は、ようやく瀬戸内海の柱島泊地にたどりついた。帰投後、ミッドウェー作戦部隊参加者は、日陰者あつかいとなり、われわれはとりあえず、九州の富高第一航空基地に仮入隊した」
『丸別冊 運命の海戦 ミッドウェー敗残記』
 
■ミッドウェー海戦に思う ミッドウェー海戦生還者の冷遇(2) 2012/01/10

同じ飛龍でもこのようなケースもありました。
 
★「飛龍」戦闘機隊・甲飛第三期
「その後、私は軽巡「長良」に移乗し、内地へ帰投したが、鹿屋航空隊へ移され、軟禁状態に置かれた。ミッドウェー敗戦の事実を糊塗するためであった。」
『歴史と人物』太平洋戦争シリーズ61年冬号
 
★「飛龍」一分隊長
呉に帰投後は、飛龍副長からの「戦訓講話をせよ」との命令で、私は某日、長門艦上の後甲板で、ミッドウェー海戦の戦訓を講話することになった。第一日目は第一艦隊対空関係員、第二日は第二艦隊対空関係員、第三日は第一、二艦隊および中央の将星の方がたが出席された。この講話は、重要な問題がつぎつぎと出てくるので、聴衆のみなは、息をつめて熱心に聞いていた。七月十日、私は海軍砲術学校教官兼分隊長に補せられ、戦訓のお土産をたくさん持って赴任した。」
『丸エキストラ』95日本空母戦記
 
■ミッドウェー海戦に思う もし勝っていたら 2012年1月16日

興味深い、また、考えさせられるような内容です。

『証言・私の昭和史』B太平洋前期 テレビ東京編 文藝春秋(1989年)
昭和41年6月3日放送

南雲機動部隊の参謀長であった草鹿龍之介氏と航空参謀であった源田実氏への質問です。

質問者が、ミッドウェー海戦で勝ったとしたらどうでしたかという質問に対して、

源田「今考えてみますとね、このミッドウェーで勝ったとしたらねえ、これは、いくさは少し変わった方向へいったと思うんです。しかし、アメリカのあの膨大な生産力、それからアメリカ人の気質、そういうことを全部総合するとね、やっぱり最終的にはいくさに日本が勝つわけにはいかなかったと思うんですよ。

草鹿「まあ、大観してみるとねえ、源田君のいうとおり、そういうことになるでしょうな。それは当時、あとでもそうだけど、僕はアメリカの、たとえば飛行機の生産力なんか聞いたんですけど、日本のあたりと全然ケタが違いますからねえ。最初のうち、あんまり差があるもんですから、そんなことはウソだろうと思っとったんです。ところがそうではないんですねえ(後略)」

※草鹿龍之介氏は、日米開戦より前に海軍軍令部作戦課長の時期がありました。

じゃあどうして、アメリカと戦争を始めたのか?
という疑問は小学生でも湧いてくるのではありませんか。

 
 
 
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近代のおはなし・戦争のおはなし
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