「 筆と書 」

 一.筆の製法伝来と豊橋筆の歴史

 西暦八〇〇年頃の筆を再現する前に、筆の歴史を調べてみた。

 最古の筆は、中国の戦国時代、楚の遺跡から発見されている。 伝説では、秦の将軍である蒙恬が初めて筆を作ったと伝えられていたが、 秦代以前の筆が遺跡から発見されたことにより、現在では蒙恬は従来の筆を改良した人物とされている。

 日本では、四世紀後半頃から、いくつもの小さな国から、大きな国の成立に伴う、 行政上の文章の必要性から、毛筆が使用されるようになったと推測される。 この時代、朝鮮半島東南部の鉄文化の栄えた伽耶と大和政権とは密接な関係を持っていたと思われる。 従って日本で最初に筆を作ったのは、伽耶からの帰化人であると推測される。 また、論語十巻、千字文一巻を伝え、日本に文字を普及させた人物と言われている百済の王仁が、 多くの技術者達と共に来朝したのが、五世紀初頭頃であったため、 日本では四世紀後半から五世紀始め頃にかけて、筆が生産されるようになったと考えられる。

 王仁によって千字文が伝えられたのであるが、現代の千字文は周興嗣によって六世紀始め頃に作られたもので、 もしこれが事実とするならば、この時に持ってきた千字文は、周興嗣によって作られた「天地玄黄宇宙洪荒」から始まる千字文ではなく、 三、四世紀頃に作られたと言われる、「二儀日月雲露厳霜」から始まる、全く別の千字文であったと推測される。 この時代には「急就篇」が広く使われていたと思われるので、このような千字文を持って来たのは、 王仁来朝以前に「急就篇」が日本に伝わり、ある程度文字が普及していたとも考えられる。

 その後、東アジア情勢の変化に伴い、外交方針を、倭の五王の時代から転換し、 中国と対等の立場として、六〇七年に聖徳太子は煬帝のもとへ遣隋使を派遣した。 翌年、小野妹子と同行した多くの留学生・学問僧・又その後の遣唐使によって当時の ※1中国筆の製法も日本に伝わったと思われる。 しかし、筆の製法に関する記述はないため、豊橋の筆の職人だと自らに言い聞かし、 豊橋筆の歴史を紐解く事で、筆の歴史と製法技術の伝承等を追求することにした。

 文献によれば、豊橋筆の歴史は江戸時代から記録されている。 江戸時代は封建制の解体過程であり、手工業の中でも繊維や醸造など大量の需要がある商品では、 問屋制家内工業から一部ではマニュファクチャーの段階にまで発展するものもある。 しかし、毛筆などの手工業は依然として幕藩体制の枠内にとどまっていた。 したがって、各藩には毛筆製造業者がいたと思われる。 現に豊橋市第二巻によれば、吉田藩(豊橋)では、正徳二年(一七一二)「吉田惣町差出帳」筆師一名、 寛延三年(一七五〇)「吉田弐拾四町指出帳」筆師一名となっている。 ところが、享和二年(一八〇二)「東海道御分間ニ付当宿方書上控帳」では、筆師〇名と表記されているのだ。 つまり、一度筆師が絶えてしまっているのである。 その後、文化元年(一八〇四)「豊橋筆の伝統的工芸品の指定の申出書」を見ると、 京都の筆師・鈴木甚左衛門が、吉田藩学問所の御用筆匠に迎えられている。 よって、京都より御用筆匠を迎えたことが、豊橋筆の源泉と記されているのは納得できるのであるが、 同書簡に、その後「下級武士の副業として筆作りが盛んになった」と記されており、その記述に対しては疑問に思う。 当時、封建制解体過程での下級武士の生活は困窮の極みに達していた。 これら下級武士を救済するため、事実上の賃労働者としていろいろな副業が奨励されていた藩もあったので、 下級武士の副業として筆作りが行われていたことは納得できる。 しかし、盛んになるほどではなく、実際は細々と行われていたと推測されるからである。 なぜならば、当時の筆の生産と消費は依然として幕藩体制の枠内にとどまっていたため、 絶対的需要がそれ程多くないと想定されるためである。

 明治に入り、※2芳賀次郎吉が 東京に出て従来の紙巻筆(芯巻筆ともいう)から 現在の筆(※3水筆)の技術を習得した。 そして、その弟子・佐野重作(明治二一年独立)が百有余名に及ぶといわれている多くの弟子を養成した。 このことが結果として、今日の豊橋筆の基礎を作った。そして、昭和十年代には従業員数六〇〇名に達したのである。

 なぜこれほど短い間に、これほど多くの職人を養成できたのであろうか。 また、なぜ豊橋が広島と並ぶ二大生産地として残ったのであろうか。これには考えられる点が三つある。


第一 弟子を養成するメリット

  豊橋は後発生産地であるため、有力地元メーカーが少なく、 急激な職人養成は直ちに生産過剰に直結する。 封建的徒弟制度には、奉公終了前後に技術を習得するために旅にでるという習慣もあり、 生産過剰の対策として、筆の各生産地へ修業に出すことで職人の技術の向上と人員の削減を図ったと思われる。 また、筆の販売の面では大消費地の下請けという形をとった。 だが、いかに需要拡大時といえども大消費地には既存の職人が多くいたために、注文は下級品が主体であった。 そのため、大量生産(分板切り)を行わなければならなかった。 この生産方法は単純作業の工程時間が長くなり、結果として弟子を養成するには最も適していた。 むしろ、弟子を養成すること自体が親方自身の収入増になったわけである。 これに対して、大消費地の職人は高級品主体であったため、 弟子を養成するためには自らの仕事を犠牲にしなければならず、 弟子を養成することは容易でなかったと思われる。


第二 地場産業としての形成

  養成された弟子が一人前になると、親方を見習い自分自身もまた、弟子を養成したために、急速に生産量が増えた。 そのために、筆に関連する職業が人為的、あるいは自然発生的に発達し、地場産業として形成されたと考えられる。


第三 問屋制家内工業による生産形態

  一つ目は、豊橋における筆の生産が典型的問屋制家内工業であった点にある。 この場合、職人は市場から切り離されると共に、原料・製品からも分離される。 つまり、事実上職人は賃労働者の地位になるのである。 これに対して、大消費地のほとんどの職人は、全生産手段を自己で所有し、生産し、直接販売したり、 また、メーカーに収めるという、中世的手工業の形態であった。

  両者の違いは、原材料である。筆の生産には設計図は無い。見本が設計図である。 見本を分析した上で毛組みをしなければならない。この毛組みが大変難しい。 一人前の職人となってもすぐには毛組みができない。 前者の問屋制家内工業の場合は、問屋が毛組みをしてくれる。 これに対して、後者の中世的手工業の場合は自ら毛組みをしなければならないし、 不足した原料は自ら原料商に行き、直接目で見て購入しなければならない。 このような形態では、問屋制度と同じように後継者を養成しても、その養成年数は格段に長くなるのである。

  二つ目は、問屋とはブローカーとも称される中間搾取業者である点にある。 このために積極的職人は、自ら中世手工業の生産形態へと移行し、 そしてこの中から商才の有る人が又問屋になっていくのである。

  これに対し消極的職人や、色々な理由で、中世手工業の生産形態へと移行できない職人の中には、 問屋制度自体が事実上の職人救済制度となりうる場合もあった。結果として養成した職人の定着率が高くなるのである。

  問屋制家内工業の豊橋と広島が残ったのは、歴史的必然性ではないかと思う。


 今後の毛筆の生産はどのようになるであろうか。 現在豊橋では、生産される筆の大部分が高級品であり、職人の技術水準は、歴史上最高に達していると思われる。 しかし、職人の高年齢化は如何ともしがたく、伝統技術の継承のためには、職人の養成が急務だと思われる。 また一方では、絶対的需要の減少と中国製品の急増によって縮小再生産(問屋制度自体崩壊過程に入っている)になっている。 このような状態で、職人を養成するのは非常に難しい。仮に養成できたとしても、果たして生活できる程の仕事があるのか。 職人として生活していくならば、各種多様な筆の生産技術を習得しなければならない。 したがって、その養成に一〇年以上はかかると思われるし、その時筆に関連した職業が果たして残っているであろうか。 この場合、全生産手段を自己で所有し、生産し、直接販売しなければならず、また、筆に関連する技術までも習得しなければならない。 果たしてこのようなことが可能であろうか。このような過酷な条件に対応できる可能性があり、 わずかな望みを託すことが出来るのは、問屋の後継者であろうと思われる。



※1  百済系の筆は雀頭筆といわれる短峰、中国系は長峰の筆といわれている。

※2  吉田藩鉄砲組の藩士で、内職として毛筆を製造していたが、 明治四年廃藩置県により失職している。

※3  現代の筆のことを、水筆と称しているが、筆には関東系と関西系があり、 豊橋は関西系に属するため、水筆への移行が遅かった。









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