<歴史概要>

[校区の歴史概要]

堀切校区は、渥美半島の先端伊良湖岬から5キロメートル程東で太平洋に面し、表浜と呼ばれる片浜十三里の美しい砂浜がある堀切と小塩津の2つの地域であります。

渥美町史によると『堀切は、室町時代三代将軍足利義満のころまでは伊勢神宮領であったが、以後、公家領に移行し、戦国時代に至った。江戸時代は、天領(幕府直轄領)から寛永2年(1625)旗本清水氏の知行地となり、中山陣屋の支配下となった。しかし、寛永16年から17年の約1年間、清水家の断絶があり、同家再興のとき、西堀切村は清水家領に戻ったが、東堀切村は天領のままとされた。西堀切村は、明治まで清水氏の知行地として変わらなかったが、東堀切村は、鳥羽藩領、遠州相良藩領、幕府代官所支配と変転した。
  安政元年(1854114日の大地震と津波で西堀切村233世帯のうち113世帯、東堀切村68世帯のうち17世帯の家が津波によって流されるという大被害を受けた。そのため、当時は現在の国道42号あたりに住んでいたが、100メートルほど北側の現在地に集団移転した。
  明治11年東西の村が合併し、堀切村に、明治22年堀切村・小塩津村・日出村・伊良湖岬村が合併し、伊良湖岬村に、翌年の明治23年堀切村と伊良湖村に分村、明治39年伊良湖岬村に、昭和30年伊良湖岬村・泉村・福江町が合併し、渥美町に、平成17年渥美町が田原市と合併し、田原市となった。』(別記のとおり)

小塩津は、小塩津史によると『持統6年(692)持統天皇が当地に行幸の際、この地を灘崎と呼び、磯岩が沖合いはるかに湾曲して入江となり、波も静かで風向もよく、伊勢地に渡る唯一のよき港町で戸数も300以上を数えたとある。日吉神社建立のとき村の名前も越津と改められたが、828年の大地震で越津の海岸は大陥没し、美しい磯岩や家並みも半分ほど海に沈んだため、住民は北へ逃れ移り住み、今の地名(小塩津)に変えたと伝えられている。
  江戸時代のはじめは、天領であったが、あとは旗本清水氏、天領、鳥羽藩領、天領、遠州相良藩領、上総大多喜藩領と旗本本多氏の二者、旗本諏訪氏と旗本本多氏と幕府の赤坂代官所の三者というめまぐるしい領主変遷をした。』

堀切校区は、昭和20年頃までは半農半漁の生活を送っていました。戦前は養蚕が盛んでありましたが、戦争が始まってからは生糸の値が暴落したため、養蚕は廃れました。そのため、桑畑を起こして芋主体の作付けに変わっていきました。戦後になると、漁業も不振となりさらに、昭和30年頃からは芋も斜陽となり園芸作物へと変わっていきました。

この地域の生業が一気に変貌したのは、豊川用水の通水(昭和43年)によるもが大であります。電照菊をはじめメロン、トマト、鉢花、観葉植物などの施設園芸栽培の全国有数の産地となり、専業農家率も高い地域となっています。

・別記 合併史

明治初年

明             治

昭 和

30. 4.15

平 成

17.10. 1

11.12.28

17. 8. 1.

22.10. 1

23.11. 7

30. 2.22

39. 7.16

和地村

 

越戸村

和   地   村

 

 

 

 

東堀切村

堀 切 村

堀 切 村

西堀切村

小塩津村

 

日出村

 

伊良湖村

伊良湖村