[校区の歴史概要]堀切校区は、渥美半島の先端伊良湖岬から5キロメートル程東で太平洋に面し、表浜と呼ばれる片浜十三里の美しい砂浜がある堀切と小塩津の2つの地域であります。 渥美町史によると『堀切は、室町時代三代将軍足利義満のころまでは伊勢神宮領であったが、以後、公家領に移行し、戦国時代に至った。江戸時代は、天領(幕府直轄領)から寛永2年(1625)旗本清水氏の知行地となり、中山陣屋の支配下となった。しかし、寛永16年から17年の約1年間、清水家の断絶があり、同家再興のとき、西堀切村は清水家領に戻ったが、東堀切村は天領のままとされた。西堀切村は、明治まで清水氏の知行地として変わらなかったが、東堀切村は、鳥羽藩領、遠州相良藩領、幕府代官所支配と変転した。 小塩津は、小塩津史によると『持統6年(692)持統天皇が当地に行幸の際、この地を灘崎と呼び、磯岩が沖合いはるかに湾曲して入江となり、波も静かで風向もよく、伊勢地に渡る唯一のよき港町で戸数も300以上を数えたとある。日吉神社建立のとき村の名前も越津と改められたが、828年の大地震で越津の海岸は大陥没し、美しい磯岩や家並みも半分ほど海に沈んだため、住民は北へ逃れ移り住み、今の地名(小塩津)に変えたと伝えられている。 堀切校区は、昭和20年頃までは半農半漁の生活を送っていました。戦前は養蚕が盛んでありましたが、戦争が始まってからは生糸の値が暴落したため、養蚕は廃れました。そのため、桑畑を起こして芋主体の作付けに変わっていきました。戦後になると、漁業も不振となりさらに、昭和30年頃からは芋も斜陽となり園芸作物へと変わっていきました。 この地域の生業が一気に変貌したのは、豊川用水の通水(昭和43年)によるもが大であります。電照菊をはじめメロン、トマト、鉢花、観葉植物などの施設園芸栽培の全国有数の産地となり、専業農家率も高い地域となっています。 |
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・別記 合併史
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