校区内に存在する施設、史跡、並びに大切な地域資源などを紹介します。 |
|
〔初立池〕 豊川用水の最終調整池として、昭和43年に完成しました。土盛り式ゾーンタイプと呼ばれる本堤と副堤をもち、豊川用水東部幹線水路の末端へ伊良湖サイホンから導水する貯水量160万立方メートルのダム貯水池です。 |
|
渥美の森展望台からの風景 |
〔渥美の森〕 生活環境保全林整備事業として、愛知県が、昭和61年から3か年にわたり整備し、平成元年4月に開園しました。自然林との調和を図りつつ、四季折々の変化を楽しませてくれる樹木を多く取り入れ、自然観察、森林レクリエーションに適しています。渥美運動公園に隣接しており、林間スポーツの拠点としても利用できます。(区域面積28.24ha) |
ページの上に移動 | |
〔渥美運動公園〕 旧渥美町総合運動場は、昭和56年町民のスポーツ活動と健康つくりの場として、建設されました。 平成17年10月1日渥美町が田原市と合併したため、渥美運動公園となっています。 鉄筋コンクリート2階建 (小塩津町後山地内) |
|
〔ハマボウ〕 アオイ科に属する落葉小喬木で西南暖地の海岸付近に自生しています。紀伊、伊勢、志摩地方に自生しているものはありますが、堀切町に自生しているものが分布の北限にあたるとして、昭和30年7月1日愛知県指定天然記念物に指定されました。初夏から8月にかけてムクゲに似た鮮やかな花を咲かせます。 |
|
〔ハマセンダン〕 ミカン科の樹木で、国外では台湾、フィリピン等に分布し、国内では九州、四国、本州にかけての海岸近くに分布する南方系の高木で、樹の高さは20mに達します。 堀切小学校地内にあるハマセンダンは、幹囲3.1m、樹高10m、樹齢およそ500年、平成5年3月4日渥美町指定天然記念物、愛知県内で唯一、また太平洋岸における日本列島最北のものであり、きわめて貴重な存在であります。平成8年から樹勢回復作業が行われています。 |
|
ページの上に移動 | |
〔堀切市民館〕 旧堀切集落センターは、昭和56年農村地域農業構造改善事業として、建設されました。 平成17年10月1日渥美町が田原市と合併したため、堀切校区の市民館となっています。 鉄筋コンクリート2階建 |
|
〔小塩津集落センター〕 昭和53年、地区再編農業構造改善事業として農協主体で建設、事業費は国県町の補助金と小塩津の地元負担金(中電の地域協力金で対応)、渥美町が田原市と合併により、愛知みなみ農協から小塩津自治会に贈与されました。 鉄筋コンクリート2階建 |
|
ページの上に移動 | |
〔岬中部集落排水処理場〕 堀切、小塩津、一色地区のし尿、生活雑排水等の汚水を処理し、生活環境の改善を図るため、平成14年度から工事が始められ、平成19年度に供用が開始されています。 処理対象人員 2,780人 |
|
〔伊良湖岬保育園〕 旧渥美町が平成16年度に作成した保育所統合計画に基づき、平成17年度伊良湖保育園、小塩津保育園を廃止(休園)し、堀切保育園へ統合、平成19年4月堀切保育園と和地保育園を統合し、伊良湖岬地区1園として開園した保育園。 RC平屋建、延べ床面積1,785.88u、定員150人 |
|
ページの上に移動 | |
〔堀切小学校〕 昭和27年校舎を取り壊し2棟の校舎とする。 昭和34年度 プール建設 25m6コース 昭和51年度 鉄筋コンクリート3階建 事業費 1億3,265万円 昭和55年度 屋内運動場 事業費 1億2,480万円 昭和57年度 鉄筋コンクリート3階建 事業費 1億8,142万円 昭和61年度 プール建設 25m6コース 事業費 5,100万円 (堀切町出口地内) |
|
〔伊良湖岬中学校〕 昭和22年 創立 昭和23年 木造の新校舎完成 昭和44年度 鉄筋コンクリート2階建 事業費 3,531万円 昭和48年度 鉄筋コンクリート2階建 事業費 2,060万円 昭和49年度 屋内運動場 事業費 9,645万円 昭和52年度 鉄筋コンクリート3階建 事業費 1億900万円 平成3年度 プール建設 25m6コース 事業費 6,798万円 (小塩津町宮構地内) |
|
ページの上に移動 | |
〔旧伊良湖フラワーパーク〕 昭和36年2月3日、豊橋鉄道が渥美フラワーセンターとして、トロピカルムード漂う400種類に及ぶ熱帯・亜熱帯の植物を展示し、観光地伊良湖岬への集客を図るため開園しました。昭和51年3月施設を拡大、昭和54年ベゴニア館建設。 全盛期には年間30万人を超える観光客等で賑わいましたが、平成16年に約10万人にまで減少し、平成17年3月に閉園となりました。 近年では、田原市観光協会が「菜の花まつり」の会場として活用されています。 (堀切町浜藪地内) |
|
〔ボタ〕 この地域は、昔から高潮や津波によって、大きな被害を受けていました。そこで、昔の人は当時食べていた貝のからを土と混ぜて、大変な手間と労力で堤防を作り上げました。それは「ボタ」と呼ばれ、現在でも一部が残っています。 この「ボタ」を題材として、平成19年度に名古屋市の特定非営利活動法人レスキューストックヤードが、郷土史研究家や地域の方の取材を基にデジタル紙芝居を作成しました。(ここをクリック) (堀切浜藪地内) |
|
ページの上に移動 | |
〔おもいでの地碑〕 太平洋戦争時の出征送迎地 (堀切宮裏地内) |
|
〔神明社〕 東の村社 寛永17年(1640)旗本清水家の再興が成ったとき、西堀切はその知行地に戻ったが、東堀切は天領として残された。これが契機となって村が分かれ、その後東堀切の氏神として歓請された神社と思われる。 (堀切宮裏地内) |
|
ページの上に移動 | |
〔大通寺〕 東の菩提寺 (堀切寺ノ東地内) |
|
〔常光寺〕 応仁元年(1467年)の応仁の乱のころ、烏丸大納言は戦火を恐れて渥美にやってきました。当時、遠州現在の静岡で修行を積んだ潔堂禅師がやってきて、堀切の慧月庵という観音堂に住み、仏様に仕える日々を送っていました。烏丸大納言は禅師のもとで剃髪して保美の霊山寺に入り、翌2年慧月庵を常光寺と改め、潔堂禅師を開山として一寺を建立。 曹洞宗高位の寺 東海七福神のひとつ布袋尊を祭る (堀切鳥屋道地内) |
|
ページの上に移動 | |
〔寅之神社〕 西の村社 祭神 手力男命 末社 祖霊社(戦没者)遠々社 海難除けの信者が厚く、沖を通る船が帆を下げ、航海の安穏を祈ったという。 (堀切和名山地内) |
|
〔鯛塚〕 大正時代の魚の供養碑 (堀切瀬古畑地内) |
|
ページの上に移動 | |
〔西の祠〕 摩利子天を祀ってある。 (堀切川畑地内) |
|
〔小塩津教会跡〕 宝暦五年、元武家の医師内田玄仙の子孫守埜守と同僚の岩崎義憲、市木敬太郎と3人で2階建て20坪の教会を建てました。牧師高橋正臣にて明治20年教会を開き布教に勤めました。 当時は、毎日のように小学校帰りに大勢の子供たちは教会で遊び、牧師から本やお菓子をもらい、夜には老婆たちの信徒が集まったといわれています。 (小塩津中村地内) |
|
ページの上に移動 | |
〔川合伊左衛門、久衛門の碑〕 (小塩津宮構地内) |
|
〔正福寺〕 奈良時代(天平20年頃)天台宗はの山田泉福寺が開基され、平安後期藤原家より仏像が贈られました。以来鎌倉時代に天台三福寺と称されました。室町時代鳥丸大納言が乱を避けて保美に来て、堀切に常光寺を建立、この時常光寺の末寺となり曹洞宗に変わり、昭和28年独立。 (小塩津右善坊下地内) |
|
ページの上に移動 | |
〔耕地整理の碑〕 明治42年小塩津の北部、大池の造成と保美側の田 畑整理事業の碑。 (小塩津宮構地内) |
|
〔日吉神社〕 『三河国内神明名帳』に「従五位上伊久佐男天神」とある神を氏神としていることをいう。伊久佐男天神は、馬越のあたりに祀られていたと伝えられる。現在、末社のうちに白山社はないが、「白山」と呼ばれる山がある。池之御前社は海岸近くに祀られていたものを日吉神社境内に遷座させたもの。 (小塩津宮構地内) |
|
ページの上に移動 | |
〔右善坊大権現〕 持統6年(692年)、持統天皇が当時行幸の砌、入り江の風光美を称え、日吉神社の歓心と共にこの山頂にも菩薩をお祭りしたと伝えられる。 以降正覚院右善坊なる者大権現を祭ると共に大峰山開祖の役の行者神変大菩薩を祀り、修験の場とした。江戸時代からの各網元は大漁を祈願すれば朝には必ず漁があり、また商売も繁昌した。 (小塩津右善坊構地内) |
|
〔小塩津池〕 豊川用水の貯蔵池 (小塩津東三反田地内) |
|
ページの上に移動 | |