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Top Pageおはなし>仏教の教え−何もない世界
無我
前回の「移ろい行く世界」ですべての存在はつながりがあり、また無常であることを述べましたが、それぞれの存在はどのようなものなのでしょうか?仏教には諸法無我-しょほうむがという言葉があります。「あらゆる事物には、永遠・不変な本性である我(が)がないということ。」と大辞林にあります。私達の存在も含めてすべてのものは、その存在の中心と思えてしまう「我」がないとはどういうことでしょうか?「でも自分にはこの体があるし、五感で感じ、頭で考えることもできるではないか」という意見もおありでしょうが、はたして「諸法無我」をどう受け入れればよいのでしょう。
自分が生を受けて、呼吸をして食べ物を食べ、親に育てられ、教育を受け、いろんな人に会い、そして今に到ります。もし呼吸をしてなかったら生きていないでしょうし、食べ物が違ったら体型も違います。今まで会った人や受けた教育が違えば当然今の自分とは違います。今、ここに自分があるのはこれまでのさまざまなご縁のおかげであり、自分というものは、運命によってこうなるべくしてなったものではありません。自分の存在自体も、諸行無常のこの世界ではさまざまな因縁のなかに映し出された影のようなものなのでしょう。「諸法無我」とは、前回述べました「諸行無常」を違う側面から言い表したものなのです。

涅槃寂静−ねはんじゃくしょう
いくら頭で理解したつもりでも、やっぱり「自分」にとらわれてしまうのが私達人間です。人間として生きていく以上、どうしても自分の煩悩に執着することや、自分と他とを比べ、差別したりすることから自由になることは大変なことです。それでも、真実のあり方に目覚めることによって、この上ない安らかな涅槃の境地に到ることができるといいます。そのような安らかでしずかな境地を涅槃寂静といいます。そして、そのような真実のあり方に少しでも近づくことができるように、仏教の教えがはるか釈尊の時代から伝えられてきたのです。

諸法無我
すべてのものに固有にして・不変の実態的個我・本質はないということ





涅槃寂静
諸行無常、諸法無我の真実に徹たとき自覚されるしずけさの境地


三宝印
釈尊の教えを示した三つのの特徴。諸行無常、諸法無我、涅槃寂静の三つのことである。これに、一切皆苦を加えて、四宝印ともいう。



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